例によって、構想も何も無しに、思いつくまま書きながら考える。
思索のテーマは「ポエジー」とは何か、である。
或る情緒が詩的であると感じるのはなぜか、どういう物事を我々は詩的と感じるかという考察だ。
これには、詩そのものよりも、「詩情を感じさせる映画」「詩情のまったく無い映画」などから考察するのがいいかと思う。
たとえば、「第三の男」などは、詩情性が高いからこそ多くの映画ファンに愛され、名画とされたと思う。単にストーリーだけなら凡百のスリラー映画やサスペンス映画と異なることは無いだろう。一方、最近のハリウッド映画には詩情を感じさせる映画は極端に少ない。これはファンがそれを求めていないのではなく、作り手側が詩情というものを認知する能力が無いのだと思う。70年代くらいまでのハリウッド映画には詩情が存在したのである。これは映画音楽との関連もある。映画音楽がロック系統になると、詩情も糞もなくなり、アクション一辺倒になる。例外は「ジーザス・クライスト・スーパースター」くらいではないか。この場合は題材が題材だから、ロックとの落差で逆に部分的に詩情が際立ったとも思える。
では、詩情とは何か。仮説を立ててみる。
「晴れた天気」と「曇り空」と「雨降り」と、どれが一番詩情があるだろうか。これは異論もあるだろうが、私は「雨降り」「曇り空」「晴れ」の順だと思っている。木々の葉から雨の滴がしたたり落ちるさまは実に詩情がある。たとえば新海誠の「言の葉の庭」はそれだけを映画にしたようなアニメである。一方、雲一つ無い快晴の空は気持ちいいが、詩情はさほど無い。強いて詩情らしいのを言えば、深い青い空の中に一種の深淵を感じるくらいだろうか。
「第三の男」のラストシーンで、道の傍で女を待っている男に、女は目もくれず歩み去っていく。男は、何かを噛みしめるようにゆっくりと煙草を吸う。そして男の姿が小さくなって風景の中に飲み込まれ、映画が終わる。まさに、人生の悲哀を凝縮したシーンである。愛する女に愛されない悲しみ。いろいろと献身したつもりの女にむしろ憎悪され無視され去られる悲しみ。愛する価値の無い男(ハリー・ライム)を愛する女という不条理。言葉にはならなくても、観客はそれらの感情を感じ取り、そこに詩情を感じたのである。
さて、詩情とは何か。「悲哀感」に似ている。しかし、悲哀感のようなマイナスの気分とも少し違う。人生の悲哀、あるいは閉塞された状態に対し、それをむしろ肯定し美化的に眺めるもの、という仮説をここで提出しておく。
例えば雨によって自分は今いる場所からほとんど動けない。外の雨を眺めるしかない。しかし、眺めてみると、木々の葉から滴り落ちる雨の粒は宝石のように美しい。その美しさ(の認知)は、自分が置かれた閉塞的状況がもたらしたものでもある。
恋愛が大成功した状況には詩情は無い。失恋にこそ詩情がある。
いわば、芭蕉の「わび・さび」のようなもので、この世界のマイナスとされる事柄の中に美を見出す高度な心的姿勢が詩情の正体ではないか、というのが私の仮説である。
まあ、これはあまりに単純化しすぎていそうだから、特に強弁はしないが、詩情についての一考察である。
思索のテーマは「ポエジー」とは何か、である。
或る情緒が詩的であると感じるのはなぜか、どういう物事を我々は詩的と感じるかという考察だ。
これには、詩そのものよりも、「詩情を感じさせる映画」「詩情のまったく無い映画」などから考察するのがいいかと思う。
たとえば、「第三の男」などは、詩情性が高いからこそ多くの映画ファンに愛され、名画とされたと思う。単にストーリーだけなら凡百のスリラー映画やサスペンス映画と異なることは無いだろう。一方、最近のハリウッド映画には詩情を感じさせる映画は極端に少ない。これはファンがそれを求めていないのではなく、作り手側が詩情というものを認知する能力が無いのだと思う。70年代くらいまでのハリウッド映画には詩情が存在したのである。これは映画音楽との関連もある。映画音楽がロック系統になると、詩情も糞もなくなり、アクション一辺倒になる。例外は「ジーザス・クライスト・スーパースター」くらいではないか。この場合は題材が題材だから、ロックとの落差で逆に部分的に詩情が際立ったとも思える。
では、詩情とは何か。仮説を立ててみる。
