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内田樹の記事で、例によって隙の無い(いつでも批判への抗弁が可能な)論理から、頭をひねるような結論に至っている文章に見える。しかし、論じている「品位」という題目は面白い。結論が、「品位」とどう関係しているのかは分からないが。
なお、私は白川静の漢字論も嫌いで、何でもかんでも「呪術」と結び付けて説明するやり方が嫌いである。
さて、内田は次のように言う。これを考察してみよう。

そして、品位(decency)は決してオルタナティブを認めてはならないものである。
 なぜなら、品位はその本質からして「集団内部的なもの」「内輪の決まり」ではないからである。それは「外部」から到来するもの、われわれと共通の論理や価値観や美意識を共有しないもの、すなわち「他者」と向き合うときの作法のことだからである。

という論理は、勝手な論拠を自分で提出しているように見える。そこが内田樹的に思える。品(ひん)とは「品(しな)くだれる」のように、下層階級と上流階級(自分たち)を差別する意図で生まれたのが起源であり、それは単に上下の階層を示す意味であり、内部と外部の関係もあり、内部の中だけでの関係もあるのである。ついでに言えば「品位」の「位」も階級を意味する。
これもついでに言えば、上品下品がモラル的な意味なら、私は「品位」を基準とした差別を大喜びで許容するものである。これは上級国民も下級国民も平等に対象とできる基準だからだ。安倍元総理など、下品の最たるものであり、政治家の9割も同じである。

(以下引用)

品が良いとは悪いとは

2023-03-07 mardi

 というお題を頂いた。よく考えると不思議な論題である。そんなの「わかりきったことじゃないか」と思ったからである。でも、これをあえて主題的に論じて欲しいと求められたのは、「品のよしあし」が「わかりきったこと」ではもうなくなったという現実を映し出しているのだと思う。たぶん編集者のどなたかが、誰かの言動について「品が悪いなあ」という印象を述べた時に、「あなたいま『品が悪い』と言われたが、それはいったいどのような客観的根拠に基づく言明なのですかな。『品が良い/悪い』の判定ができるというなら、その基準をただちに開示せよ」というようなことを言い立てられて、気鬱になったというようなことがあったのであろう。
 最近はそういうことが多い。いちいち「個人の感想ですが」とか「写真はイメージです」とかお断りを入れないとうるさく絡んで来る人がいる。
 これは「ポストモダン」固有の知的荒廃の現れではないかということをアメリカの文芸評論家ミチコ・カクタニが指摘していた。ポストモダンは「客観的現実」という語を軽々しく口にできなくなった時代である。われわれが見ている世界は、それぞれの人種、国籍、性別、階級、信教、イデオロギーなどのバイアスによって歪められている。それ自体はそれほど目新しい知見ではない。自分が見ているものの客観性を過大評価してはならないというのは、プラトンの「洞窟の比喩」以来ずっと言われてきたことである。だが、ポストモダン期にはその知的自制が過激化した。
「自制が過激化する」というのは変な言い方だが、そういうこともある。プラトンの場合なら、振り返れば洞窟の外には客観的現実があるわけだけれど、ポストモダンが過激化した現代では「振り返って現実を見る」ということ自体がもう人間にはできないと宣告されたのである。客観的現実について語るのは虚しいからもう止めようということになったのである。なんと。
「世界の見え方は人によって違う」ということ自体は常識的な言明である。だが、そこから「万人が共有できるような客観的現実は存在しない」というところまでゆくと、これは「非常識」と言わざるを得ない。2017年1月22日、ホワイトハウス報道官がドナルド・トランプの大統領就任式に「過去最大の人々が集まった」と虚偽の言明をしたことについて問われた大統領顧問ケリーアン・コンウェイが、報道官の言明は「代替的事実(alternative facts)」を伝えたものだと述べたのが、この「非常識」の起点標識をなす。
 日本のメディアはこの言明を「もう一つの事実」と訳したが、コンウェイはこのときfacts と複数形を使っていたのである。一つどころではなく、無数の代替的事実が等権利的に併存している新しい世界の始まりがこの日に宣言されたのである。
 真実性の証明は誰にもできないとなった以上、発声機会の多い人間、声のでかい人間の勝ちである。それがポスト・ポスト・モダンの知的退廃の実相である。知的節度が過激化したせいで、知的無法状態が現出したのである。
 客観的現実さえもが懐疑される時代に「品が良い/悪い」などという判断に普遍性が求められるはずもない。もちろん、それで話を終わりにするわけにはゆかない。
「この世に品が良い悪いなどという判断を下すことのできる者はいない」と冷笑してことが決するようならこの世は闇である。いかなる時代にあっても、下品なものは断固として退けられねばならないし、上品なものは擁護され顕彰されねばならない。世の中には「オルタナティブ」を認めてもよいものもあり、認めてはならないものもある。そして、品位(decency)は決してオルタナティブを認めてはならないものである。
 なぜなら、品位はその本質からして「集団内部的なもの」「内輪の決まり」ではないからである。それは「外部」から到来するもの、われわれと共通の論理や価値観や美意識を共有しないもの、すなわち「他者」と向き合うときの作法のことだからである。
他者に向き合う作法とは、一言で言えば、「敬意を示すこと」である。
「敬」は白川静によれば、「もとは神事祝祷に関する字。神につかえるときの心意」を表わす。最もよく知られた用例は『論語』にある「鬼神は敬して之を遠ざく。知と謂うべし」である。
 敬とは距離を取ることである。熱いフライパンをつかむときに「なべつかみ」を用いるのと変わらない。
 世の中には「鬼神」に類するものがいる。うかつに手で触れると失命するかも知れないものがあまた存在する。それに対する畏怖の現れが「敬」である。ポストモダン的なバケツの底が抜けた「すべては等しく主観的幻想にすぎない」という命題に致命的に欠けているのは他者の他者性に対するこの畏怖の思いである。(『學鐙』2023年春号)
 

