「神武東征」も、実は戦の結果ではなく単に大和に後から来た部族が成り上がっただけかもしれない。先住豪族(ニギハヤヒ系部族)が物部氏や大伴氏で、蘇我氏が天皇家の前代、ということだ。蘇我氏が天皇家以前の中心的豪族で「大王」だった可能性はあるだろう。確か、「天皇」と名乗るのは天武以後だった気がする。ついでだが、「日本」という国名も天武以降だったはずだ。
(以下引用)赤字部分は当ブログ(四月の雨)筆者による強調。
この文章は、安本美典氏の論考に触発されて少し調べてみた結果を述べるものである。そのため、氏の論に多くを負っている。すべてに賛成というわけではないのだが、面白い着眼点だと思っている。
なぜ神武天皇陵は所在不明になったのか?最近の歴史学では、第十代崇神天皇以後は実在したかも知れないが、それより前の九代の天皇はすべて架空の人物というのが通説とされている。それによれば、もともと存在しない天皇だから、陵墓もなくて当たり前なわけだ。
この件はすでに別の項で述べたので、ここでは繰り返さない。ただ私は古代天皇実在説に立って、改めて日本古代史を問い直してみたい。初期天皇架空説を唱える人でも、日本書紀に記載された地名を取り上げて、比定地を探っているらしいからだ。
神武天皇陵は実際には現在公式に認められているミサンザイでなく、その南方にある丸山古墳だという説があるそうだ。神武天皇架空説を採る人はにやにやするだけだろうが、実在説を採る人も「あんな小さな古墳が偉大な天皇家開闢の祖、神武天皇陵であるはずがない」と思うらしい。しかし神武天皇が当時はまだ一地方氏族で、物部氏の容認でやっと大和に住むことを許されただけだったら、大きな古墳を作らなかったのも当然だ。
別の項で、神武天皇を初代とする初期天皇家は、後代には賤業とされた職業に携わっていた可能性があることを述べた。つまり朱の採掘や、水銀の精錬である。はじめは賤業でも、財を蓄えて力を着ければ豪族になり、やがては王にもなる。神武が大和入りしてすぐ大王になり、初代天皇になったと考えるのは(日本書紀にそう書いてあるのだが)、誤りだろう。
神武から数代の天皇家は、まだどちらかと言えば貧しく暮らしていたのではないだろうか。丹敷では船が難破し、一行はほとんど潰滅状態に至っているのだ。大王になるどころか、生き延びるのが精一杯だっただろう。神武は、後代になって「祖業」を築いた偉大な先祖と見られたにしても、まだ成功を収めるに至らないまま早死にしたと思うのである。
よく考えてみると、神武から開化までの九代の天皇の陵墓には、あまり目立ったものがない。崇神に至って初めて、箸墓古墳のような大型古墳が現れる。それに神武天皇の出身地とされる宮崎(日向)には、あまり古い古墳はない。大和で大型古墳を作り始めたのが先であり、日向ではそれより遅れて始まったらしい。つまりもともと天皇家の祖先には、巨大墳墓を築造する伝統がなかったのではないだろうか。古墳の多くは、いわゆる地方豪族による築造である。「古墳時代」と言えば、「天皇を中心とした巨大陵墓」が次々と作られた時代、という認識を持つのだが、事実はそうではない。大和平野の古墳群には、天皇家と無関係な当時の豪族の墓が相当数含まれているだろう。
神武天皇陵がミサンザイに治定されたいきさつは、安本美典氏の著作に詳しい。大筋を言うと、幕末に尊皇思想が有力になってきたので、徳川幕府でも天皇陵の調査を行うことになり、宇都宮藩が主体となって各地の御陵を調査した。当時丸山古墳説とミサンザイ説があり、調査委員は丸山古墳が単なる小高い丘でとても古墳のようには見えないし、周囲に被差別民の部落があり、「薄汚い連中」の住むところで、神聖なる初代天皇の墳墓ではあり得ないと報告した、というのである。
ちなみに、幕末には財政が逼迫していたのだが、この修陵事業には相当な大金を出したらしい。幕府内でも天皇を神聖視する考え方はかなり浸透していたのだろう。宇都宮藩は水戸にも近く、尊皇の気風は強かったと考えられる。
また、当時は孝明天皇による陵墓参りが企画されており、被差別民を立ち退かせる必要があったのだが、日程的に間に合わないという判断があったとも言う。
この部落を洞(ほら)部落と呼んだそうだが、この名称にも何やら謎めいた感じがある。「洞」というのは、中国では少数民族の居住地域を指し、朝鮮では神などの住まう場所を指すことが多いようなのである。
神武天皇の崩御の後、その墓守として、九州から東征に同行した家人を付けたという伝承があるそうだ。その時点では賎民ではなかったらしい。むしろ由緒正しい家系として誇りを持っていただろう。
ところが律令制が始まった頃、天皇陵の墓守は「陵戸」とか「守戸」と呼ぶ賎民とされた。ただし朝廷から相応の土地や毎年の俸給を得ていたらしいので、案外過酷な身分ではなかったようだ。他の身分との通婚禁止という制約はあったが、これも一種の身分保護だった可能性がある。いずれにしても、幕末の時点で国家の庇護もなく、ひどい状態に置かれていたのは、どこかの時点で政府の方針が変化したのであろう。
私は、陵戸や守戸という「賎民」は良民より劣った身分と認識されたというより、本来は「聖別」された人々だったのだろうと思う。通婚禁止というのも、聖別された人と世俗の民の血が入り交じるのを怖れたのだろう。それがいつしか聖なる身分であることが忘れられ、タブーの面だけが残って「穢れ」と感じられるようになった。
