「高慢と偏見」のオースティンは一生をアマとして終えた(プロと言えるほどの生涯収入は無かったはずだ。)が、悠々と創作活動を続け、優れた作品を幾つも生み出した。それは書くこと自体が好きだったからだ。「赤毛のアン」のモンゴメリーは、2作目以降はプロになったと言えるだろうが、そのために夫との仲が悪くなり不幸な家庭生活を送った。「アン」の2作目以降は、出版社の求めに応じて書かれたもので、おそらく書くべきこともさほど無かったためか、ほとんどが凡作らしい。
(以下引用)
私の理想の生き方は、ヘンリー・ダーガーかも。
まあ、私の場合は「小説を書くこと」自体が人生の理想として存在した感じもあって、「こういう小説が書きたい」という切実な動機も無く、周囲を観察してネタを豊富にし、キャラ作りの参考にする、という努力は何ひとつしていない。ドストエフスキーの「作家の手帳」を少し読むと、彼の好奇心の旺盛さに驚く。どうでもいいような庶民のキャラのスケッチ的な文章や、社会的事件のメモがたくさん書かれているわけだ。私のように新聞も読まない、テレビも見ない人間、つまり社会にも人間にも本質的には関心が無い人間は本来小説など書く資格は無いと思う。
まあ、書きたい小説は、下手くそではあっても既に書いてあるし、描きたい絵も既に描いた。社会評論的文章や哲学的考察も別ブログで既に書きすぎるほど書いてあるので、残りの人生を面白くすごすには何がいいか、考え中である。
要は、既知事項による別事項の推定であるようだ。
内挿は、既知事項を含む集合内での推定、
外挿は既知事項の外の集合での推定、
と言えるのではないか。挿は単に「差し込む」意味だろう。既知事項をどこに差し込むかという話だ。
(以下引用)
内挿(Interpolation)と外挿(Extrapolation)という言葉は、最近ではDeep Learning関連で目にする事が多い気がしますが、内挿・外挿とは、データを近似し、データ以外の場所を推定する際に、データの範囲内を推定することを内挿といい、データの範囲外を推定することを外挿といいます。
しかしながら、一般的に外挿で推定した値は必ずしも正しいとは限らないため、しない方が良いといわれます。以下に推定した値が正しくならない例を示します。
銃[編集]
銃における口径は、銃身の内径(≒発射される弾丸の直径)を示す。単位としては、ヨーロッパで主用されるメートル法と米国で用いられるヤード・ポンド法の二つが用いられている。このほか重量単位が用いられることがある。銃身長は3インチや77ミリメートルといった実測値がそのまま表記される。
軍用弾においては、弾種は7.62x54mmR弾に見られるように口径×薬莢長の表記が用いられている。米国で開発された.50 BMG弾と.223レミントン弾がNATOの標準弾に指定された際には、12.7x99mm NATO弾と5.56x45mm NATO弾としてヤード・ポンド法表記から口径×薬莢長のメートル法表記に改められた。
拳銃などにおいて、n口径とは、銃口の内径が「100分のn」インチであることを意味し、独立の単位として存在する。1インチは25.4ミリ(=2.54センチメートル)であるので、たとえば40口径は約10ミリである。また、50口径は別名「半インチ」(12.7mm)となる。表記においては小数点(.)を数字の前に書き記すことも多い。口径の後ろに固有の名前をつけて弾種が表される。たとえば、日本の警察用拳銃、ニューナンブM60(現在はS&W M37だが同じ)の口径は38口径で弾薬は.38スペシャル弾が用いられている。まれに、弾丸の直径ではなく薬莢の直径を表している場合がある。一般に38口径≒9mmとされているが、薬莢の直径が0.38インチ(9.65mm)であり、弾丸の直径が9mmである。.357マグナム弾(0.357インチ=9mm)用の銃は、.38スペシャル弾を発射することが可能であるが、この場合は数値は異なっているが、実際に発射される弾丸のサイズは同じである。
そういう意味では「宮沢賢治」「太宰治」あたりを推すが、あまりに言及されすぎていて反発を買いそうな志賀直哉などもやはり名文家だと思う。夏目漱石は初期作品が文章も内容もいい。
ここに出ている村上春樹はやはり文章が上手いとは思うが、にじみ出る二枚目気どりが耐えがたい。あの顔でこれを書くかという気持ち悪さである。
一番文章が上手い小説家
朝井りょうとか東野圭吾とか
こういうこと言ってる奴は例外なく教養がないだけ
これを読み易くする翻訳家がもう一人必要だわ
>>18
翻訳が読みにくいのは英語と日本語の文法構造が全然違うからだろう
日本人的には意味を解釈するのに時間がかかってそれがストレスになってるんだと思う
