これ(この担任の言葉)は或る意味哲学的な問題であり、最初から問答無用で大前提とするような思想だとは思わない。
殺人犯を弁護する弁護士などを見る時に感じる嫌悪感は、「殺人という、他人の人権を根底的に否定する行為を行った人間が法律で守られる」理不尽さに対するものである。つまり、他人の人権を否定する人間に人権はあるのか、ということだ。本当に「いつでも どこでも だれにでも」でいいのか。もちろん、法律が犯罪者にも人権を与えるのは、犯罪行為の立証には完全性が欠如し、常に冤罪の可能性があるということへの予防措置ではあるだろう。しかし、そのことと「いつでも どこでも だれにでも」ということの是非を哲学として論じるのは別である。
(以下引用)
殺人犯を弁護する弁護士などを見る時に感じる嫌悪感は、「殺人という、他人の人権を根底的に否定する行為を行った人間が法律で守られる」理不尽さに対するものである。つまり、他人の人権を否定する人間に人権はあるのか、ということだ。本当に「いつでも どこでも だれにでも」でいいのか。もちろん、法律が犯罪者にも人権を与えるのは、犯罪行為の立証には完全性が欠如し、常に冤罪の可能性があるということへの予防措置ではあるだろう。しかし、そのことと「いつでも どこでも だれにでも」ということの是非を哲学として論じるのは別である。
(以下引用)
高校の時の担任の授業「ヤクザに人権はあるか」私たち生徒はほぼ全員「ない、あげたくない」最後に担任はものすごく重々しく「君たち勘違いしちゃいかん。人権は いつでも どこでも だれにでも だ」と言った。今でも覚えている。補償に職業で線を引くな。
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