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ここ半年ほど、何か小説を書きたいという気持ちがあるのだが、まったく何も思いつかない。いや、書いても公表する気はまったく無いので、娯楽としての小説書きだが、それでも何も思いつかないのが奇妙である。つまり、「こういう小説を書きたい」という誘因が無いわけだ。
昔は現在で言う「異世界転生物」を書くのが楽しかったのだが、その手の作品が世間に溢れている反動なのか、そういうテーマ自体に足が向かない。それと、「リライフ」的な話も同様だ。
ただ、それではこれまで流行作家たちが書いていたような大衆小説を書きたいか、と言えば、それも無い。たとえば大藪春彦や柴田錬三郎のような小説を書いても(書けても)書く喜びは無さそうな気がする。能力があれば、半村良的な伝奇小説なら書きたいが、その能力は無さそうだ。
不思議なのは、西尾維新などのように異常に小説の大量生産ができる人間である。読んだことは無い(アニメは「刀語」だけ見た。)ので、その小説群がなぜ大量生産できるのかが分からない。そして、それを「書きたい」という動機がどこにあるのかも分からない。まあ、「そういうもの」を書くのが面白いのだろう。単にカネ稼ぎだけの動機ではないと思う。
では、「そういうもの」が何であれ、そのどこが「書きたい」ものなのか、ということを考えると、それは「自分の作ったキャラが好き」か、あるいは「自分が作っている話が好き」のどちらかだろう。「情景描写や風景描写が好き」という大衆小説作家はあまりいないと思う。
「キャラが好き」というのは割と分かる気がするが、「話が好き」というのはよく分からない。つまり、同じ話を繰り返すわけにはいかないだろうから、いろいろと話を作るわけで、それらの「違う話」がすべて好きなのだろうか。
大衆小説の「話」など、突き詰めれば「セックス」と「暴力」に尽きると思うのだが、そればかり書いていた大衆作家は確かに多い。しかし、それは基本的にカネのために書いていたとしか私には思えないわけだ。眠狂四郎がいくら女を犯そうが人を斬ろうが、読む私が快感があるわけでもない。小説を読む快感は、「話の進展の変化、起伏、意外性、驚き」にあるわけで、セックスシーンや暴力シーンだけの小説などが「話として」面白いはずはないわけである。
で、私が気になるのは「大量生産作家」の作る話は、なぜ大量生産が可能なのか、ということだ。
まあ、話だけでなく、中高生向けの「斜に構えた人生哲学」などが装飾として入って分量を水増ししながら、ファンの期待に応えているのかもしれない。


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