小説家や漫画家の作家生命というのは創作活動を始めてから10年程度、長くて20年くらいがおおまかな目安になるのではないだろうか。それ以上に「現役生活」の長い創作家はもちろんいるが、その大半は「名ばかり」現役で、あるいは若手に交じって活動はしていても、その創作内容の質的レベルは絶頂期の半分以下のレベルに落ちていると思う。これは「時代に合わなくなる」という類の話ではなく、創作家の「容量」はある程度限度がある、という仮説だ。
まず、世間の事象に興味や関心を持てるのは、それらに対して無知な若者の特権である。若者の鋭敏な感受性と、世間の物事を知った感動がぶつかるところに創作衝動は生まれるわけで、つまり創作とは基本的には若者の土俵だと言えるだろう。
年を取ってから創作活動に入った人は、そのジャンルの事柄に若者の特権である「無知さ」はあるから、その人の個性が「ジャンル自体の面白さ」とぶつかることで新しい作家個性を生み出すことはある。しかし、その人の「作家容量」が尽きたら、それで創作物の個性も終わりである。後は「自己模倣」を繰り返すだけだ。
それに、長い間作家活動をしていると、どうしても自分の作品個性に飽きてくるだろう。ほとんどの老大家は、過去の作品の「縮小再生産」になるものだ。たまに新しいチャレンジをしたら、「年寄りの若作り」の無残さになる。つまり、「自分が本心から興味を持っていないもの」を相手にするからそうなるのである。
つまり、創作家というのは、ある程度の創作活動をして「自分の表現したいものはほぼ言い尽くした(描き尽くした)」と思えば、引退するのが正しい生き方だろう。先日他界した白土三平の早すぎる「創作家引退」(宣言はしないが、創作をやめていた)は、正解だったと思う。
ただし、以上は自分の身を削って創作活動をする商業創作家の話で、アマチュア創作家の場合はこの限りではない。100歳を過ぎてから画家になってもいいのである。
まず、世間の事象に興味や関心を持てるのは、それらに対して無知な若者の特権である。若者の鋭敏な感受性と、世間の物事を知った感動がぶつかるところに創作衝動は生まれるわけで、つまり創作とは基本的には若者の土俵だと言えるだろう。
年を取ってから創作活動に入った人は、そのジャンルの事柄に若者の特権である「無知さ」はあるから、その人の個性が「ジャンル自体の面白さ」とぶつかることで新しい作家個性を生み出すことはある。しかし、その人の「作家容量」が尽きたら、それで創作物の個性も終わりである。後は「自己模倣」を繰り返すだけだ。
それに、長い間作家活動をしていると、どうしても自分の作品個性に飽きてくるだろう。ほとんどの老大家は、過去の作品の「縮小再生産」になるものだ。たまに新しいチャレンジをしたら、「年寄りの若作り」の無残さになる。つまり、「自分が本心から興味を持っていないもの」を相手にするからそうなるのである。
つまり、創作家というのは、ある程度の創作活動をして「自分の表現したいものはほぼ言い尽くした(描き尽くした)」と思えば、引退するのが正しい生き方だろう。先日他界した白土三平の早すぎる「創作家引退」(宣言はしないが、創作をやめていた)は、正解だったと思う。
ただし、以上は自分の身を削って創作活動をする商業創作家の話で、アマチュア創作家の場合はこの限りではない。100歳を過ぎてから画家になってもいいのである。
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「書は読まれたり。肉は悲し」は、ヴァレリーの詩の一節だが、「肉」は「肉体」の意味だろう。訳は堀口大学だったと思うが、「肉は悲し」という表現はかなり大胆だと思う。だからこの一節はその奇矯さのために人口に膾炙したのではないか。
だが、かなり曖昧さのある詩句で、「書」は特定の書か、「あらゆる書」か不明で、書を読んだらなぜ「肉は悲し」となるのか、誰か説明した人はいるのだろうか。
単純な解釈としては、「あらゆる書を読んだら、もはや人生に対する興味は失われる。書とは、現実人生より高次な人生なのである。あらゆる書を読んだ後の人生に何の意味があるだろうか」というのは自然な解釈だと思うが、これはリラダン式の「生活などは召使に任せておけ」という、知的貴族精神だ。
問題は原詩の「書」が単数形か複数形かである。これが単数だと、この詩句の解釈はまったく変わることになる。「ある一冊の書を読むことで、『肉体の悲しさ(生そのものの悲しさ)』を痛感する」、そのような書とは何なのだろうか。まあ、聖書の「伝道の書」などはそれに近いかもしれない。「空なるかな空なるかな空の空なり」
だが、かなり曖昧さのある詩句で、「書」は特定の書か、「あらゆる書」か不明で、書を読んだらなぜ「肉は悲し」となるのか、誰か説明した人はいるのだろうか。