「晴れた天気」と「曇り空」と「雨降り」と、どれが一番詩情があるだろうか。これは異論もあるだろうが、私は「雨降り」「曇り空」「晴れ」の順だと思っている。木々の葉から雨の滴がしたたり落ちるさまは実に詩情がある。たとえば新海誠の「言の葉の庭」はそれだけを映画にしたようなアニメである。一方、雲一つ無い快晴の空は気持ちいいが、詩情はさほど無い。強いて詩情らしいのを言えば、深い青い空の中に一種の深淵を感じるくらいだろうか。
「第三の男」のラストシーンで、道の傍で女を待っている男に、女は目もくれず歩み去っていく。男は、何かを噛みしめるようにゆっくりと煙草を吸う。そして男の姿が小さくなって風景の中に飲み込まれ、映画が終わる。まさに、人生の悲哀を凝縮したシーンである。愛する女に愛されない悲しみ。いろいろと献身したつもりの女にむしろ憎悪され無視され去られる悲しみ。愛する価値の無い男(ハリー・ライム)を愛する女という不条理。言葉にはならなくても、観客はそれらの感情を感じ取り、そこに詩情を感じたのである。
さて、詩情とは何か。「悲哀感」に似ている。しかし、悲哀感のようなマイナスの気分とも少し違う。人生の悲哀、あるいは閉塞された状態に対し、それをむしろ肯定し美化的に眺めるもの、という仮説をここで提出しておく。
例えば雨によって自分は今いる場所からほとんど動けない。外の雨を眺めるしかない。しかし、眺めてみると、木々の葉から滴り落ちる雨の粒は宝石のように美しい。その美しさ(の認知)は、自分が置かれた閉塞的状況がもたらしたものでもある。
恋愛が大成功した状況には詩情は無い。失恋にこそ詩情がある。
いわば、芭蕉の「わび・さび」のようなもので、この世界のマイナスとされる事柄の中に美を見出す高度な心的姿勢が詩情の正体ではないか、というのが私の仮説である。
まあ、これはあまりに単純化しすぎていそうだから、特に強弁はしないが、詩情についての一考察である。
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このところ日露戦争やその関連で日清戦争のことなどの本を少し読んでいるのだが、その感想を少し書いておく。
特に面白かったのは戸川幸夫の「明治の気概」という小説で、小説と言うよりほとんど事実に基づいた内容だと思われる。戸川幸夫は動物文学で有名だが、ファンタジー系の動物文学ではなくリアリズム重視の作風だから、人事を描いても事実を重視するのだろう。
日露戦争の細部を知る上で役に立ったのは、太平洋戦争研究会という集団が書いた「(キーワード)日露戦争と明治日本」という本で、コンビニなどで売っていそうな豆知識本に見えるが中味は相当に充実している。ただ、地図が少ないので、戦争の状況がイメージしにくい。人物の写真などより地図や戦争要図(略地図)の見やすいものを載せてほしかった。
日露戦争の地理的把握という点で役に立ったのは中公新書の横手慎二著「日露戦争史」に載っていた「日露戦争要図」である。この本は日露戦争に至るまでの日露の政治的状況を詳しく書いているところもいい。
何しろ、遼陽とか奉天とか言われても、アジア大陸のどのあたりか私には分からなかったのであり、大多数の日本人はそうなのではないか。そもそも満洲がどのあたりにあり、そこがなぜ問題視されたのか、現代の人間には分からない。高校や中学で日露戦争を習う生徒たちも同じだろう。
黄海海戦の黄海とはどこかも分からないし、対馬海戦の対馬がどういう位置にあるのかも分からない。朝鮮半島の地形もさっぱり分からず、山や平野や川の位置も分からない。
こんなことなら中学校や高校で購買させられた地図帳を大事に取っておくのだったと思っても、その当時は地理などにまったく興味は無かったのだから入試が終わると即座に捨てたのも当然である。
とにかく、歴史は地理や政治経済と同時に学ばないとまったく意味も分からないしイメージ化もできない。それが社会科教育の根本欠陥だろう。授業の時には参考資料が机の上に数冊置いてあるというのが社会科の授業であるべきだ。
まあ、今の子供たちはウィキペディアがあるだけマシであるが、授業中にネットで調べていいという教師はまずいないだろう。それをやったら、自分がいかに無知でいかにいい加減なことを教えているか生徒たちに即座に知られてしまうからである。
