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「ガリア戦記」を読んでいるところなのだが、ローマが欧州を支配できたのは「言語の力」であり、特に有効だったのは「御為ごかし」という詐欺だったのではないか、と思う。野蛮な種族は言語を虚偽のために使うということに慣れていないため、相手の言うことを虚偽か真実かという二択でしか判断できない。しかし、御為ごかしという虚偽は、真実と虚偽の判別が困難なため、判断不能に陥り、しばしば虚偽に引っかかるのである。
その結果がローマによる欧州征服だった、というのが私の仮説だ。
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あまり長い間記事を書かないと妙な広告を載せられるので、漫談というか、散漫な思想をダラダラ書いてみる。一種の大衆文学論であるが、大きく文学論と言ってもいい。それぞれの大衆文学の特徴みたいなものの考察である。
先に、純文学と大衆文学との違いを私なりに言えば、
「純文学は読者を想定せず、自分の強迫観念を徹底的に掘り下げて文章化したもの」
で、
「大衆文学は読者へのサービスを第一義とした文学」
である。つまり、「娯楽性の無い大衆文学は大衆文学として落第である」し、「売れない大衆文学も、大衆がそれを欲していないわけで、大衆文学としては落第である」と言える。
つまり、純文学のほうが合格ラインははるかに低い。しかし、純文学には大衆文学にない価値があり、それは「読者の思考の宇宙(いわゆる内宇宙)を拡大し変質させる」という機能である。つまり、それを読むことで、読者はそれまでより思考の水準が一段階高くなり、頭脳の質そのものに変化があるということだ。
たとえばドストエフスキーの作品などがそれである。もちろん、これは読者の水準そのものの高さが要求される。たとえば私の場合は夏目漱石の「猫」を読む前と読んだ後では思考の機能が大きく変化している。世界を笑いの視点から見ることが可能になったわけだ。これもまた純文学なのである。だが、「猫」を読んでも面白くもおかしくも感じないという人間が膨大にいるだろうということ、そしてそれは学校の勉強では優秀な成績を取る人間であることもあるだろうと思われる。これが「読者の水準」の意味で、これは必ずしも知能指数などの話ではないわけだ。同様に、宮沢賢治の作品に非常に高次元の詩情を感じる人と、何も感じない人がいるわけである。
記事をうっかり消してしまう前に、公開しておいて、いったん休憩する。

さて、本題の「大衆小説」だが、ジャンルで分ければ「推理小説」「SF小説」「ホラー小説」「時代小説」「風俗小説」「その他」に分けられ、「その他」は前記のどのジャンルにも入れにくいものを入れることにする。そして、「風俗小説」は前記の「推理・SF・ホラー・時代」のどれにも入れにくい、現代の風俗を描いた小説ということにする。さらにその中には「恋愛小説」と「非恋愛小説」がある、としてもいい。もちろん、「恋愛の要素はあるが、それが中心ではない」というものもある。たとえば庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」などは恋愛風味もある、現代学生(浪人生)の風俗の一面を描いた「青春小説」となるだろうか。これは芥川賞を取ったが、大衆小説だろう。「ライ麦畑でつかまえて」が大衆小説であるのと同じである。つまり「青春小説」だ。これをひとつのジャンルとしてもいい。この手の小説は芥川賞受賞作に多い。
広義に言えば梶井基次郎の「檸檬」も青春小説だと言えないこともない。漱石の「三四郎」も同じである。もともと文学の大きな主題のひとつが青春なので、これは純文学と大衆文学を横断するテーマである。スタンダールの「赤と黒」も青春小説だろう。しかし「パルムの僧院」は青春小説ではない。これはひとえに主人公の年齢、または精神年齢による。ドストエフスキーの「罪と罰」やバルザックの「幻滅」なども青春小説の面が大きい。
ここでまたいったん休憩。

