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道鏡については、その人間性を語るエピソードがほとんど無いので、関係した事件でしか判断できない。宇佐八幡宮神託事件は、弟の暴走だった可能性もあるのではないか。また、称徳(孝謙)天皇との性関係は、両者とも年齢的に無理だろう。



孝謙上皇との出会い・権力の拡大

道鏡が孝謙上皇との関係を持つようになったのは、761年(天平宝字5年)既に道鏡は60歳・還暦を迎える頃であり、当時としてはかなりの高齢者と言っても差し支えない年齢でした。

この年孝謙上皇は、平城宮の改修などの関係で近江国の「保良宮」と呼ばれる場所に滞在しておられましたが、病気に倒れてしまい、その際に「禅師」として入り込んだ道鏡によって非常に熱心な看病が行われたとされています。

看病のおかげかどうか、孝謙上皇の病気は治り、その「ご恩」に心打たれた孝謙上皇は、それ以降道鏡と様々な意味で関係性を深め、実質的な「寵愛」・「政治的重用」を受けるようになります。

「謎の僧侶」を特別扱いし始めたことに周囲は不信感を抱き、当時の淳仁天皇は事あるごとにそれに対する「箴言(注意)」を行いますが、孝謙上皇は指摘されるとむしろ逆上して怒りを爆発させたようで、続日本紀に「高野天皇、帝と隙あり」と明記されたように、淳仁天皇と孝謙上皇の関係性は一気に悪化していくことになりました。

なお、上皇は批判を受けるほどに一層道鏡へ入れ込むことになったのか、762年には淳仁天皇を差し置いて自らが国家的な決定を担うと主張し、淳仁天皇は祭祀などの儀式を行う形式的な存在でよいとするなど、次第にその「暴走」傾向が顕著になっていきました。

権力基盤の確立・称徳天皇と道鏡の時代

763年(天平宝字7年)には少僧都に任命されるなど、上皇の寵愛の下で少しづつ地位を固めていった道鏡ですが、権力を握る上での大きなターニングポイントとなったのは「藤原仲麻呂の乱」でした。

当時の実質的な政治のトップであり、独自の権力基盤を持っていた「藤原仲麻呂」が、道鏡と孝謙上皇の関係が深まることに懸念を感じ、自ら兵を率いてクーデターを起こすことを計画します。

クーデターにあたっては、当初は軍事力を有することから優勢かと思われた仲麻呂ですが、密告などにより孝謙上皇側に先手を打たれ、吉備真備などの官軍が征伐に派遣されたこともあり、本人を含む一族の大半が戦死する完全な失敗という結果に終わりました。

この仲麻呂の乱の終結後は、これまで政治権力を振るってきた仲麻呂陣営が処罰を受け流罪などになった人物も多く、元より上皇と仲が悪かった淳仁天皇も「仲麻呂側」の人物として淡路島に送られて謎の死を遂げるなど、孝謙上皇は自らの反逆者と思われる存在を次々に「消して」いきます。

結果として、孝謙上皇は実質的に再び即位(称徳天皇)する形でトップへと返り咲き、今まで以上に道鏡を寵愛することが出来る環境を手に入れる形にもなりました。

道鏡は764年(天平宝字8年)には当時の太政大臣である藤原仲麻呂の戦死に伴い自らが「太政大臣禅師」に就任し、一般の僧侶出身としては異例の政治権力を持つことになりました。
また、翌765年には「法王」という独自の肩書きを称徳天皇より与えられ、当時の日本における「仏教界のトップ」としても君臨する形になりました。

ざっくり言えば、当時の朝廷では政治面での「称徳天皇(孝謙上皇)」と仏教面での「道鏡」の二頭体制の構図が確立された。と言ってもよいでしょう。また、道教の弟である「弓削浄人」も朝廷で地位を上げるなど、「道鏡陣営」とも言える政治基盤も整えられていくことになりました。

なお、この時代には僧侶である道鏡が権力者として君臨し、様々な乱世を経験した称徳天皇も仏教に入れ込んだことから、鎮護国家を願って「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」を製作させたり、寺院の整備をより推進するなど、仏教色・仏教保護の色彩の強い政治が行われました。また、神社についても保護政策が展開されますが、仏を護る「護法善神」という形で「神仏習合」の形態を持つことが一層増えていきました。

「宇佐八幡宮神事件」による失脚

孝謙上皇(称徳天皇)からの寵愛によって時の権力者に上り詰めた道鏡ですが、その権力の失墜・失脚はあっけなく訪れます。

当時の構図としては、独身で皇子などもおらず、その上称徳天皇の意向で皇太子が決定されていない中、天皇が高齢になる中で次の天皇が誰になるのか。という宮中・朝廷の不安と疑念が渦巻く状況でした。