簡単に日清日露戦争の総括をしておけば、この両戦争は太平洋戦争とは異なり、「日本が近代国家(先進国家)の仲間入りをするためには」避けられない戦争だったと思う。もちろん、近代国家にならなくてはいけないということもないので、その意味では不要な戦争だっただろう。しかし、当時の日本の政治家や軍人たちは、日本が近代化し国力(軍事力)を増進しないと欧米大国によって植民地化されるという恐怖は大きかったと思うし、また実際そうなる可能性は大きかったと思う。
では、この両戦争に踏み切ったその判断は正しかったか、と言えば、私は疑問に思う。
たとえ一時的に植民地化されても、日本人の知的水準ならやがて独立することも可能だったのではないか。結局、この両戦争で国民(日本だけでなく朝鮮や中国やロシアの国民)の払った犠牲の大きさを考えれば、それは欧米の植民地になることによるマイナスよりマシだったかどうか分かったものではない。しかも、それは戦争に勝った上での話であり、負けていたらどうなっていたことか。結果が良かったから日清日露戦争に踏み切ったのは正解だ、とは言えないだろう。そういうのをまさに結果論と言うのである。
この両戦争に勝った結果野放図に膨れ上がった日本の軍人の夜郎自大体質がやがて日本を太平洋戦争の泥沼に引きずり込んでいったのは誰でも知っていることである。一時の勝利(成功体験)は、未来の危険の種なのである。
特に面白かったのは戸川幸夫の「明治の気概」という小説で、小説と言うよりほとんど事実に基づいた内容だと思われる。戸川幸夫は動物文学で有名だが、ファンタジー系の動物文学ではなくリアリズム重視の作風だから、人事を描いても事実を重視するのだろう。
日露戦争の細部を知る上で役に立ったのは、太平洋戦争研究会という集団が書いた「(キーワード)日露戦争と明治日本」という本で、コンビニなどで売っていそうな豆知識本に見えるが中味は相当に充実している。ただ、地図が少ないので、戦争の状況がイメージしにくい。人物の写真などより地図や戦争要図(略地図)の見やすいものを載せてほしかった。
日露戦争の地理的把握という点で役に立ったのは中公新書の横手慎二著「日露戦争史」に載っていた「日露戦争要図」である。この本は日露戦争に至るまでの日露の政治的状況を詳しく書いているところもいい。
何しろ、遼陽とか奉天とか言われても、アジア大陸のどのあたりか私には分からなかったのであり、大多数の日本人はそうなのではないか。そもそも満洲がどのあたりにあり、そこがなぜ問題視されたのか、現代の人間には分からない。高校や中学で日露戦争を習う生徒たちも同じだろう。
黄海海戦の黄海とはどこかも分からないし、対馬海戦の対馬がどういう位置にあるのかも分からない。朝鮮半島の地形もさっぱり分からず、山や平野や川の位置も分からない。
こんなことなら中学校や高校で購買させられた地図帳を大事に取っておくのだったと思っても、その当時は地理などにまったく興味は無かったのだから入試が終わると即座に捨てたのも当然である。
とにかく、歴史は地理や政治経済と同時に学ばないとまったく意味も分からないしイメージ化もできない。それが社会科教育の根本欠陥だろう。授業の時には参考資料が机の上に数冊置いてあるというのが社会科の授業であるべきだ。
まあ、今の子供たちはウィキペディアがあるだけマシであるが、授業中にネットで調べていいという教師はまずいないだろう。それをやったら、自分がいかに無知でいかにいい加減なことを教えているか生徒たちに即座に知られてしまうからである。
簡単に日清日露戦争の総括をしておけば、この両戦争は太平洋戦争とは異なり、「日本が近代国家(先進国家)の仲間入りをするためには」避けられない戦争だったと思う。もちろん、近代国家にならなくてはいけないということもないので、その意味では不要な戦争だっただろう。しかし、当時の日本の政治家や軍人たちは、日本が近代化し国力(軍事力)を増進しないと欧米大国によって植民地化されるという恐怖は大きかったと思うし、また実際そうなる可能性は大きかったと思う。
では、この両戦争に踏み切ったその判断は正しかったか、と言えば、私は疑問に思う。
