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「in deep」の一節で「レギオン」という言葉が聖書のマルコによる福音書の中に出てくるということに関する記述である。

(以下引用)

先ほどの「マルコによる福音書」は、この映画の中に出てきて、当時聖書など知らない私は、この下りをこの映画ではじめて知ります。映画での場面の説明的に書きますと、以下のように出てきます。

エクソシスト3の場面より説明

老刑事が、悪魔的な殺人事件の現場で、「部分的に焼かれている聖書」を見つける。刑事は「聖書の焼かれている部分」に着目し、その部分を家にある聖書で読み直す。

刑事 「イエスは悪霊の取りついた男の名を聞かれた。その者は答えて言った。レギオン・・・大勢だから・・・」

刑事 「・・・大勢・・・・・」

このように、刑事は、

「大勢」

という言葉を呟くのですけれど、これが意味するところは、

「悪魔の代行者がこの世にはたくさんいる」

という意味でもあるはずで、つまり、

「この世は、悪魔の手先のような存在で満ちている」

と。

では、

「どのような存在が悪魔の手先なのか」

ということについて、エクソシスト3では明確に書かれているのです。それは、

「一般の人間」

なのです。

どんな人間なのかといいますと、その内容が、今のような時代には大っぴらには表現しにくいかと思いますが、

「心の弱い人間たち」

なのです。

エクソシスト3では、途中から精神病院が舞台になりますが、

・精神を病んでいる
・意志が弱い
・良心が弱い

というような人たちは容易に悪魔にコントロールされるというような雰囲気の描写が続きます。


(以上引用)

英和辞書でregionは「地方、範囲、領域」だが、regを語頭に持つ語の中でregiment「連隊、大勢」、あるいはregnant「統治する、優勢の、流行の」などが、「大勢の」のニュアンスを持つ言葉だろうか。
で、レギオンは悪魔そのものではなく、「悪魔に憑(と)りつかれた者」の意味があるかと思うが、ドストエフスキーの「悪霊」も、悪霊そのものを主題とするものではなく、悪霊に憑りつかれた者、つまりレギオンとしてのスタヴローギンを描いたものではないか。そのスタヴローギンは、能力的には何でも為しうる人間でありながら、「精神を病んでいる」「意思が弱い」「良心が弱い」ために、何事もなせず、ただ無力な幼女を犯すという最低の行為しかできなかった人間として描かれる。
神という存在が完全に否定された現代では、無数のレギオンが地上を埋めているかもしれない。

ただし、上で書いた「精神を病んでいる」は、現代科学の定義の上での精神病ではおそらくない、ということを一言しておく。これは理性的に、あるいは道徳的に健全さを失っている意味だろう。現代科学の「精神病」は単に社会的不適合を病気扱いする傾向が強い。これは金儲け至上主義の資本主義の帰結だろう。つまり、コミュ力が第一義である社会から「病気」として排除されるわけだ。昔なら「職人気質」だったものすら今では病気扱いである。
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差別問題の難しさを明確に指摘したのが、次のコメントだと思う。ただし、これは差別そのものではなく、差別用語の問題だ。

1:差別の存在の問題
2:差別意識の問題
3:差別用語の問題

この3点ははっきり分けて検討していくべきだろう。
ただし、下のコメントの中の

まずは、その言葉の示す存在が劣等の存在であるという事を周知徹底して、それから、そういう言葉を使用することは差別的なのだと指導しなければならない。

の部分はむしろ差別を助長することになるし、コメント者は意図的にそれが分かっていてコメントしていると思う。それ自体、非常な問題行動である、と言えるだろう。

(以下引用)

2020/09/22(火)  
ある言葉が差別的であるためには、それが劣等的な存在であるという認識が前提になる。
それがないと、使った人間が、どうして差別なんだろうと疑問に思ってしまう。
まずは、その言葉の示す存在が劣等の存在であるという事を周知徹底して、それから、そういう言葉を使用することは差別的なのだと指導しなければならない。
そういう教育がないと、たとえば「ちび黒サンボ」の物語がどうしていけないのかが子供には理解できないだろう。



こういう視点はわりと大事だな、と思う。つまり、物事のメリットとデメリットを冷静に判断する能力が大事だということだ。世の中には100%の善も100%の悪も存在しないと思ったほうがいい。その善の部分を強調したら、どのような悪も弁護でき、その悪の部分を強調したら、どんな善も偽善に見えてくる。
不良やDQNやヤンキーがなぜいじめや悪質行為をするかと言えば、端的に言って「それが面白い」からだろう。その部分を直視しないから、そうした行為を根絶できない。


(以下引用)


あおじる
@kale_aojiru
体に悪いもんほどうまかったりするのと同様、リスクのある行為ほど面白かったり感動的だったりするんだよねえ。ただ、組体操の場合は楽しむ人間とリスクを負う人間が別なわけで、奴隷剣闘士の殺し合いを見ているのと同じ構図
一読した時に不愉快になったツィートなので、反論されていて少し安心した。そもそも、農学者のひとりでしかない人間が、自分を農学者代表みたいな言い方をするのはケシカランと思う。
もちろん、学者というのは、感情論を排除して物事を理屈と現実から考察することを強調したいという意図は分からないでもない。しかし、飢餓で死んでいく膨大な人口に対して、「食料の少ない社会に生まれたこと自体が間違いだ」とするのは一種のキチガイだろう。お前は神様か。世界の統制者か。
同じ「農学者」である宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福になるまでは個人の幸福はありえない」という言葉を贈りたい。

(以下引用)

みんみ
@MMedinfo
アフリカの農業を真剣に勉強してる農学者はこのツリーのようなことは言いません。 だいたいどこも近代技術と伝統技術をなんだかんだミックスさせてやってますし。
引用ツイート
Tamejirou
@Tamejirou
·
アフリカの内戦や飢餓で○百万人死んだ、みたいなのを見るにつけ「あの痩せた大地でそこまで増えてしまったことがそもそも間違いだったのでは……」という気になってしまうのは農学者のカルマ
このスレッドを表示
これは冗談抜きで、「頭が良いとはどういうことか」という大きなテーマを示唆している。日常的な言動では頭がいいのに、学校の勉強はまったくできないという人もいるし、その逆もいるのではないか。少なくとも、学校秀才が頭がいいと思った経験は私にはあまり無い。(まあ、あまり接触したこともないが。)その逆に、日常生活の上では頭がいいなあ、と思う人間が多いのだが、彼らはたいてい学校の勉強は苦手だった。
これは、考察する価値がある問題だと思う。
学校の成績の悪い人は、本当は頭が悪くはない。ただ、「理詰めで考える能力が低い」だけで、瞬間の判断や身近なことを記憶する能力は高いのではないか。で、理詰めで考える能力というのは頭の良さのひとつでしかないと思うわけだ。つまり、直感的に正解が出せる問題なら、理屈は不要であるわけで、そちらのほうがむしろ高度な頭の良さだと見ることもできる。ただ、不特定多数の人に「説明する」段になると、理屈抜きでは説明が説得力を持たないから、理屈の言える人間が「頭がいい」と多くの人に思われるのだろう。


借金玉
@syakkin_dama
「その学歴でなんでオーダー5つくらい覚えられないの?」という怒られはわりと人生で発生しましたが、「なんで作業しながら雑談しつつオーダー覚えられて、おまえ俺より学歴低いのか完全に意味不明」って返したらマジギレされたことある。
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冬山想南
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