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私がよく思考のヒントを得るのに「利用している」(つまり、ご本人の思想や性格はあまり好きではないし、作品も好きではない)某漫画家のツィートだが、二次創作は初心者が創作する入り口としては非常に優れた手法だと思う。
と言うのは、小説や漫画を書く初心者が苦しむのは「キャラクター作り」であるからで、話自体は松本清張が言うように「人物が3人いれば話はできる」からである。つまり、キャラクター同士の干渉によって話が動いていく。だが、面白いキャラクターを創造するのは難しい。どうしても類型的キャラクターしか想像できないのが初心者の常なのである。だから、「二次創作」が有効なのである。
「話」を作ること自体がさほど大変でないことは、「なろう小説」の話がほとんど異世界冒険物であることから分かるだろう。これは、キャラではなく、RPGの「お約束」を借りた二次創作的な作法だからだ。

(以下引用)

同人誌=二次創作、という概念は自分にはピンと来ない。描きたいものがあるのに、なんで人のネタをいじらなきゃならないんだ。命は残り少ないんだ(二次創作したい方は全然かまわないと思います。同人即二次創作、の意味で語る人に「はあ?」って思うだけです)。

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まあ、加害者の時も被害者の時も、その立場立場で「自分に都合の良いこと」を言っているわけで、何かの事件での関係者の発言はすべてポジショントークだという前提で聞くのが良い。
この「ポジショントーク」という言葉は、人生問題の混迷を脱する魔法の言葉のひとつだ。
親は親の、子供は子供のポジショントークで話すし、教師は教師の、生徒は生徒のポジショントークで話すから、一方だけを全面的に信じるべきではない。

(以下引用)

戸塚ヨットスクールに関しては「いじめは当然。体罰は当然!」とか主催者が言ってたのにもかかわらず、刑務所でいじめられたりした結果泣き言を言ってて、しかもその具体的内容を聞くと「お菓子を減らされた。鬼だ」とかそのレベルだったりして笑っちゃったよな。
興味深いツィートや記事のリツィートや転載が多いのでよく「利用」している某漫画家のツィートだが、私はこの漫画家のデビュー時から知っていて、私には少しも面白く思えない漫画を描いていた。その後、まったくメジャーにならないが、現在まで漫画家を続けていられるのは、根性だけは凄いと思う。
で、私が彼の漫画に感じた「面白くない」という気持ちを分析すると、それは端的に「ユーモアセンスが無い」に尽きると思う。優れた漫画家のほとんどは、シリアスな作風の人間(たとえばつげ義春など)でも、たまにユーモアを入れることがあり、その時には冴えたユーモアセンスを発揮するものだ。「李さん一家」のラストの「で、その一家がその後どうなったかというと」「今でも隣にいるのです」の強烈なズッコケ感は有名で、多くの漫画家に模倣されたものだ。
ただし、ユーモアが知性のレベルを示すと結論づけるのは短絡であり、他者を馬鹿にすればそれだけでユーモアだとされる「現代の笑い」が低レベルな笑いであることは言うまでもない。
結論としては、ユーモアが低レベルな漫画家は大物になれない、ということだが、たとえばゆうきまさみのようにデビュー時はさほど冴えたユーモア感覚が無くても(というより、笑いが楽屋落ち的で嫌みでも)、一部のマニアにはウケ、長年のうちにそのユーモア感覚が進化して優れた漫画家になる例もある。楽屋落ちというのは、作品世界をメタ視点で見る姿勢だから、しばしばかなり嫌みになるのである。たがみよしひさなどがその例だろう。

(以下引用)絵のコピーはできなかったが、要するに「銀河皇帝」が和風のお大尽の衣装を着ているのが「面白いだろ?」ということである。まあ、低レベルのユーモアである。


自分で描いておいてバカみたいですが、30年以上昔描いた『エルフ・17』の銀河皇帝の衣装を久々に見て「くす」とか笑ってました。この原画もヤフオクで落札されましたので、もうすぐ我が家を旅立ちます。





小田嶋隆のツィートである。
立川談志を神格化する人は多いが、噺家としてよりも、「落語論者」として評価されている面が大きい気がする。
彼の落語は一度、途中までしか聞いたことがないが、枕が長くて、その内容もつまらなかった記憶がある。本などで見るその落語論も、さほど感心はしないが、「落語はこのままだと絶滅する」という意識は、他の落語家にはあまり無かったと思われるし、その後の落語の衰退を見ると、その点では落語界にとって貴重な存在ではあったと思う。
ただし、落語の本質を「人間の業の肯定である」としたことはまったく感心しない。「業」という仏教語で意味ありげに見せているだけである。
落語とは単に「聞き手を笑わせる芸」でしかない、と覚悟するのが本当の落語家だろう。そして、そういうはかない、時として他人の軽蔑の対象になる商売を一生の仕事として選んだことは落語家の業ではあっても、落語そのものの本質ではない。人が転ぶだけでも笑いは生まれるし、その笑いと落語の笑いに本質的な差はない。幼児でも子供でも笑うレベルのものを、いかに磨き上げるかというところに落語家の苦悩があり、「業」があるのである。


(以下引用)

もっとも、昭和の一般人がどんな気持ちで談志師匠の落語を聴いていたのかを、私が正確に知っているわけではない。あの人のマクラの中で開陳される高飛車な断言に、私が個人として辟易していたということです。天下一品の語りの芸を、クソ生意気なマクラが台無しにしてる感じでしたよ。




大島弓子が天才であり、漫画界の詩人であることは前に書いたかもしれないが、その作品のタイトルを見ただけでもそれは分かるだろう。
ここでは、彼女の語感(音感)の素晴らしさを示す事例を挙げる。

「雨の音が聞こえる」は、それ自体、素晴らしいタイトルだが、これは八木重吉の詩の題名を借りたものだから、それ自体は措いておく。
ここで紹介するのは、この漫画に副題として付いている「ラ・レッセー・イデン」である。
私は、初読の時に、このフランス語めいた副題の意味は何か、とだいぶ考えたが、フランス語の辞書は持っていないので、調べることもできず、また持っていても綴りを知らないのだから調べられなかっただろう。だが、程なく、私はこれが大島弓子の冗談だと気付いたのである。
いや、私の間違いであるかもしれないが、これは、「劣性遺伝」に、フランス語の冠詞めいた「ラ」をつけてフランス語のように見せたイタズラだったと思う。
実際、この短編の内容は、劣性遺伝(こんな雑文に正確さを求める人はいないと思うが、念のために言えば、生物学的な意味の劣性遺伝ではなく、劣等な能力を遺伝したという意味である。)と、それに起因する劣等感の話なのである。その副題が「劣性遺伝」であるのは当を得ているのではないか。ただ、それが「劣性遺伝」の意味だと理解できた読者が何人いたか。そこが、高度なイタズラだと思う。ネット時代の今とは違い、この「発見」を公にする手段を持つ読者もほとんどいなかったのだから、いわば、描くと同時に消える絵具で描いた名画のようなものだ。誰に伝わらなくてもかまわないわけである。
それはともかく、ここで強調したいのは、大島弓子の音感の素晴らしさだ。日本語は語尾がほとんど母音になる特質がある。その例外の語尾が長音と撥音である。「劣性」の語尾を長音にして「レッセー」としたら、「遺伝」の語尾は撥音であるから、「レッセー・イデン」は日本語らしさを持たない言葉になる。そこに、フランス語の冠詞めいた「ラ」を付ければ、これをフランス語だと思うのは自然の成り行きである。実に高度な言語操作だと思う。
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