たとえ一時的に植民地化されても、日本人の知的水準ならやがて独立することも可能だったのではないか。結局、この両戦争で国民(日本だけでなく朝鮮や中国やロシアの国民)の払った犠牲の大きさを考えれば、それは欧米の植民地になることによるマイナスよりマシだったかどうか分かったものではない。しかも、それは戦争に勝った上での話であり、負けていたらどうなっていたことか。結果が良かったから日清日露戦争に踏み切ったのは正解だ、とは言えないだろう。そういうのをまさに結果論と言うのである。
この両戦争に勝った結果野放図に膨れ上がった日本の軍人の夜郎自大体質がやがて日本を太平洋戦争の泥沼に引きずり込んでいったのは誰でも知っていることである。一時の勝利(成功体験)は、未来の危険の種なのである。
3世紀くらいから7世紀くらいまでの日本は朝鮮半島より文化的政治的後進国であったことは確かだろう。となれば、朝鮮半島からの渡来人が日本の政治世界で高い地位に上るのは理の当然だったわけだ。つまり、東大やハーバード(まあ、この二つを同列にしていいか疑問だがwww)を出た人間が重用されるのと同じである。しかもその時代は学歴時代ではなく、実力時代だからこそ、文化的政治的先進国で厳しい現実と戦ってきた人間が田舎の馬鹿たちを圧倒するのは当たり前の話である。しかも、先進国の武器作りの知識もあり、文化的知識もあるとなれば、高い地位に上らないほうがおかしい。とすれば、そこから王位に就く人間も当然出てくるわけだ。まあ、「鳥無き里の蝙蝠」という話である。
そして、渡来人というのは、故国で失敗した人間であるというのは、今の時代で田舎に行く都会人のほとんどが都会での失敗者であるのと同じだ。もっとも、失敗とは言っても、政治的敗北や戦乱の結果だろう。言ってみれば、「亡命者」である。
そういう人々にとっては、日本のような「ど田舎」に行くこともそこで生涯を送ることも残念無念なことだったと思うが、その反面、そこでは(文化的差異のために)最初からチートとして生き直すことができたわけで、素晴らしい運命だと見做すこともできたのだ。
小林恵子氏の「ふたつの顔の大王」は、古代の日本の大王の多くは実は朝鮮半島その他の渡来人であり、しかも故国でも日本でも王位に就いたのだ、としていて、あまりにも奇想が過ぎると思わないでもないが、日本書紀などの記述が天武以降の「皇室による荘厳化と自己正当化」の記述が相当入っているだろうという当たり前の推定を前提とすれば、実はどのような推測も可能になり、その推測の是非を決めるのは推測内容の合理性と幾つかの資料との間の整合性しかないのである。
ある研究(コンピューターシミュレーション)によれば、弥生時代から7世紀までの1000年間に渡来した帰化人の数は数十万人から百万人に達すると言う。しかも、恐らくそのかなりな割合が古代日本の「上級国民」になっただろうというのは、最初に書いた通りだ。とすれば、古代日本こそ実は「(東)アジア内グローバリズム」の時代だったのであり、くだらない日本国粋主義はせいぜいが幕末の尊皇攘夷思想あたりから始まったファナチシズムにすぎないのではないか。そもそも、現日本人のかなりな割合が帰化人の子孫であるのは明白なのである。しかもそれは上級国民ほどそうだと推定されるのだ。
そして、渡来人というのは、故国で失敗した人間であるというのは、今の時代で田舎に行く都会人のほとんどが都会での失敗者であるのと同じだ。もっとも、失敗とは言っても、政治的敗北や戦乱の結果だろう。言ってみれば、「亡命者」である。
そういう人々にとっては、日本のような「ど田舎」に行くこともそこで生涯を送ることも残念無念なことだったと思うが、その反面、そこでは(文化的差異のために)最初からチートとして生き直すことができたわけで、素晴らしい運命だと見做すこともできたのだ。
小林恵子氏の「ふたつの顔の大王」は、古代の日本の大王の多くは実は朝鮮半島その他の渡来人であり、しかも故国でも日本でも王位に就いたのだ、としていて、あまりにも奇想が過ぎると思わないでもないが、日本書紀などの記述が天武以降の「皇室による荘厳化と自己正当化」の記述が相当入っているだろうという当たり前の推定を前提とすれば、実はどのような推測も可能になり、その推測の是非を決めるのは推測内容の合理性と幾つかの資料との間の整合性しかないのである。
