アニメの「タッチ」を再見(視聴)しているのだが、南というヒロインを見ていて「トロフィーとしての人間」という概念が頭に浮かんできた。
(22日追記:今、「はてな匿名ダイアリー」を読んでいたら、こういうコメントに出会って驚いた。ここでは女全体をトロフィーとしているが、女性をトロフィーとして見るのはネットではありふれたことなのだろうか。
南というヒロインを達也と克也(勝也だったか)という双子の兄弟が奪い合うというか、争奪戦を繰り広げ、途中で克也が死んで「試合不成立」となるが、達也は素直に南を自分の物にできない。それは、南が「トロフィー化」した存在だから、「試合不成立」だと達也にはそれを自分の物にする「資格」が無いからだ。
女性の間で南というヒロインが不人気なのも、南のこの「トロフィー性」にあるのではないか、というのが私の仮説だ。つまり、どこか「非人間的」であるように感じるからだろう。それは単に南が超優等生の美少女で万能のヒロインで、適度に愛嬌もあるという「欠点の無さ」への嫉妬ではないと思う。要するに南自身が自分を二人の男の間のトロフィーであることを受け入れた、その傲慢さ、あるいは非人間的な印象のためではないか。
もちろん、南が「克也を利用して自分の夢をかなえる」というズルさへの反発もあるだろう。(それを克也自身が快く受け入れているのは、また別の話だ。)
で、達也は、克也が死んだ以上、南というトロフィーを手に入れるためには、克也の「実績」を乗り越えないといけないわけである。そういう点では達也も(南の)犠牲者だと言える。まあ、普通の男なら、例の部屋で二人きりになった時にさっさと南の身体を手に入れるだろうが、それでは面白くも何ともない、ただの「石原慎太郎」的小説である。少年漫画としても「不健全」だ。
そこで、達也は悪戦苦闘して(というほどでも実は無い。彼も単に戦闘意欲に乏しい怠け者なだけで、最初から超人設定されているのである。)南というトロフィーを得る「資格」を得る。そういうわけで、この漫画を成立させている骨子のひとつは「トロフィーとしての人間」である、というのが私の結論だ。
(22日追記:今、「はてな匿名ダイアリー」を読んでいたら、こういうコメントに出会って驚いた。ここでは女全体をトロフィーとしているが、女性をトロフィーとして見るのはネットではありふれたことなのだろうか。
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男が少女漫画読まないのはトロフィー(女)が自己主張するからでしょ)
南というヒロインを達也と克也(勝也だったか)という双子の兄弟が奪い合うというか、争奪戦を繰り広げ、途中で克也が死んで「試合不成立」となるが、達也は素直に南を自分の物にできない。それは、南が「トロフィー化」した存在だから、「試合不成立」だと達也にはそれを自分の物にする「資格」が無いからだ。
女性の間で南というヒロインが不人気なのも、南のこの「トロフィー性」にあるのではないか、というのが私の仮説だ。つまり、どこか「非人間的」であるように感じるからだろう。それは単に南が超優等生の美少女で万能のヒロインで、適度に愛嬌もあるという「欠点の無さ」への嫉妬ではないと思う。要するに南自身が自分を二人の男の間のトロフィーであることを受け入れた、その傲慢さ、あるいは非人間的な印象のためではないか。
もちろん、南が「克也を利用して自分の夢をかなえる」というズルさへの反発もあるだろう。(それを克也自身が快く受け入れているのは、また別の話だ。)
で、達也は、克也が死んだ以上、南というトロフィーを手に入れるためには、克也の「実績」を乗り越えないといけないわけである。そういう点では達也も(南の)犠牲者だと言える。まあ、普通の男なら、例の部屋で二人きりになった時にさっさと南の身体を手に入れるだろうが、それでは面白くも何ともない、ただの「石原慎太郎」的小説である。少年漫画としても「不健全」だ。
そこで、達也は悪戦苦闘して(というほどでも実は無い。彼も単に戦闘意欲に乏しい怠け者なだけで、最初から超人設定されているのである。)南というトロフィーを得る「資格」を得る。そういうわけで、この漫画を成立させている骨子のひとつは「トロフィーとしての人間」である、というのが私の結論だ。
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政治がからむと町山智弘は馬鹿というか視覚異常(視野狭窄)になると思っていたが、これほどとは思わなかった。
古代の歴史的人物を現代の視点で見て「ポリコレ的に間違っている」という映画評論家は評論家失格だろう。
たとえ(近代の)ヒトラーでも、監督や脚本家が彼を英雄として描いても問題はまったくない。(ただし、それを公開するかどうかは映画会社の判断による。政治的危険性を考慮して公開しないのもひとつの判断だ。)それはイエスを神の子として描くのと同じ程度に創作者の主観にすぎないからだ。芸術の問題(つまり批評の問題)としては、その作品が創作物として優れているかどうかだけが問題になる。