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半可通がいろいろ言っているが、下のコメントでいいのではないか。音感的にもチェザーレがいい。

(以下引用)



2022/4/28 13:47

教科書が表記している方を使いましょう。多くは、チェザーレを採用しています。 大体、日本語表記するのが難しいですから、厳密に言えば両方不正解です。イタリア語の「Cesar」が正しいですが、それだと読めないわスペルミス連発なるので、便宜優先でのチェザーレを使ってるだけです。

某ブログに「刑名審合」という言葉が出ていて、昔「韓非子」は読んだことがあって、「二柄」の部分は特に感銘を受けたのだが、改めて「刑名審合」という言葉を見て、「刑」と「名」とは何だ? と疑問に思ったので調べてみた。韓非子の趣旨では「(君主は臣下の)言葉と行為が一致するかどうかを見よ」という趣旨で、行為なら、「刑」ではなく「形」が適切ではないかと思ったわけだ。形とは「実態」「実体」のことだ。調べると「刑名参同」という言葉もあって、ますます意味が分からなくなった。「参同」って何だよ。「賛同」は知っているが、それなら「賛成」と同じじゃないか、というわけだ。

(以下引用)

二柄 刑名参同 人君好を去り悪を去りて群臣素をあらわす

2015年12月23日 水曜日 晴れ

韓非子 中国の思想I韓非子 西野・市川・訳 徳間書店 1996年第三版

明主の導(よ)りてその臣を制するところは、二柄(にへい)のみ。二柄とは刑徳なり。何をか刑徳という。曰く、殺戮これを刑といい、慶賞(けいしょう)これを徳という。(韓非子、同書、p29-30)

刑名参同(けいめいさんどう):
人主まさに姦(かん)を禁ぜんと欲せば、すなわち刑名を審合(しんごう)すとは、言と事となり。(韓非子、同書、p32-33)

(人君、)好を去り、悪を去りて、群臣、素をあらわす。群臣、素をあらわさば、すなわち人君、蔽(おお)われず。(韓非子、同書、p37)

*****

 君主が君主でありつづけるためには、どうすればよいか。それが韓非のメイン・テーマであった。それを君主の臣下統率法にしぼって説いたのが、「二柄」である。中核のまた中核、ここに韓非の理論のエッセンスが示されている。
 術の基本となるのは、法によって定められた賞罰を行う方法である。これが刑名参同と呼ばれる厳格な勤務評定であった。・・・(中略)・・・
 さらに、刑名参同による賞罰を成功させるには、臣下にだまされてはならない。・・・君主と臣下の関係は、計算ずくであり、だましあいである。・・・上下関係のなかでの絶えざる闘争、その激しい動きを内包しつつ、現在の組織が成りたっているのだ。この認識の上に韓非の君主論の基礎がおかれている。(韓非子解説、同書、p37-38)