ある研究(コンピューターシミュレーション)によれば、弥生時代から7世紀までの1000年間に渡来した帰化人の数は数十万人から百万人に達すると言う。しかも、恐らくそのかなりな割合が古代日本の「上級国民」になっただろうというのは、最初に書いた通りだ。とすれば、古代日本こそ実は「(東)アジア内グローバリズム」の時代だったのであり、くだらない日本国粋主義はせいぜいが幕末の尊皇攘夷思想あたりから始まったファナチシズムにすぎないのではないか。そもそも、現日本人のかなりな割合が帰化人の子孫であるのは明白なのである。しかもそれは上級国民ほどそうだと推定されるのだ。
小林恵子(やすこ)氏が古代史に関して、次のように言っているが、まさにその通りだと思う。と言うより、これは私も前々から思っていたことだ。
「現代人である我々が、とかく誤解しやすいのは、国という文字を目にした時だ。どうしても、現代のパスポートを必要とする国際観念で国を見てしまうのである。この時代の国(引用者注:三韓時代の朝鮮のこと)は日本の戦国時代の大名小名の領地に近いという観念を持った方がよいと思う。」
たとえば、「三国志・魏書東夷伝」には「弁・辰韓合わせて二十四国、大国四五千家、小国六七百家、総てで四五万」とある。戸数が四五千で大国なのだから、人口だけで言えば、大名小名の領地どころか、現代の小さな市くらいのものだ。国とは、要するに、「領主の勢力範囲」くらいのもので、その境界もいい加減なものだったと思う。
同氏の「二つの顔の大王」(前記引用文も同書から)に、
「突厥は一時期、西はササン朝に接し、東は高句麗に隣接する北東アジアをほとんどおおう勢力を有したが」云々とあるが、では、突厥は巨大領土を有していたと言えるかと言えば、おそらく、その土地を支配する官僚機構を持っていなかったと思う。それを国と言っていいのか、それとも単に「山賊の勢力範囲」と言うべきか、議論が必要だろう。そこがたとえば元帝国とローマ帝国の違いだと思う。ローマは明確に支配地を統治する政治システムを持っていたが、元帝国はどうだったか。山賊は、戦争には強いから勢力範囲を拡大することはできるが、統治のシステムを持っていない、というのが私の考えだ。だから、ヨーロッパをしばしば脅かした遊牧民集団が、あちこちを荒らし回った後、すぐに消えてしまうのである。
「現代人である我々が、とかく誤解しやすいのは、国という文字を目にした時だ。どうしても、現代のパスポートを必要とする国際観念で国を見てしまうのである。この時代の国(引用者注:三韓時代の朝鮮のこと)は日本の戦国時代の大名小名の領地に近いという観念を持った方がよいと思う。」
たとえば、「三国志・魏書東夷伝」には「弁・辰韓合わせて二十四国、大国四五千家、小国六七百家、総てで四五万」とある。戸数が四五千で大国なのだから、人口だけで言えば、大名小名の領地どころか、現代の小さな市くらいのものだ。国とは、要するに、「領主の勢力範囲」くらいのもので、その境界もいい加減なものだったと思う。
同氏の「二つの顔の大王」(前記引用文も同書から)に、
「突厥は一時期、西はササン朝に接し、東は高句麗に隣接する北東アジアをほとんどおおう勢力を有したが」云々とあるが、では、突厥は巨大領土を有していたと言えるかと言えば、おそらく、その土地を支配する官僚機構を持っていなかったと思う。それを国と言っていいのか、それとも単に「山賊の勢力範囲」と言うべきか、議論が必要だろう。そこがたとえば元帝国とローマ帝国の違いだと思う。ローマは明確に支配地を統治する政治システムを持っていたが、元帝国はどうだったか。山賊は、戦争には強いから勢力範囲を拡大することはできるが、統治のシステムを持っていない、というのが私の考えだ。だから、ヨーロッパをしばしば脅かした遊牧民集団が、あちこちを荒らし回った後、すぐに消えてしまうのである。
読みかけの本の中に、ある女学校の国文学教師が、授業中に窓の外の雨を眺めて、雨を見ると万葉集のこの歌を想起する、と言って、次の歌を呟く情景がある。
このエピソードを読んで、言葉を知り詩を知り文学を知っていることが我々の人生に与える幸福さ、あるいは価値の大きさを思ったのだが、実は私はこの歌が昔から好きだのに、その解釈は読んだことがないので、ここで自己流の解釈をしておく。(あるいは解釈を読んだこともあるのかもしれないが、記憶が漠然としている。)