世の多くの人は、「表現の自由」と「公開の自由」を混同している。献血ポスターに無意味に巨乳の萌え絵イラストを描くのは作者の勝手だが、それを公開するかどうかは注文した側の責任であり、非難するのは誰でも自由である。(非難した人を非難するのも自由だ。)注文者がその非難を無視する自由もある。だが、その非難が正当だと思う人間が多い場合は、公開することが注文者の不利益になるだけの話だ。
なお、この一文は「キングダム」とはまったく無関係である。私はこの作品を(漫画もアニメも絵が下手なので)一度も見たことがない。
(以下引用)
古代の歴史的人物を現代の視点で見て「ポリコレ的に間違っている」という映画評論家は評論家失格だろう。
たとえ(近代の)ヒトラーでも、監督や脚本家が彼を英雄として描いても問題はまったくない。(ただし、それを公開するかどうかは映画会社の判断による。政治的危険性を考慮して公開しないのもひとつの判断だ。)それはイエスを神の子として描くのと同じ程度に創作者の主観にすぎないからだ。芸術の問題(つまり批評の問題)としては、その作品が創作物として優れているかどうかだけが問題になる。
世の多くの人は、「表現の自由」と「公開の自由」を混同している。献血ポスターに無意味に巨乳の萌え絵イラストを描くのは作者の勝手だが、それを公開するかどうかは注文した側の責任であり、非難するのは誰でも自由である。(非難した人を非難するのも自由だ。)注文者がその非難を無視する自由もある。だが、その非難が正当だと思う人間が多い場合は、公開することが注文者の不利益になるだけの話だ。
なお、この一文は「キングダム」とはまったく無関係である。私はこの作品を(漫画もアニメも絵が下手なので)一度も見たことがない。
(以下引用)
張芸謀監督が秦の始皇帝を賛美した『HERO英雄』の危険性みたいな。
竹熊健太郎のツィートで、カッパブックス創刊者の神吉晴夫の言葉らしい。10か条あるが、私は「ベストセラーの作り方」には興味が無いので、読者心理について私も同感だと思う部分を抜き出す。ただし、「モラル」という言葉を狭く捉えないほうがいいと思う。たとえば、マルキ・ド・サドは当時の世間のモラルからはみ出しているが、彼が「人生をもっと豊かに幸福に生きる」道を模索したのが、性の追究だったという意味では、彼は「モラルの追究者」であり、それは「モラリスト」に等しいと言える。
「読者は正義を好む」ことについては私自身何度か言及していると思う。とにかく、主人公が反道徳的な人間である小説は、読んでいて爽快感が無いのである。「大菩薩峠」は、主人公が机龍之介だけではないから成立している小説だろう。石原慎太郎の初期の小説には、そういう反道徳的な若者がよく登場しているが、それは彼が「力こそすべて」という主義の人間だからだと思う。それはまた「カネこそがすべて」というホリエモンや竹中平蔵などと同種の人間なのである。
(以下引用)
7.芸術よりモラルが大切であること。——二度とないこの人生を、もっと幸福に生きるためには、どうしたらよいか、それを具体的に追求して行く。 8.読者は正義を好むということ。
「読者は正義を好む」ことについては私自身何度か言及していると思う。とにかく、主人公が反道徳的な人間である小説は、読んでいて爽快感が無いのである。「大菩薩峠」は、主人公が机龍之介だけではないから成立している小説だろう。石原慎太郎の初期の小説には、そういう反道徳的な若者がよく登場しているが、それは彼が「力こそすべて」という主義の人間だからだと思う。それはまた「カネこそがすべて」というホリエモンや竹中平蔵などと同種の人間なのである。
(以下引用)
7.芸術よりモラルが大切であること。——二度とないこの人生を、もっと幸福に生きるためには、どうしたらよいか、それを具体的に追求して行く。 8.読者は正義を好むということ。
某スレッドのコメントだが、日本人は階層性や統一というもの、あるいは「絶対思想」に疑惑を感じるという精神性はあるかもしれない。
封建社会下で限界はあっても、或る意味、西欧とは別の「民主主義」が存在しているとも言えそうだ。つまり、「絶対的存在」を疑うという、精神の民主主義だ。
(以下引用)
■ 日本の主要な信仰体系では、
宗教的な信念において中央集権は重要な要素ではなかった。
それは神道や仏教でもそう。
明確な階層的、あるいは統一された構造はない。
一般人と僧侶たちとで意見が異なる事さえある。
これは基本的に、日本の歴史を通じて変わらないんだ。
キリスト教が日本に持ち込まれた時に、
市民や為政者が懐疑的に感じた要素は、
教会の中央集権的で統一された性格だったんだ。
神は唯一で、「教会(カトリック)」も1つで、法王も1人。
階層的な信仰に対する本能的な反発は、
今でも日本社会には残ってるんじゃないかな。
封建社会下で限界はあっても、或る意味、西欧とは別の「民主主義」が存在しているとも言えそうだ。つまり、「絶対的存在」を疑うという、精神の民主主義だ。
(以下引用)
■ 日本の主要な信仰体系では、
宗教的な信念において中央集権は重要な要素ではなかった。
