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「笑いの考察」は、創作活動の上で必須に近いものだと私は思っているので、参考までに「紙谷研究所」から記事の一部を転載する。もちろん、筒井のこの文章はずっと昔に読んでいるが、下の引用記事のほうが正確だろう。
「風刺」で笑うというのは、「権威が攻撃されているのが気持ちいい」という快感、ある意味では下品な精神のためだろう。嫌いな人間がいじめられているのを傍観する小学生の心理だ。ただ、いじめは弱者が対象だが風刺は強者が対象であるという違いである。
だが「パロディ」はたとえば「提灯に釣り鐘」という対比に似ている。対比そのものから生まれる「頭脳の浮遊感覚」を楽しむのである。べつに提灯にも釣り鐘にも畏怖や軽蔑の気持ちを持つ必要は無い。単に「似た形のものが、同じように『ぶら下がっている』こと」を発見した喜びである。つまり、科学者の発見の喜び、あるいはその発見を知って知識が増える喜びに近い。風刺とパロディどちらが高級な精神であるかは自明だろう。
もちろん、風刺が無用だとか無意味ということではない。昔から笑いは敵を攻撃する武器でもあったのである。スィフトのように、人間存在そのものを風刺の対象として冷然と切り捨てた巨大な風刺家は、最大級の哲学者以上の知性である。



(以下引用)

 筒井康隆の風刺・パロディ論争を思い出す(「笑いの理由」/筒井『やつあたり文化論』、新潮文庫所収)。

 最近「差別語」論争について振り返る機会があって久々に読み返していたために、記憶に残るところがあったのだ。

 

 

 筒井は風刺とパロディを区別して、パロディにおいて「原典の本質を理解していない」という批判を厳しく批判する。

なぜかというと、原典の本質を衝いているというだけでは創造性に乏しいことがあきらかで、ある程度以上の文学的価値は望めない。そこで途中から原典をはなれ、その作品独自の世界を追求したり、自分の主張をきわ立たせるために原典を利用する、などというパロディもあらわれた。パロディの自立である。(筒井前掲書KindleNo.3035-3038)

 そして筒井自身の作品について触れ、原典の本質とも細部ともかかわりなく、「むしろ遊離している」とさえ主張する。「原典の本質理解」に拘泥することを、衒学趣味、悪しき教養主義だとするのである。

 他方で、風刺についても述べる。

 筒井は、笑いにおける精神的死の典型は、大新聞社の紙面を飾る1コマ風刺マンガだとする。実際に「面白くもおかしくもない」とのべ、「時にはカリカチュアライズした似顔絵だけの漫画」などとこき下ろす。このようなものを新聞社がありがたがる理由について、笑いの中核には「現代に対する鋭い風刺」が必ずなければならないという貧しい信念が大新聞社的良識があるからだ、とした。“チャップリンの方が、マルクス兄弟よりも高級だ”という風潮をあげながらこう述べる。

なぜこういう誤解があったかというと、常識の鎧を身にまとった人間というものは、笑う際にも意味を求め、意味のある漫画しか理解できない傾向があり、これはあの事件のもじりであろうとか、なるほどあのひとは誇張すればこんな鼻をしているとか、そういった卑近な連想によってのみ笑う(筒井前掲書KindleNo.2853-2856)

 対比的に筒井は、自らの「ドタバタ喜劇」の目指すものを、人間の意識の解放、常識の破壊、想像力の可能性の追求などとしている。

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