「推理小説」には「トリック中心のもの」と「トリックを重視しない文学性重視のもの」があるというのは良く言われていると思うが、後者は松本清張のもの以外はあまり成功していないように思う。まあ、その手のものはほとんど読んでいないのだが、松本清張はむしろ純文学者の気質がある作家だと思う。推理小説で名声が上がったのは彼の不幸だったのではないか。だが、純文学者としても、かなり異質で、学者的側面が強く、また政治などへの関心も高く、どの方面にその才能を伸ばせば一番良かったのか分からない。まあ、彼の時代小説などは時代小説の最高峰だと私は思っているので、案外、その方面が最適だったのかもしれない。
で、私自身は、推理小説はトリック中心の軽い読み物のほうがいい、という主義だが、あまりに推敲の不十分な粗雑な推理小説だと娯楽になるより腹が立つ。これはSF小説も同様だ。娯楽小説というものには案外高いハードルがあるのである。エラリー・クイーンの信奉者が日本の推理小説作家には多いが、クイーンの作品の半分くらいは、粗雑であり愚作だと私は思っている。まあ、主人公のエラリー・クイーンのキャラが大嫌いだというところも点数を下げているのだが。
ちなみに、ドイルのホームズ物は、トリックが稚拙なものもあるが、ホームズというキャラが抜群なので、「冒険小説」として私は好んでいる。だが、何度も繰り返して読むというのは推理小説ではなかなかできないというか、やっても面白くないので、結局「一度か二度読んで終わり」というのが推理小説の宿命だろう。そして下手に文学的志向があるとかえって嫌みになる。
「笑いの考察」は、創作活動の上で必須に近いものだと私は思っているので、参考までに「紙谷研究所」から記事の一部を転載する。もちろん、筒井のこの文章はずっと昔に読んでいるが、下の引用記事のほうが正確だろう。
「風刺」で笑うというのは、「権威が攻撃されているのが気持ちいい」という快感、ある意味では下品な精神のためだろう。嫌いな人間がいじめられているのを傍観する小学生の心理だ。ただ、いじめは弱者が対象だが風刺は強者が対象であるという違いである。
だが「パロディ」はたとえば「提灯に釣り鐘」という対比に似ている。対比そのものから生まれる「頭脳の浮遊感覚」を楽しむのである。べつに提灯にも釣り鐘にも畏怖や軽蔑の気持ちを持つ必要は無い。単に「似た形のものが、同じように『ぶら下がっている』こと」を発見した喜びである。つまり、科学者の発見の喜び、あるいはその発見を知って知識が増える喜びに近い。風刺とパロディどちらが高級な精神であるかは自明だろう。
もちろん、風刺が無用だとか無意味ということではない。昔から笑いは敵を攻撃する武器でもあったのである。スィフトのように、人間存在そのものを風刺の対象として冷然と切り捨てた巨大な風刺家は、最大級の哲学者以上の知性である。



(以下引用)

 筒井康隆の風刺・パロディ論争を思い出す(「笑いの理由」/筒井『やつあたり文化論』、新潮文庫所収)。

 最近「差別語」論争について振り返る機会があって久々に読み返していたために、記憶に残るところがあったのだ。

 

 

 筒井は風刺とパロディを区別して、パロディにおいて「原典の本質を理解していない」という批判を厳しく批判する。

なぜかというと、原典の本質を衝いているというだけでは創造性に乏しいことがあきらかで、ある程度以上の文学的価値は望めない。そこで途中から原典をはなれ、その作品独自の世界を追求したり、自分の主張をきわ立たせるために原典を利用する、などというパロディもあらわれた。パロディの自立である。(筒井前掲書KindleNo.3035-3038)

 そして筒井自身の作品について触れ、原典の本質とも細部ともかかわりなく、「むしろ遊離している」とさえ主張する。「原典の本質理解」に拘泥することを、衒学趣味、悪しき教養主義だとするのである。