大人気作品のグレートギャツビーは村上春樹を含めて複数の翻訳作家が手掛けてるが
役者によって芝居の共感性に違いが出る程度の差であって
演出家が変わるほどの違いはない
逆に違いが出たらまずいからさほど差があるわけもないんだけど
このスレで評判がいい村上春樹訳でも翻訳作品ならではの分かりにくさは克服されてない
グレートギャツビーをモチーフにした翻訳の違いに着目した小論文があるので貼っておく
なかなか面白い
F. Scott Fitzgerald ”The Great Gatsby” における
野崎孝、村上春樹、小川高義による日本語訳比較分析 ――小川高義の翻訳ストラテジーにおける新規性に着目して――
◯吉岡泉美 慶應義塾大学 総合政策学部3年
https://gakkai.sfc.keio.ac.jp/show_pdf/ORF2012-01.pdf
>>60
この論文の一部を紹介
But young men didn’t–at least in my provincial inexperience I believed they didn’t–drift coolly out of nowhere and buy a palace on Long Island Sound. (p.54, 27 words)
1/しかし、どこからともなく飄然と立ち現れた 青年が、
ロング・アイランド海峡に臨む大邸宅を買い取るなどということはありえない――
すくなくとも田舎育ちの未経験なぼくには信じられないことだった。
(野崎、p.69、92字)
2/しかし若い人間がいずこからともなく現れ出て、涼しげな顔で、
ロング・アイランド海峡に宮殿のごとき豪邸をぽんと買い求めるなどということは――
少なくとも僕のようなものを知らない地方出身者の常識ではということだが―― あり得ない。
(村上、p.95、110字)
3/しかし若い男が――少なくとも都会に不慣れな私の乏しい経験で考えれば――
どこからともなく流れてきて、いきなりロングアイランドの海が見える豪邸を買い取るというのはおかしい。(小川、p.82、84字)
この箇所では村上訳が突出して字数が多い。特に太字にした原文ハイフン内の訳出が、
小川訳はコンパクトでこなれている。また字数の少なさに関連して、
原文の文章構造を比較的自由に変化させる点も小川訳の特徴であると言える。
>>61
しかし若い男には無理だろう――俺の経験からすると――なんとなく現れて買うなんて
みたいに口語的にしたらだめなんかな
ただそのまま訳した方が感じが出ると思うんだが
主人公の男のキャラが
村上春樹の小説の主人公みたいに主体性のない弱腰男なので
自信に溢れたトーンじゃ似合わないんじゃないかな
口語的な場合は”僕”で
日本人はダメだな
俺も>>67で同じ間違いをしてるが
読み慣れてるからやっぱり野崎訳以外は違和感がある
いちどイメージができちゃうとダメだね
原作を知ってる漫画の実写化への違和感と同じやつ
小川は何を訳しても、
ラヒリだろうがフィッツジェラルドだろうが何を訳しても、
全部おんなじ文体になるから好きじゃない
うすっぺらい論文だけど文章の比較分析は面白いな
このスレの趣旨にもっともふさわしい材料だね
1番音楽づくりがうまいミュージシャンは誰か?と同じ
最近、「はじめての文学(全12巻)」を暇だから、読破した。
読みやすさという点では、村上春樹、重松清、林真理子が圧倒していた。
でも、題材を考慮すると村上春樹が圧倒的なうまさだと思った。
中上健次を真似てるかのような乱れ方
韓国としても初のノーベルで誇らしいだろう
日本人がとるとしたら多和田葉子や小川洋子の可能性もある
数年前井上陽水の詞が英訳されていてノーベル賞を取らせようとしているのではないかと思う
人それぞれだな
俺は1冊で降参した
もちろん村上春樹も
じゃあ丸谷才一でも読めばいい
俺は読まないけど
好き嫌いは別れるかな
言霊とはいわんが本来のものがねえ
それ言ったらマイナー言語は全て無理になるから国が偏るぞ
うんまあそうだなすまんw
世界規模の祭典だもんな
夏目漱石はわかるのにな
泉鏡花は三島由紀夫も読んでると何言ってるかわからなくなると言ってた
それ以降は意図的に日本語を壊さないと新しい表現はなかなかできない気がする
太宰や志賀はクセの強さもそれが小説表現として完成しているのでやっぱり天才だなあと思う
たしかに見事な美文だな
大正は日本文学のルネサンスだわ
たぶんそう
尾崎の家に居候してたんだっけ
おれも
キザって表現でもないんだけど語彙が出てこない
三島独特のナルシシズムに太宰みたいなコンプレックスが入り混じってる
リーダビリティは確かに抜きん出てると思う
他の読みにくい現代日本の作家と比べてみるとよくわかる