彼らは死者を保護する人々である。古代には、さして穢れの意味はなかったらしい。だが時代が下るにつれ、死の世界を畏れ忌避する風潮が強まった。日本の土着の宗教には、天国と地獄の観念がない。生者の世界と死者の世界の二つしかないのである。生者の世界は明るい光に満ち、美と希望と快楽がある。しかし死者の世界には腐敗と汚穢だけがある。
強いて言えば、その境界は顕宗天皇による雄略天皇陵毀損記事である。兄(後の仁賢天皇)が驚いて弟を諫め、結局企てを取り止めた(古事記では、兄がほんの少し陵墓の土を掘ったという)のだが、天皇がいくら恨みを抱いたとは言え、陵墓に触るというのは、やはりタブーだったのだ。彼ら兄弟が雄略に殺された父の骨を掘り出させて直に見たというのも、珍しい話である。
人類の歴史における最初の神は、祖先神だっただろう。つまり自分の親や祖父などを祭り、かつて自分を育ててくれた頃と同じように死後も見守って欲しいと願うのである。ここでは死霊は本来守護の霊である。しかし戦いで殺し合ったりするうち、死者の怨念や呪いが残留する可能性も増しただろう。ただし、多くの民族では、死者をいかに安らかに眠らせるかに心を砕いたようであり、おそらく死に臨んだときの苦しみ(ほとんどの死は苦しみを伴う)から、多くの人が死に対する恐怖を抱いたに違いない。
古い形が残る地方の葬送儀礼を見ると、死者がこの世に帰ってくることのないように、二重三重にあの世に送る仕掛けになっているらしい。死者に送る別離の言葉にも、繰り返し「戻ってくるなよ」という言葉が現れる。愛する人であっても、幽霊は怖ろしいというわけだ。
死者を保護する人々としての聖別された人々は、こうした恐怖の世界の入り口に立ち、生者の世界との境界線上で仲立ちとなっているのである。死者を聖視する観念が薄れ、単なる古霊になったとき、そこにはタタリへの畏れだけが残った。だがその幽冥の境界で怖れ気もなく死者に触れる人々は、多くの人にとって怖ろしい世界に半身を浸している人々である。
この身分規定は、しかし、中世には一度完全に崩れたという。古くは技術的な職能人の多くが賎民の扱いをされたらしいが、技術革新が相次ぐ中で、維持できなくなったのだろう。江戸時代にも職能人、芸能人で賎民身分を脱する人々がいた。
それに比較して、洞部落の人々はまるで朝廷からうち捨てられたかのような暮らしをしていた。私はここに何か歴史的ないきさつがあったのではないかという感じがするのである。
それは神武天皇系と違った皇統があり、その系統が長く天皇家を継いだため、神武の祭祀がいつか忘れられ、途絶えてしまったのではないかという仮説である。
神武天皇を実在した人物と考えるならば、少なくとも天武天皇の頃にはまだ陵墓のある場所は判明していた。天武天皇は壬申の乱の際、高市縣主の許梅(コメ)なる人物が事代主神の託宣を告げたのを受けて、許梅を遣わして神武天皇陵を祭り拝ませたという。
この頃には、天皇が陵墓に直接出かけて拝むことはなかったようである。死の穢れを怖れたのだろう。だが古くは、それほど強いタブーとは思われていなかったようである。仁徳紀の白鳥陵の陵守を役丁(えよぼろ)に充てようとして起こった怪異、顕宗紀の雄略天皇陵毀損事件などは、いわゆる「触穢(しょくえ)」に当たるだろう。神功紀の「阿豆那比(あずない)の罪」の記事も、天皇自ら遺骸を確認したのかもしれない。
天武天皇は、また天照大神を尊崇した天皇でもあった。われわれは天照大神こそ天皇家の祖先神であり、最高神であるという「常識」を持っているので何ら疑問を抱かないが、そのつもりで読むと、実は崇神以来、天智にいたる天皇家では、三輪の大神である大物主神の方がどちらかと言えば有力だったのだ。
崇神天皇紀の五年から六年にかけて、疫病の流行や百姓の流離、時には一揆も起こったので、内殿に並べて祭ってあった天照大神と倭大国魂神をいずれも外に出したという記事がある。それまでこの二柱の神と天皇が同殿共床していたのである。それがあまりにも畏れ多く、祟ったのだと考えたわけだ。その後天照大神は各地を巡幸することになる。
倭大国魂神は、それまで登場しない名前だが、大物主神と同神である。宮中から出すといっても、元々三輪山の大神だったから、宮中の神は分霊、分祀である。つまり宮中の祭祀をやめただけなのだが、それではあまりにも失礼だというので、この分霊にも新たな名を与えて別に祭ったのだろう。崇神紀には明示しないが、垂仁紀では穴磯邑(あなしのむら)に祭ったと書いてある。
大物主神と同神だというのは、この前後の記事で倭大国魂神は何も言っていないが、大物主神は「私を大田田根子に祭らせよ」など、あれこれ言っていて、事件(タタリ)の主体になっているからである。なお古事記では倭大国魂神の名は出て来ない。すべて大物主神のことである。
崇神紀と垂仁紀細註はこの記事が重複しているのだが、細かく見るとずいぶん違う。すでに倭姫によって天照大神が伊勢にたどり着いた後、倭大国魂神が神託を下したとある。崇神紀では崩御の年を120才と書いてあるのに、神託では、崇神が長生きできなかったとあるなど、かなり怪しげである。
いずれにせよ崇神八年には、天皇は大物主神を讃えて大々的な祭を行っているが、天照大神は豊鍬入姫に託し、その後各地をさすらうに任せた。