それは神道や仏教でもそう。
明確な階層的、あるいは統一された構造はない。
一般人と僧侶たちとで意見が異なる事さえある。
これは基本的に、日本の歴史を通じて変わらないんだ。
キリスト教が日本に持ち込まれた時に、
市民や為政者が懐疑的に感じた要素は、
教会の中央集権的で統一された性格だったんだ。
神は唯一で、「教会(カトリック)」も1つで、法王も1人。
階層的な信仰に対する本能的な反発は、
今でも日本社会には残ってるんじゃないかな。
「魔群の狂宴」を書き終えて、一応満足したが、ドストエフスキーの作品から「宗教」と「心理学」を除くと、作品価値が半減することも明瞭になった気がする。つまり、「事件」だけを連続させたら、それは新聞記事と同じであるわけだ。
勿論、ヴォルテールの「カンディード」のように「圧縮感」と「抽象性」が作品の価値を高めることもあるが、あれも宗教性の無い作品である。ただ、あれだけのスケールの話が圧縮されたところに妙味があるわけだろう。たとえば「ヒロイン」(らしさはないが)が戦争で敵の兵士たちに輪姦される場面も、ただその事実を述べるだけで、その時の様子も感情表現もほとんど無かったと思う。(今確認すると、ヒロインの語りで描かれ、感情表現もあるが、読者にはその出来事の「事実」だけが伝わる印象だ。なお、輪姦ではないが、その後多くの男の間を転々とする。)つまり、新聞が事件を3行でまとめたようなものだ。我々の人生の事件も、主観性を排除したら、すべて3行記事なのである。その事実を教えるところが「カンディード」の特長なのかもしれない。
「宗教性」に話を戻すと、宗教性は物語に「宇宙的感覚」を与えるというのが私の考えだ。私には現代の長編小説がすべて宇宙感覚が欠如しているように思われるわけである。作者自身が何かの宗教を信じていると、その作品に宇宙感覚があるという気もする。宮沢賢治などがそれだ。別の見方をすれば、現代の小説家は、人間の生にも死にも意味は無いと思いながら、キャラの生死をいろいろ装飾して書いているだけではないか、と思う。昔の作家でも、たとえばバルザックには宗教や神の問題は出てこないと思うが、だから彼が巨大なスケールで作品世界を創造しても、そこには「宇宙感覚」は無いわけだ。ブロンテ姉妹やJ・オースティンも同じである。あくまで、人間世界を面白く描いている作家たちだ。
理屈の上では私は無神論者だが、しかし「ドストエフスキー体験」は、他の作家とはかなり異なるのは確かだと思うし、それが彼が心からロシア正教を信じていることから来ているという気はする。宗教という補助線が入ることで、個人の事件が主観的な些末なものから、客観的(全人類的)で宇宙的な背景を持つという気がするわけだ。個人の運命が、読者を含む全人類の運命の象徴になるわけで、それがドストエフスキーの作品の異様な吸引力の理由ではないだろうか。
勿論、ヴォルテールの「カンディード」のように「圧縮感」と「抽象性」が作品の価値を高めることもあるが、あれも宗教性の無い作品である。ただ、あれだけのスケールの話が圧縮されたところに妙味があるわけだろう。たとえば「ヒロイン」(らしさはないが)が戦争で敵の兵士たちに輪姦される場面も、ただその事実を述べるだけで、その時の様子も感情表現もほとんど無かったと思う。(今確認すると、ヒロインの語りで描かれ、感情表現もあるが、読者にはその出来事の「事実」だけが伝わる印象だ。なお、輪姦ではないが、その後多くの男の間を転々とする。)つまり、新聞が事件を3行でまとめたようなものだ。我々の人生の事件も、主観性を排除したら、すべて3行記事なのである。その事実を教えるところが「カンディード」の特長なのかもしれない。
「宗教性」に話を戻すと、宗教性は物語に「宇宙的感覚」を与えるというのが私の考えだ。私には現代の長編小説がすべて宇宙感覚が欠如しているように思われるわけである。作者自身が何かの宗教を信じていると、その作品に宇宙感覚があるという気もする。宮沢賢治などがそれだ。別の見方をすれば、現代の小説家は、人間の生にも死にも意味は無いと思いながら、キャラの生死をいろいろ装飾して書いているだけではないか、と思う。昔の作家でも、たとえばバルザックには宗教や神の問題は出てこないと思うが、だから彼が巨大なスケールで作品世界を創造しても、そこには「宇宙感覚」は無いわけだ。ブロンテ姉妹やJ・オースティンも同じである。あくまで、人間世界を面白く描いている作家たちだ。
理屈の上では私は無神論者だが、しかし「ドストエフスキー体験」は、他の作家とはかなり異なるのは確かだと思うし、それが彼が心からロシア正教を信じていることから来ているという気はする。宗教という補助線が入ることで、個人の事件が主観的な些末なものから、客観的(全人類的)で宇宙的な背景を持つという気がするわけだ。個人の運命が、読者を含む全人類の運命の象徴になるわけで、それがドストエフスキーの作品の異様な吸引力の理由ではないだろうか。
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