       
檄           
楯の會隊長  三島由紀夫 

 

 


  われわれ楯の會は、自衞隊によつて育てられ、いはば自衞隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行爲に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、學生は三年、隊内で準自官としての待遇を受け、一片の打算もない敎育を受け、又われわれも心から自隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「眞の日本」をここに夢み、ここでこそ終戰後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂國の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳驅した。このことには一點の疑ひもない。われわれにとつて自隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の氣を呼吸できる唯一の場所であつた。敎官、助敎諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの擧に出たのは何故であるか。たとへ強辯と云はれようとも、自隊を愛するが故であると私は斷言する。
 われわれは戰後の日本が、經濟的繁榮にうつつを拔かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陷り、自ら魂の空白狀態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、權力慾、僞善にのみ捧げられ、國家百年の大計は外國に委ね、敗戰の汚辱は拂拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と傳統を瀆してゆくのを、齒嚙みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自
隊にのみ、眞の日本、眞の日本人、眞の武士の魂が殘されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自隊は違憲であることは明白であり、國の根本問題である防が、御都合主義の法的解釋によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廢の根本原因をなして來てゐるのを見た。もつとも名譽を重んずべき軍が、もつとも惡質の欺瞞の下に放置されて來たのである。自隊は敗戰後の國家の不名譽な十字架を負ひつづけて來た。自隊は國軍たりえず、建軍の本義を與へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか與へられず、その忠誠の對象も明確にされなかつた。われわれは戰後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自隊が建軍の本義に立ち、眞の國軍となる日のために、國民として微力の限りを盡すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 四年前、私はひとり志を抱いて自
隊に入り、その翌年には楯の會を結成した。楯の會の根本理念は、ひとへに自隊が目ざめる時、自隊を國軍、名譽ある國軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前となつて命を捨て、國軍の礎石たらんとした。國體を守るのは軍隊であり、政體を守るのは警察である。政體を警察力を以て守りきれない段階に來て、はじめて軍隊の出動によつて國體が明らかになり、軍は建軍の本義を囘復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・傳統を守る」ことにしか存在しないのである。國のねじ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少數乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。總理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、壓倒的な警察力の下に不發に終つた。その狀況を新宿で見て、私は、「これで憲法は變らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒嚴令にも等しい警察の規制に對する一般民衆の反應を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を收拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政體維持のためには、何ら憲法と牴觸しない警察力だけで乘り切る自信を得、國の根本問題に對して頰つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて實をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利點を得たのである。名を捨てて、實をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自
隊にとつては、致命傷であることに、政治家は氣づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる僞善と隱蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
 銘記せよ! 實はこの昭和四十五年十月二十一日といふ日は、自
隊にとつては悲劇の日だつた。創立以來二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議會主義政黨を主張する自民黨と共産黨が、非議會主義的方法の可能性を晴れ晴れと拂拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生兒であつた自隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
 われわれはこの日以後の自
隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自隊に武士の魂が殘つてゐるならば、どうしてこの事態を默視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に對する、男子の聲はきこえては來なかつた。かくなる上は、自らの力を自覺して、國の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自隊は聲を奪はれたカナリヤのやうに默つたままだつた。
 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を與へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に與へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは來ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に關する財政上のコントロールである。日本のやうに人事權まで奪はれて去勢され、變節常なき政治家に操られ、黨利黨略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乘り、より深い自己欺瞞と自己冒瀆の道を歩まうとする自
隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。纎維交渉に當つては自民黨を賣國奴呼ばはりした纖維業者もあつたのに、國家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自隊からは出なかつた。
 沖繩返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を囘復せねば、左派のいふ如く、自
隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の眞姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の價値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の價値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ。これを骨拔きにしてしまつた憲法に體をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、眞の武士として蘇へることを熱望するあまり、この擧に出たのである。

 

 

 

 

