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「壺斎閑話」記事の末尾で、中村某という者が、ドストエフスキーは生涯にわたって精神病者だったという説を出していることについての文章である。まあ、その当否は別として、下の部分は面白い。

四年間の監獄生活の時期が、精神的にもっとも安定したいた

という部分である。「したいた」は「していた」のタイプミスだろう。
これは、精神病を考えるうえで、面白い話である。つまり、「自由こそが精神を病ませる」という仮説だ。監獄や病院にいる時は拘束状態だから、「自由をあきらめる」。それが精神の安定をもたらすのではないか。あるいは、「自由」の代わりに「夢」や「希望」を置いてもいいかもしれない。夢や希望を失った状態こそが精神が一番健全に働くのではないだろうか。
そこで想起するのが、「冬の散歩道」の中の

when I look about my possibility (訂正:「look around」が正しいと思う)
I was so hard to please

という一節だ。この「気難しさ」が、精神の不健康さの徴候だろう。青年期が精神の危機の時であるのも、まさに夢や希望や可能性の中で迷いに迷うからではないか。つまり、カフカ的迷宮の中にいるのである。

(追記)「look around」は、対象だけでなくその周辺も見るわけで、「自分の可能性だけでなく、その周辺も見る」わけだ。言い換えれば、「キョロキョロしている」のである。

(以下引用)


そんなドストエフスキーだが、不思議なことに、四年間の監獄生活の時期が、精神的にもっとも安定したいたと中村は言う。じっさいドストエフスキー自身も、「懲役のほうが気持ちが穏やかだった」と口癖のように言っていたそうである。なぜ彼がそんなふうに思ったのか、それについては詳しく立ち入って考えていない。監獄のなかでは、他人との関係が単純化されるので、精神的なストレスも緩和され、異常な精神状態に陥ることが少なくなった、あるいはなくなってしまった、ということだろうか。もっとも、この懲役中に癲癇の発作が始まったわけで、それをどう考えるかは、また別の問題である。
いずれにしても、ドストエフスキーが統合失調をほぼ生涯にわたって患っており、その症状を直接描写することで、かれの作品世界が形成されたとする中村の推論は、その有効性はともかく、面白い試みである。
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「復讐」について考えてみる。
現代社会では、復讐は禁じられている。復讐をしたら、法的に処罰されるわけだ。しかし、上級国民は権力制度 と暴力装置で守られているから、法では裁かれない。
つまり、現代で復讐が禁じられているのは、究極的には上級国民や権力にいる側の人間を守るためであって、人権とは無関係だということだ。
論理的に言うと、法による処罰(刑罰)自体が復讐である。つまり、個人の復讐の権利がいつのまにか権力に取り上げられたわけである。それは、私人が復讐権を持つと、彼らを害した側(たいていは権力側)が復讐されるから、それをあらかじめできないようにしたわけだ。
その結果、人民は人間ではなく羊になった。

まあ、権力との関係は不問としても、我々は「復讐権」を取り戻すべきだろう。そうすれば、悪の側にいる人間も弱者においそれと手を出せなくなる。つまり、「復讐は無罪」というように法を変えるべきである。その仔細は法学者に考えてもらえばいい。たとえば詐欺犯罪は被害者には生命に関わる重大犯罪だが、「目には目を」方式だと復讐が不可能なので、「相手の財産と被害金額の割合」に応じて、復讐の度合いを決めるわけだ。財産の半分以上を奪ったら、加害者を殺してもいい、とする。等々。とすれば、たとえば安倍狙撃犯とされている山上容疑者は無罪となる。つまり、安倍は総理大臣が統一教会を許容し、利用していたわけで、統一教会の存在の大きな要因だったからだ。まあ、この事例は論理的に極端だが、とにかく「復讐は無罪」論を推進しないと世間の悪ははびこり続けるだろう。
「壺斎閑話」というブログの記事で、作者は古今東西の哲学書や文学書を読みこなす市井の知識人だが、「地下生活者の手記」をこういう読み方をした人を初めて見た。「地下室の手記」(こうも言う。)は、地下室の住人という正体不明の存在の手記という形で人間性の深遠を描いたもので、その悪辣さやシニカルさの極限性が、読む人の心を震撼させ、世界観や人間観を変える異常な傑作である。ところが、壺斎氏は、主人公の行為の下劣さにしか目が行かない。まるで、それが実在の人物の行為であると思っているかのような非難ぶりである。しかし、これは「誰でもそういう心理になる可能性はある」という、人間の魂の普遍的な悪をフィクションとして描いたのであって、その深度こそがドストエフスキーの凄さであるのではないか。単なるドキュメンタリーなら、この主人公より下劣な、残酷な行為をした人間は膨大にいるのである。しかし、それを「文学として表現した」人間がいなかったから、ドストエフスキーのこの作品は偉大なものになったのだ。つまり、ここにあるのは、「哲学の問題」なのであって、人間の魂がどのようなものかという探求なのだ。
なお、私はこの作品に関してここに書かれた「出来事」はひとつも覚えていない。ただ、「俺が一杯の紅茶を飲むためなら世界が滅んだっていい」という、衝撃的な言葉を読むだけでも、この作品を読む価値はあると思う。