単純な解釈としては、「あらゆる書を読んだら、もはや人生に対する興味は失われる。書とは、現実人生より高次な人生なのである。あらゆる書を読んだ後の人生に何の意味があるだろうか」というのは自然な解釈だと思うが、これはリラダン式の「生活などは召使に任せておけ」という、知的貴族精神だ。
問題は原詩の「書」が単数形か複数形かである。これが単数だと、この詩句の解釈はまったく変わることになる。「ある一冊の書を読むことで、『肉体の悲しさ(生そのものの悲しさ)』を痛感する」、そのような書とは何なのだろうか。まあ、聖書の「伝道の書」などはそれに近いかもしれない。「空なるかな空なるかな空の空なり」
アニメの「タッチ」を再見(視聴)しているのだが、南というヒロインを見ていて「トロフィーとしての人間」という概念が頭に浮かんできた。
(22日追記:今、「はてな匿名ダイアリー」を読んでいたら、こういうコメントに出会って驚いた。ここでは女全体をトロフィーとしているが、女性をトロフィーとして見るのはネットではありふれたことなのだろうか。
南というヒロインを達也と克也(勝也だったか)という双子の兄弟が奪い合うというか、争奪戦を繰り広げ、途中で克也が死んで「試合不成立」となるが、達也は素直に南を自分の物にできない。それは、南が「トロフィー化」した存在だから、「試合不成立」だと達也にはそれを自分の物にする「資格」が無いからだ。
女性の間で南というヒロインが不人気なのも、南のこの「トロフィー性」にあるのではないか、というのが私の仮説だ。つまり、どこか「非人間的」であるように感じるからだろう。それは単に南が超優等生の美少女で万能のヒロインで、適度に愛嬌もあるという「欠点の無さ」への嫉妬ではないと思う。要するに南自身が自分を二人の男の間のトロフィーであることを受け入れた、その傲慢さ、あるいは非人間的な印象のためではないか。
もちろん、南が「克也を利用して自分の夢をかなえる」というズルさへの反発もあるだろう。(それを克也自身が快く受け入れているのは、また別の話だ。)
で、達也は、克也が死んだ以上、南というトロフィーを手に入れるためには、克也の「実績」を乗り越えないといけないわけである。そういう点では達也も(南の)犠牲者だと言える。まあ、普通の男なら、例の部屋で二人きりになった時にさっさと南の身体を手に入れるだろうが、それでは面白くも何ともない、ただの「石原慎太郎」的小説である。少年漫画としても「不健全」だ。
そこで、達也は悪戦苦闘して(というほどでも実は無い。彼も単に戦闘意欲に乏しい怠け者なだけで、最初から超人設定されているのである。)南というトロフィーを得る「資格」を得る。そういうわけで、この漫画を成立させている骨子のひとつは「トロフィーとしての人間」である、というのが私の結論だ。
(22日追記:今、「はてな匿名ダイアリー」を読んでいたら、こういうコメントに出会って驚いた。ここでは女全体をトロフィーとしているが、女性をトロフィーとして見るのはネットではありふれたことなのだろうか。
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男が少女漫画読まないのはトロフィー(女)が自己主張するからでしょ)
南というヒロインを達也と克也(勝也だったか)という双子の兄弟が奪い合うというか、争奪戦を繰り広げ、途中で克也が死んで「試合不成立」となるが、達也は素直に南を自分の物にできない。それは、南が「トロフィー化」した存在だから、「試合不成立」だと達也にはそれを自分の物にする「資格」が無いからだ。
女性の間で南というヒロインが不人気なのも、南のこの「トロフィー性」にあるのではないか、というのが私の仮説だ。つまり、どこか「非人間的」であるように感じるからだろう。それは単に南が超優等生の美少女で万能のヒロインで、適度に愛嬌もあるという「欠点の無さ」への嫉妬ではないと思う。要するに南自身が自分を二人の男の間のトロフィーであることを受け入れた、その傲慢さ、あるいは非人間的な印象のためではないか。
もちろん、南が「克也を利用して自分の夢をかなえる」というズルさへの反発もあるだろう。(それを克也自身が快く受け入れているのは、また別の話だ。)
で、達也は、克也が死んだ以上、南というトロフィーを手に入れるためには、克也の「実績」を乗り越えないといけないわけである。そういう点では達也も(南の)犠牲者だと言える。まあ、普通の男なら、例の部屋で二人きりになった時にさっさと南の身体を手に入れるだろうが、それでは面白くも何ともない、ただの「石原慎太郎」的小説である。少年漫画としても「不健全」だ。
そこで、達也は悪戦苦闘して(というほどでも実は無い。彼も単に戦闘意欲に乏しい怠け者なだけで、最初から超人設定されているのである。)南というトロフィーを得る「資格」を得る。そういうわけで、この漫画を成立させている骨子のひとつは「トロフィーとしての人間」である、というのが私の結論だ。