「うらさぶる」は「心さびしい」の意味で、「うら」には、「心」の意味と、「何となく」の意味があるかと思う。
「さまねし」は「遍(あまね)し」で、あちこちに広がることだろう。「さ」は接頭辞で、ここでは語調を整える働きかと思う。
「ひさかたの」はもちろん「天(あめ)」に掛かる枕詞で、意味を考える必要は無いが、「ひさしい」「永遠」を連想させるとすれば、「さまねし」と、響き合っている。私がこの歌を読んで感じるのは茫漠とした時間と空間の広がりだが、その理由はこのへんにありそうだ。
「時雨」は俳句では初冬の季語だが、万葉の時代から初冬に限定されていたとは思えない。(その辺は専門家の研究を見ないと分からない。)私は、この歌ではむしろ梅雨を連想した。
「流らふ」は、もちろん「流れる」であり、ここでは「天から流れ落ちる」意味だと思うが、あるいは「地上で川となって流れている」という解釈もあるのかもしれない。しかし、「天の時雨」と、わざわざ「天の」を入れていることから、そういう解釈は難しいのではないか。
見落としがちなのが、「流らふ」の「ふ」で、これは時間の継続や経過を表わす言葉で、つまり「経(ふ)」である。この時雨は、長時間降り続けている雨なのである。
私が、この歌を実に雄大で、かつメランコリックな歌だと思うのは、「うらさぶる心さまねし」とは、「何となく寂しい私の心が世界全体に広がる」ということだと解釈するからである。そして、その世界全体に広がった心の見る風景は、どこもかしこも「雨、雨、雨」である。
世界全体が雨で灰色一色に塗りつぶされている。
そして、それは私の心がうらさびしい心だからだ。
「老水夫行」の「水、水、水」ではないが、世界は「雨、雨、雨」なのだ。
うらさぶる心さまねし 久方のあめの時雨の流らふみれば
このエピソードを読んで、言葉を知り詩を知り文学を知っていることが我々の人生に与える幸福さ、あるいは価値の大きさを思ったのだが、実は私はこの歌が昔から好きだのに、その解釈は読んだことがないので、ここで自己流の解釈をしておく。(あるいは解釈を読んだこともあるのかもしれないが、記憶が漠然としている。)
「うらさぶる」は「心さびしい」の意味で、「うら」には、「心」の意味と、「何となく」の意味があるかと思う。
「さまねし」は「遍(あまね)し」で、あちこちに広がることだろう。「さ」は接頭辞で、ここでは語調を整える働きかと思う。
「ひさかたの」はもちろん「天(あめ)」に掛かる枕詞で、意味を考える必要は無いが、「ひさしい」「永遠」を連想させるとすれば、「さまねし」と、響き合っている。私がこの歌を読んで感じるのは茫漠とした時間と空間の広がりだが、その理由はこのへんにありそうだ。
「時雨」は俳句では初冬の季語だが、万葉の時代から初冬に限定されていたとは思えない。(その辺は専門家の研究を見ないと分からない。)私は、この歌ではむしろ梅雨を連想した。
「流らふ」は、もちろん「流れる」であり、ここでは「天から流れ落ちる」意味だと思うが、あるいは「地上で川となって流れている」という解釈もあるのかもしれない。しかし、「天の時雨」と、わざわざ「天の」を入れていることから、そういう解釈は難しいのではないか。
見落としがちなのが、「流らふ」の「ふ」で、これは時間の継続や経過を表わす言葉で、つまり「経(ふ)」である。この時雨は、長時間降り続けている雨なのである。
私が、この歌を実に雄大で、かつメランコリックな歌だと思うのは、「うらさぶる心さまねし」とは、「何となく寂しい私の心が世界全体に広がる」ということだと解釈するからである。そして、その世界全体に広がった心の見る風景は、どこもかしこも「雨、雨、雨」である。
世界全体が雨で灰色一色に塗りつぶされている。
そして、それは私の心がうらさびしい心だからだ。
「老水夫行」の「水、水、水」ではないが、世界は「雨、雨、雨」なのだ。
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冬山想南
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