(以下引用)


絶望する娼婦リーザ:ドストエフスキー「地下生活者の手記」

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「地下生活者の手記」は、手記の作者のみじめで情ない生き方を自虐的につづったものだ。とにかくそういうみじめで情けない話をうんざりするほど読者は聞かされるのである。そうした話のなかでも、もっともみじめで情ないのは、リーザという若い娼婦にまつわる話である。この娼婦は、人間の原罪を一身に背負った聖母のような女性として描かれており、その聖母のような女性が、この手記の作者のようなどうしようもない悪党に凌辱されるというのは、キリスト教徒にとっては、非常にショッキングなことに違いない。じっさいこの女性にまつわる話は、じつにショッキングでスキャンダラスなのである。
手記の作者がこの女性と出会ったのは淫売宿においてである。客と娼婦の関係としてであった。久しぶりに集まった昔の悪友たちとの間でさんざん不愉快なやりとりをしたあげく、その仲間たちがしけこんだ淫売宿にかれもついていくのである。手持ちの金がないので、憎らしい友人から金を借りるという体たらくをともなってだ。そんなわけだから、かれはむしゃくしゃした気分で女を迎えた。その女を相手にかれは、身体的な快楽にふけるのではなく、精神的にいじけきった快楽にふけるのである。つまり彼女を精神的にいじめて、そのことで自分のほうが優位に立っていると錯覚し、その錯覚を通じて精神的な快楽を味わおうというのである。もっともかれにまともな精神を期待できるわけではない。いじめっ子が弱い者をいじめることで快楽を味わうような、倒錯的な精神なのである。
彼女へのいじめの中でもっとも手の込んだものは、彼女をそのみじめな境遇から脱してまともな生活にもどれと諭すことである。作者は弱い者を前にして、自分が一方的に優位に立っているという立場に安心して、説教を垂れるのである。無論その説教は、彼女の境遇に深く同情してのことではない。かれは彼女に向かって説教を垂れながら、心の中では舌を出しているのである。なぜそんな倒錯的なことをするのか。それがわかるくらいなら、説教などしないであろう。かれはいじめっ子として振舞うことで、自分が幾分か高められたと感ずるようなのである。
始末の悪いことには、かれのそうした説教が、彼女に対して効果を及ぼしたのだ。かれの説教を聞いて、彼女は幾分か人間性を取り戻した気持ちになったのである。その証拠に彼女は、自分へ向けて書かれたラブレターを説教者に見せる。わたしにも人に愛された経験があるので、人間としての誇りはわかっているつもりです、と言いたいかのようなのだ。ともあれ、己の説教に陶酔した作者は、是非自分を訪ねてきなさいといって、彼女に住所を記した名刺を与えるのだ。
かれはそのことを早速後悔する。彼女に説教することで、自分が彼女よりもはるかに優れた境遇にいることを匂わせたのであるが、じっさいには、乞食といってよいようなひどい境遇に置かれているのだ。そんな姿を彼女に見られたら、幻滅させたうえに、軽蔑されるに違いない。過剰な自意識にとらわれている彼としては、自分より劣った人間に軽蔑されるほど屈辱的なことはない。だからかれは、彼女が訪ねてこないように祈るのだが、その願いはかなわなかった。彼女はかれと別れてから三日後にかれのところへ訪ねてくるのだ。
予期していたこととはいえ、かれにとっては至極厄介な事態であった。そこでかれがどんな行動に出たか。かれは彼女を徹底的に侮辱したのである。そうすることで、自分自身の振る舞いの馬鹿さ加減を幾分かでも和らげようとするかのように。
作者の彼女への侮辱の言葉は、読者の耳にも卑劣な響きに聞こえる。いくら自分の馬鹿さ加減に体裁を繕ろうとしても、相手をわけもなく侮辱していいわけがない。ところがこの人物には、そうした常識は一切通じない。かれにとって重要なのは、自分自身の精神状態を安定させることであって、そのためには、過剰な自意識を宥めねばならない。そのための手段はこの場合、相手を徹底的に貶めることなのだ。
しかし彼女は、自分が貶められているのは、自分のせいというより、相手つまり手記の作者の不幸がなさしめるものだと考える。そこが、彼女が聖母のような女性だという所以である。そんな彼女を作者は、追い打ちをかけるように侮辱しつづける。彼女を一人の人間として認めようとはしないのだ。それは作者が、彼女に金を握らせることによって頂点に達する。金を握らせることで、自分らの関係は対等の関係ではなく、娼婦と客の関係だと思い知らせる効果があるわけである。作者自身にそういう自覚があったかどかは別にして、クリティカルな場面で女に金を握らせるという行為は、彼女の人格を否定することを意味する。
それゆえ、金を握らされ、侮辱されたと感じたリーザの絶望は深いのだ。ドストエフスキーはなぜ、そんな場面をことさらのように描いたのか。鷹揚にみつもっても、ここには救いというものはない。あるのは、傲慢と皮肉と絶望のたぐいだけだ。この作品を転機にしてドストエフスキーの小説は深みをましていくと評されるのだが、その深みの実体は、どうも人間を突き放してみる見方に宿っているようである。
松岡正剛の「千夜千冊」記事の一部だが、歌の本質について、面白いというか、示唆的な内容である。ただし、その「歌」とは和歌、あるいは短歌のことだろう。そこに大衆歌謡、つまりポピュラーソングを加えたら、「性欲恋愛」を歌う歌が9割くらいの分量を占めるのはもちろんだが、それ以外の歌もかなりあるのである。
つまり、さまざまな「詩情」というのがあり、たとえば死も絶望もある種の詩情の素材になるわけだ。あるいは「望郷」の詩情というのも昔は多かった。ここでは故郷がある種の恋愛対象だったわけだ。つまり、恋愛性欲だけでなく、「何者かに対する魂を揺るがす感情」が歌の生命だということだろう。恋愛や性欲にそれが一番発現しやすいというだけのことである。その感情をおとなしい言葉で言えば、「もののあはれ」である。
ちなみに、小説の8割くらいはその「もののあはれ(詩情)」を欠いていて、それは娯楽にはなるが、しみじみとした感動とは無縁である。