(注)1.上記の三島由紀夫の「檄」の本文は、主として『多摩湖畔日誌』というサイトに掲載し
      てある「檄文」のコピーの写真により、その他『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)
      (新潮社、昭和51年2月25日発行)所収の本文を参照して記述しました。
           → 三島由紀夫「檄」
(「檄文」のコピーの写真) 
     2. 文中の漢字は、コピーの写真に一部常用漢字(当用漢字)体になっているものも、
      旧字体に直して表記しました。
(全集の漢字はすべて旧字体になっています。)
       なお、「凛烈」は「凛冽」、「ねじ曲つた」は「ねぢ曲つた」、「治安出動は不用となつ
      た」は「治安出動は不要となつた」、「堺」は「界(又は「境」)」とあるべきところかと思
      われますが、原文のままにしてあります。(前掲の『全集』には、「ねじ曲つた」だけが
      「ねぢ曲つた」となっています。 
2011年8月23日確認。

        * 全集記載の「檄」と、ここに掲げた「檄」との本文の違いは、「ねじ曲つた」が全集には
         「ねぢ曲つた」となっている点だけです。


     3. 『全集』の巻末にある「校訂」には、
銘記せよ! 實はこの昭和四十五年十月二十
      一日といふ日は」の「昭和四十五年」について、<「昭和四十四年」の誤りと思われる
      が、原文のままとした>とあります。
     4. この「檄」について、『全集』巻末の「解題」に、「「檄」と「辭世」は、昭和四十五年十     
      一月二十五日、午後零時十五分、自衛隊市ヶ谷駐屯地、東部方面総監室にての自決
      に際して遺されたものである」とあります。
     5. 著作権について:檄文の性質上、資料として掲載することは差し支えないものと判断
      して、掲載させていただきました。 

聞き取り難い部分がありますが、可能な限り文字に起こしてみました。
分からない箇所は"?"になっています。



諸君は、去年の10.21から後だ。
もはや、憲法を守る軍隊になってしまったんだよ。
自衛隊が二十年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだよ。
もうそれは政治的プログラムから外されたんだ。
ついに外されたんだ、それは。
どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
去年の10.21から一年間、俺は自衛隊が怒るのを待ってた。
もうこれで憲法改正のチャンスは無い。
自衛隊が国軍になる日はない。
建軍の本義は無い。
それを私は最も嘆いていたんだ。
自衛隊にとって、建軍の本義とは何だ。
日本を守る事。
日本を守るとは何だ。
日本を守るとは、天皇を中心とする、歴史と文化の伝統を守る事である。
おまえら聞けぇ、聞け!
静かにせい
静聴せい!
話を聞け!
男一匹が、命を懸けて諸君に訴えてるんだぞ。
いいか。
いいか。
それがだ、今日本人がだ、ここでもって立ち上がらなければ、自衛隊が立ちあがらなきゃ憲法改正ってものは無いんだよ。
諸君は永久にだねぇ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。
諸君と日本の…?…アメリカからしか来ないんだ。
シビリアンコントロール…?…
シビリアンコントロールに毒されてんだ。
シビリアンコントロールというのはだな、新憲法下で堪えるのが、シビリアンコントロールじゃないぞ。
そこでだ、俺は四年待ったんだよ。
俺は四年待ったんだ、自衛隊が立ち上がる日を。
そうした自衛隊の…?…最後の三十分に、最後の三十分に…?…待ってるんだよ。
諸君は武士だろ。
諸君は武士だろ。
武士ならばだ、自分を否定する憲法をどうして守るんだ。
どうして自分を否定する憲法にだねぇ、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。
これがある限り諸君ってものは永久に救われんのだぞ。
諸君は永久にだねぇ、今の憲法は、政治的謀略に諸君が、合憲の如く装ってる。
自衛隊は違憲なんだよ。
自衛隊は違憲なんだ。
貴様たちも違憲だ。
憲法というものは、ついに、自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったのだという事にどうして気がつかんのだ!
どうしてそこに諸君は気がつかんのだ!
俺は諸君がそれを絶つ日を待ちに待ってたんだ。
諸君はその中でもただ、小さい根性ばっかりに惑わされて、本当に日本の為に立ち上がる時は無いんだ。
抵抗したからだ。
憲法の為に、日本を骨無しにした憲法に従って来たという事を知らないのか。
諸君の中に一人でも俺と一緒に立つ奴は居ないのか。
一人も居ないんだな。
よし。
武というものはだ、刀というものは何だ。
自分の使命に対して…?…という言葉だ。
それでも武士か!
それでも武士か!
まだ諸君は、憲法改正の為に立ち上がらないと見極めがついた。
これで俺の自衛隊に対する夢は無くなったんだ。
それではここで、俺は天皇陛下万歳を叫ぶ。
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