そんな中、769年(神護景雲3年)5月に道鏡の弟であり九州防衛のトップ「太宰帥」であった弓削浄人が、突如大分の宇佐八幡宮(当時は皇室からの信仰が非常に強い神社でした)の「ご神託」として、「道鏡を皇位につければ世の中は平和になる」というメッセージを平城京に送ったこと(一般には偽のご神託であるともされます)で、状況は一変します。

道鏡を寵愛して来た称徳天皇は、その「ご神託」を確認しようということで、和気清麻呂を派遣しますが、持ち帰った答えは「皇位継承は皇族の人間にすべし」といった内容であり、称徳天皇は激怒して清麻呂に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という醜い名前を付けて流罪とします。

しかしながら、激怒した称徳天皇も結果としては無理に道鏡を皇位に就けようとはせずに、10月にはむやみに皇位を求めてはいけない・自らが後継者を決定するといった詔を発表して、状況を鎮静化しようとします。

天皇は、翌年770年(宝亀元年)に崩御し、どのような経緯で決定されたかは諸説ありますがその「遺言」として白壁王を光仁天皇として即位させることになり、道鏡が皇位に就くという流れは完全に排除されます。

唯一の後ろ盾と言っても良い称徳天皇を失った道鏡は、大きな処罰を受けることはなかったものの、現在の栃木県にあたる下野国の薬師寺別当に実質的な配流(流罪)となり、まもなく772年に亡くなりました。

道鏡の評価について

道鏡という人物は、その経歴を見るとこれまで解説してきたような流れに沿うものですが、「ただの僧侶」が突然上皇・天皇の寵愛を受けて出世し権力を握るという謎めいた状況は、「ただならぬ」関係としてありとあらゆる「エピソード」を生みました。

下世話なものも含む様々な「道鏡伝説」は、奈良時代からそのすべてが伝わっていたというよりは、どうやら後世になって様々な尾ひれがついて無限に拡大していった「人物像」である可能性が高いとも言えますが、「日本三大悪人」になぞらえる解釈や、道鏡を「奇怪な僧侶」としてロシアのラスプーチンになぞらえるインターネット上の解釈も複数見られるなど、現代に至るまで「悪いイメージ」がつきまとう存在であることは否定できません。

一方で、歴史的な解釈としては「本当に道鏡は悪人だったのか?」という疑問が呈されることも近年やや増えており、一部では再評価の兆しや、特に宇佐八幡宮事件などについては学問的に様々な解釈が見られることも確かです。

道鏡を取り巻く環境には、多くの皇族や藤原氏の一族、また神社勢力や様々な仏教界の有力者など、ありとあらゆる利害関係者がいたことは想像に難くありません。そういった中では、実際に何が正確であったのかを解釈することは非常に困難です。

そもそも、経歴を追っていく中でも、道鏡が何かを自らで大規模に粛清したとか、特定の存在を極端に弾圧したとか、誰かと共謀してまれに見るような凶悪な働きを果たした。といったような歴史に残る「具体的な悪行」は特に伝わっていないことは紛れもない事実です。

そういった観点を考慮し、本記事では様々な「道鏡解説記事」にありがちなセンセーショナルなエピソードなどをなるべく退けて、一般的に伝わる氏の経歴のみを淡々と解説しています。

まとめ

道鏡は、700年頃に生まれ奈良時代の前半から僧侶としてキャリアを重ねた人物です。氏族としては弓を作る「弓削氏」ともされ、決して身分が高い出自とまでは言えません。

僧侶としては「義淵」の弟子として経験を積み、「良弁」の下でサンスクリット語を学ぶなど一定の教養を身に着け、あるタイミングからは朝廷に出入りして「治療」を行える「禅師」になりました。

禅師である道鏡は、761年に当時の孝謙上皇の看病を行ったことでその「寵愛」を受けるようになり、この後は極端なペースで出世の道を歩み、藤原仲麻呂の乱の後には「太政大臣禅師」として朝廷のトップに突如上り詰めます。また、「法王」として仏教界の頂点にも君臨するなど、再即位した称徳天皇と共に一時代を築き上げました。

しかし、769年には自らを天皇として即位させようとしたともされる「宇佐八幡宮神託事件」が発生し、翌年の称徳天皇の崩御によって完全に失脚し、最期を下野国の薬師寺別当として迎えました。

道鏡については、「悪人」であるという解釈、奇妙な・下世話なエピソードが広く伝わっており、一般的には余り良いイメージが持たれている訳ではありませんが、当時の権力関係の複雑さや、具体的に行った「悪事」が余り歴史に刻まれていないこと、また近年の様々な歴史的解釈の多様性などを考慮すると、その評価や人物像について断定的な事を述べるのは難しい存在でもあります。

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