(以下引用)

 そこで折口は、日本の歌には「歌を望みえない方へ誘ふ力」として3つの問題があるように思うと書いた。「歌の享けた命数に限りがあること」「歌人が人間として大きくも立派でもないこと」「批評がないこと」である。
 そもそも折口にとっては、日本の歌は「呪言、片歌、叙事詩の三系統の神言」から発したもので、こうした発生の事情をつぶさに見ていると、「歌は性欲恋愛の気分を離れることはできないのではないか」と哀しい予想をしたのだった。
最近よく言われる「無敵の人」は、確かに無敵である。
しかし、その種の人間が卑小にしか見えないのは、その行為が単なる身近な他人や通りすがりの人間の大量殺人にすぎないことが多いからである。つまり、「無敵」であるはずなのに、「弱敵」しか相手にしない卑怯さが、彼らを軽蔑すべき存在にしている。
これがたとえば北一輝とか大塩平八郎になると、国家や政府を相手に立ち上がった彼らの行為は、まさに英雄的行為である。いや、革命的行為だけが英雄的なのではなく、「強敵」に対して立ち上がった行為が英雄的なのである。それが世間的には悪と見做されても、それは英雄の行為だ。その種のものには、たとえばマルキ・ド・サドやニーチェがいる。文筆行為の中には、その種の英雄的行為がよく見られる。文筆の徒は柔弱な者と見られることが多いが、実は英雄にしかできない行為を為したことも多いのだ。ただし、それが人類の利益となる行為だったかどうかはまた別の話である。それで害を受けた善良な者たちも多いだろう。ここでは、善であれ悪であれ、普通人ができない行為をした者を英雄としている。

「無敵の人」がなぜ無敵になるか、その根本を言おう。それは、自分の人生と生命を捨ててかかるからである。それはしばしばその人の家族の人生も犠牲にする。だから、革命家と犯罪者は「無敵の人」としては同類なのである。
世間の多くの人が不自由と不満の人生を送る理由もまた同じ盾の半面だ。我々は、自分の人生、家族の人生を守るためにあらゆる不自由を忍んで生きるのである。
老人などは、もはや守るべき生命もほとんど無いのに、なぜあらゆる不自由を耐え忍ぶのか。それは、自分が明日死ぬ、という覚悟ができないからである。そして、自分の現状を作っている、社会的地位、名声、親類縁者などへの未練があるからである。

この一文は読みかけのトーマス・マンの「魔の山」の一節から想起した思念を書いたものなので、その一節(2か所)を引用する。

こういう事態(注:肺病からの回復が絶望的で、余命がほとんど無いこと)から僕にゆるされるすこしばかりの自由を、みなさんに大目にみていただきたいんです。高等学校で落第ときまってしまって、教師に質問もされないし、宿題もやらなくていい、あれと同じなんです。あの幸福な状態に僕は最後的にたどりついたんです。僕はもうなにもしなくていいし、もう数にもはいらない人間で、どうにでもなれなんです。



彼の感じたこと(注:主人公ハンス・カストルプ自身が、前述の若者アルピンの述懐を聞いて、彼自身の落第の経験を思い出したことへの感想)はだいたいつぎのようなことになる。つまり、名誉はりっぱな結構な特典をあたえてくれるが、不名誉もそれにおとらぬ結構なものであって、むしろ不名誉の特典はまったく広大無辺ともいえる性質のものである、というものであった。


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