 他方で、風刺についても述べる。

 筒井は、笑いにおける精神的死の典型は、大新聞社の紙面を飾る1コマ風刺マンガだとする。実際に「面白くもおかしくもない」とのべ、「時にはカリカチュアライズした似顔絵だけの漫画」などとこき下ろす。このようなものを新聞社がありがたがる理由について、笑いの中核には「現代に対する鋭い風刺」が必ずなければならないという貧しい信念が大新聞社的良識があるからだ、とした。“チャップリンの方が、マルクス兄弟よりも高級だ”という風潮をあげながらこう述べる。

なぜこういう誤解があったかというと、常識の鎧を身にまとった人間というものは、笑う際にも意味を求め、意味のある漫画しか理解できない傾向があり、これはあの事件のもじりであろうとか、なるほどあのひとは誇張すればこんな鼻をしているとか、そういった卑近な連想によってのみ笑う(筒井前掲書KindleNo.2853-2856)

 対比的に筒井は、自らの「ドタバタ喜劇」の目指すものを、人間の意識の解放、常識の破壊、想像力の可能性の追求などとしている。

小説家や漫画家の作家生命というのは創作活動を始めてから10年程度、長くて20年くらいがおおまかな目安になるのではないだろうか。それ以上に「現役生活」の長い創作家はもちろんいるが、その大半は「名ばかり」現役で、あるいは若手に交じって活動はしていても、その創作内容の質的レベルは絶頂期の半分以下のレベルに落ちていると思う。これは「時代に合わなくなる」という類の話ではなく、創作家の「容量」はある程度限度がある、という仮説だ。
まず、世間の事象に興味や関心を持てるのは、それらに対して無知な若者の特権である。若者の鋭敏な感受性と、世間の物事を知った感動がぶつかるところに創作衝動は生まれるわけで、つまり創作とは基本的には若者の土俵だと言えるだろう。
年を取ってから創作活動に入った人は、そのジャンルの事柄に若者の特権である「無知さ」はあるから、その人の個性が「ジャンル自体の面白さ」とぶつかることで新しい作家個性を生み出すことはある。しかし、その人の「作家容量」が尽きたら、それで創作物の個性も終わりである。後は「自己模倣」を繰り返すだけだ。
それに、長い間作家活動をしていると、どうしても自分の作品個性に飽きてくるだろう。ほとんどの老大家は、過去の作品の「縮小再生産」になるものだ。たまに新しいチャレンジをしたら、「年寄りの若作り」の無残さになる。つまり、「自分が本心から興味を持っていないもの」を相手にするからそうなるのである。
つまり、創作家というのは、ある程度の創作活動をして「自分の表現したいものはほぼ言い尽くした(描き尽くした)」と思えば、引退するのが正しい生き方だろう。先日他界した白土三平の早すぎる「創作家引退」(宣言はしないが、創作をやめていた)は、正解だったと思う。

ただし、以上は自分の身を削って創作活動をする商業創作家の話で、アマチュア創作家の場合はこの限りではない。100歳を過ぎてから画家になってもいいのである。


「書は読まれたり。肉は悲し」は、ヴァレリーの詩の一節だが、「肉」は「肉体」の意味だろう。訳は堀口大学だったと思うが、「肉は悲し」という表現はかなり大胆だと思う。だからこの一節はその奇矯さのために人口に膾炙したのではないか。
だが、かなり曖昧さのある詩句で、「書」は特定の書か、「あらゆる書」か不明で、書を読んだらなぜ「肉は悲し」となるのか、誰か説明した人はいるのだろうか。
単純な解釈としては、「あらゆる書を読んだら、もはや人生に対する興味は失われる。書とは、現実人生より高次な人生なのである。あらゆる書を読んだ後の人生に何の意味があるだろうか」というのは自然な解釈だと思うが、これはリラダン式の「生活などは召使に任せておけ」という、知的貴族精神だ。
問題は原詩の「書」が単数形か複数形かである。これが単数だと、この詩句の解釈はまったく変わることになる。「ある一冊の書を読むことで、『肉体の悲しさ(生そのものの悲しさ)』を痛感する」、そのような書とは何なのだろうか。まあ、聖書の「伝道の書」などはそれに近いかもしれない。「空なるかな空なるかな空の空なり」
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