私は高橋留美子のファンで、彼女を高く評価する者ではあるが、彼女の長編作品は、「めぞん一刻」を例外として、ほとんどはパターンの繰り返しだけで長く書き続けた印象がある。それで一定水準の面白さを維持できたのだから凄い才能だが、彼女を萩尾望都や山岸凉子や大島弓子ほどは高く評価はしない。まあ、比較するなら美内すずえに近いタイプだろう。
で、ここで論じるというか、考察するのは高橋留美子の「ユーモアのパターン」である。
簡単に言えば、彼女のユーモアは、キャラクターの「化けの皮が剥がれる」こと、つまりキャラクターが「そう見せたい自分」の化けの皮が剥がれて「現実のキャラ」の本質が暴露され、その「失敗による笑い」である。脇役キャラの中には毎回この失敗をする者もたくさんいる。老人キャラや子供キャラに多いが、「一見二枚目青年」や「一見強面キャラ」もその化けの皮を剥がれて笑いの対象になる。その点、「美少女キャラ」はその失敗があまり無いようだ。むしろ、女性キャラは男性キャラの「実際の姿」を見抜いて、それをちゃっかり利用する「現実主義者」が多い。
ここで、アニメ「サイ(字が面倒なのでカタカナにする)木楠夫のサイ難」の笑いと比較するが、このアニメでは外面的行為と内心の違いが即座に視聴者に分かる描写になっていて、即時的に笑いになる。つまり「化けの皮」が剥がれる必要は無い。そういう外面と内面の食い違いがあるキャラは当然失敗することが多く、その点でも「失敗による笑い」はあるが、それは特に「化けの皮が剥がれる」ことによる笑いというものではない。まあ、失敗というものは滑ったり転んだりでも笑いを生むのである。つまり、意外な事態による「人間の威厳の喪失」は笑いを生む。
それは、我々が「体面」や「自尊心」「虚栄心」に常に縛り付けられた生活を送っていることから、そうした失敗をする人間の心情(屈辱感)がよく分かり、それと同時に「あいつ、あんな失敗をしやがって」と意地悪な快感を覚えるからだろう。
もちろん、笑いには別の笑いもあるだろうが、ほとんどは「威厳の喪失」による笑いではないか。
で、ここで論じるというか、考察するのは高橋留美子の「ユーモアのパターン」である。
簡単に言えば、彼女のユーモアは、キャラクターの「化けの皮が剥がれる」こと、つまりキャラクターが「そう見せたい自分」の化けの皮が剥がれて「現実のキャラ」の本質が暴露され、その「失敗による笑い」である。脇役キャラの中には毎回この失敗をする者もたくさんいる。老人キャラや子供キャラに多いが、「一見二枚目青年」や「一見強面キャラ」もその化けの皮を剥がれて笑いの対象になる。その点、「美少女キャラ」はその失敗があまり無いようだ。むしろ、女性キャラは男性キャラの「実際の姿」を見抜いて、それをちゃっかり利用する「現実主義者」が多い。
ここで、アニメ「サイ(字が面倒なのでカタカナにする)木楠夫のサイ難」の笑いと比較するが、このアニメでは外面的行為と内心の違いが即座に視聴者に分かる描写になっていて、即時的に笑いになる。つまり「化けの皮」が剥がれる必要は無い。そういう外面と内面の食い違いがあるキャラは当然失敗することが多く、その点でも「失敗による笑い」はあるが、それは特に「化けの皮が剥がれる」ことによる笑いというものではない。まあ、失敗というものは滑ったり転んだりでも笑いを生むのである。つまり、意外な事態による「人間の威厳の喪失」は笑いを生む。
それは、我々が「体面」や「自尊心」「虚栄心」に常に縛り付けられた生活を送っていることから、そうした失敗をする人間の心情(屈辱感)がよく分かり、それと同時に「あいつ、あんな失敗をしやがって」と意地悪な快感を覚えるからだろう。
もちろん、笑いには別の笑いもあるだろうが、ほとんどは「威厳の喪失」による笑いではないか。
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