政治がからむと町山智弘は馬鹿というか視覚異常(視野狭窄)になると思っていたが、これほどとは思わなかった。
古代の歴史的人物を現代の視点で見て「ポリコレ的に間違っている」という映画評論家は評論家失格だろう。
たとえ(近代の)ヒトラーでも、監督や脚本家が彼を英雄として描いても問題はまったくない。(ただし、それを公開するかどうかは映画会社の判断による。政治的危険性を考慮して公開しないのもひとつの判断だ。)それはイエスを神の子として描くのと同じ程度に創作者の主観にすぎないからだ。芸術の問題(つまり批評の問題)としては、その作品が創作物として優れているかどうかだけが問題になる。
世の多くの人は、「表現の自由」と「公開の自由」を混同している。献血ポスターに無意味に巨乳の萌え絵イラストを描くのは作者の勝手だが、それを公開するかどうかは注文した側の責任であり、非難するのは誰でも自由である。(非難した人を非難するのも自由だ。)注文者がその非難を無視する自由もある。だが、その非難が正当だと思う人間が多い場合は、公開することが注文者の不利益になるだけの話だ。
なお、この一文は「キングダム」とはまったく無関係である。私はこの作品を(漫画もアニメも絵が下手なので)一度も見たことがない。
(以下引用)
古代の歴史的人物を現代の視点で見て「ポリコレ的に間違っている」という映画評論家は評論家失格だろう。
たとえ(近代の)ヒトラーでも、監督や脚本家が彼を英雄として描いても問題はまったくない。(ただし、それを公開するかどうかは映画会社の判断による。政治的危険性を考慮して公開しないのもひとつの判断だ。)それはイエスを神の子として描くのと同じ程度に創作者の主観にすぎないからだ。芸術の問題(つまり批評の問題)としては、その作品が創作物として優れているかどうかだけが問題になる。
世の多くの人は、「表現の自由」と「公開の自由」を混同している。献血ポスターに無意味に巨乳の萌え絵イラストを描くのは作者の勝手だが、それを公開するかどうかは注文した側の責任であり、非難するのは誰でも自由である。(非難した人を非難するのも自由だ。)注文者がその非難を無視する自由もある。だが、その非難が正当だと思う人間が多い場合は、公開することが注文者の不利益になるだけの話だ。
なお、この一文は「キングダム」とはまったく無関係である。私はこの作品を(漫画もアニメも絵が下手なので)一度も見たことがない。
(以下引用)
張芸謀監督が秦の始皇帝を賛美した『HERO英雄』の危険性みたいな。
竹熊健太郎のツィートで、カッパブックス創刊者の神吉晴夫の言葉らしい。10か条あるが、私は「ベストセラーの作り方」には興味が無いので、読者心理について私も同感だと思う部分を抜き出す。ただし、「モラル」という言葉を狭く捉えないほうがいいと思う。たとえば、マルキ・ド・サドは当時の世間のモラルからはみ出しているが、彼が「人生をもっと豊かに幸福に生きる」道を模索したのが、性の追究だったという意味では、彼は「モラルの追究者」であり、それは「モラリスト」に等しいと言える。
「読者は正義を好む」ことについては私自身何度か言及していると思う。とにかく、主人公が反道徳的な人間である小説は、読んでいて爽快感が無いのである。「大菩薩峠」は、主人公が机龍之介だけではないから成立している小説だろう。石原慎太郎の初期の小説には、そういう反道徳的な若者がよく登場しているが、それは彼が「力こそすべて」という主義の人間だからだと思う。それはまた「カネこそがすべて」というホリエモンや竹中平蔵などと同種の人間なのである。
(以下引用)
7.芸術よりモラルが大切であること。——二度とないこの人生を、もっと幸福に生きるためには、どうしたらよいか、それを具体的に追求して行く。 8.読者は正義を好むということ。
「読者は正義を好む」ことについては私自身何度か言及していると思う。とにかく、主人公が反道徳的な人間である小説は、読んでいて爽快感が無いのである。「大菩薩峠」は、主人公が机龍之介だけではないから成立している小説だろう。石原慎太郎の初期の小説には、そういう反道徳的な若者がよく登場しているが、それは彼が「力こそすべて」という主義の人間だからだと思う。それはまた「カネこそがすべて」というホリエモンや竹中平蔵などと同種の人間なのである。
(以下引用)
7.芸術よりモラルが大切であること。——二度とないこの人生を、もっと幸福に生きるためには、どうしたらよいか、それを具体的に追求して行く。 8.読者は正義を好むということ。
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