(以下引用)
青年期[編集]
北条時政の次男として生まれ、江間小四郎と称した。母は「伊東入道の娘」。義時が15、6歳の頃に姉の政子が伊豆の流人であった源頼朝の妻となっている。治承4年(1180年)8月17日、義時は父・時政、兄・宗時と共に頼朝の挙兵に従うが、石橋山の戦いで大庭景親に敗北して宗時が戦死する。頼朝、土肥実平らは箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。時政・義時も別ルートで前日に安房に脱出し、現地で頼朝と合流した。態勢の立て直しが模索される中、9月8日、時政は甲斐源氏を味方に引き入れる密命を受けて義時と共に甲斐に赴き、15日、武田信義・一条忠頼のいる逸見山に到着して「頼朝の仰せの趣」を伝えたという[注釈 1]。 10月13日、甲斐源氏は時政・義時と共に駿河に進攻し、甲斐源氏との連携を成功させた時政は頼朝から報償を与えられた。12月12日、頼朝は新造の大倉亭に移徙の儀を行い、義時も時政や他の御家人と共に列した。
養和元年(1181年)4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)[注釈 2]。 この頼朝の個人的な側近・親衛隊は「家子」と呼ばれて門葉(源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置づけられ、義時はその中でも「家子の専一」とされた(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)。寿永元年(1182年)11月、頼朝は愛妾・亀の前を伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、この事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、牧の方の父・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛された。
兄・宗時が戦死したため嫡子になったとされるが、義時は『吾妻鏡』で北条姓ではなく所領とした江間の姓で記される事が多く、分家の江間家の初代であったと見られる。文治5年(1189年)に時政の後妻である牧の方を母として生まれた異母弟の政範は16歳で従五位下に叙され、26歳年長の義時と並ぶ地位にあり、時政は政範を将来の嫡子に考えていた可能性もある[注釈 3]。
元暦2年(1185年)、源範頼率いる平氏追討軍に属して西国へ赴き、葦屋浦の戦いで武功を立てた。文治5年(1189年)7月、奥州合戦に従軍。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした[注釈 4]。義時は21歳の時に長男・泰時をもうけていたが庶子であり、建久3年(1192年)9月25日、頼朝の仲介により比企朝宗の娘で誉れ高い幕府女房であった姫の前を正室に迎える。そして翌年に嫡男・朝時を儲ける。
頼朝存命中はそれほど表立つ事はなかったが、頼朝死後に鎌倉幕府内の権力闘争が激化すると頭角を現してくる。
政権簒奪闘争[編集]
正治元年(1199年)の頼朝の死後、跡を継いだ2代将軍・源頼家の独裁を押さえるための十三人の合議制に加わった。梶原景時が失脚した梶原景時の変で義時の同母姉妹の阿波局が関わった。建仁3年(1203年)、7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は頼家の乳母父で舅である比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼした。次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放する(比企能員の変)。時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任して実権を握った。『愚管抄』によると、11月になって襲撃から逃げ延びた一幡が捕らえられ、義時の手勢に殺された。元久元年(1204年)3月6日、義時は相模守に任じられた[注釈 5]。 7月18日、頼家が伊豆国修禅寺で死去。『愚管抄』や『増鏡』によれば、頼家は義時の送った手勢により暗殺された。
この時期の北条氏による有力御家人排除は、時政・義時が一体となって行われたが、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱、続く牧氏事件で父子は対立するようになる。『吾妻鏡』では時政が後妻の牧の方の讒言により人望の厚かった畠山重忠を謀殺して御家人たちの反感を買い、義時は謀反など起こすはずがないと畠山討伐に反対したというが、これは父を追放した義時の背徳を正当化する『吾妻鏡』の脚色であると見られている(吾妻鏡#畠山重忠参照)。ただし、近年の研究では北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要があるとする説も出されている。武蔵国の最有力在庁であった畠山排除と同時に発生した牧氏事件の背景には、元久元年(1204年)に乱の引き金となった北条本家の後継者・政範の急死があり、政範亡き後、娘婿・平賀朝雅を将軍に立てようとする時政・牧の方と、先妻の子である義時・政子らの確執があったと考えられる。
元久2年(1205年)閏7月、姉・政子と協力し、有力御家人・三浦義村(母方の従兄弟)の協力を得て時政を伊豆国に追放した義時は、父に代わって政所別当の地位に就いた[注釈 6]。 武蔵国は有力者の畠山重忠・平賀朝雅の排除によって、義時が信頼する弟の時房が同国の守護・国司となる。朝雅誅殺後、儀式における序列は長年にわたり源氏門葉として御家人首座にあった平賀氏(大内惟義)を凌ぎ、義時が第一位を占めるようになる。義時は常に政子と実朝を表面に立てながら、政所別当・大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣・安達景盛らと連携し、幕政の最高責任者として実権を握った。
時政の性急な権力独占が多くの反発を招いた事から、義時は柔軟な姿勢を示し、時政一人の署名による下知状という文書形式は一時姿を消し、御家人達の要望に応えた「頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず」との大原則を明示した。一方で北条執権体制の障害となる有力御家人に対する抑圧策を進めていく。時政失脚直後の8月、下野国の宇都宮頼綱(時政の娘婿)に謀反の疑いありとして守護の小山朝政に追討を命じ、頼綱は無実であるとして出家遁世した。承元3年(1209年)11月、年来郎従(伊豆国住民で北条氏の家臣、御内人の原型)の中で有功之者を侍に准じることを要望したが、実朝の反対により断念した。同月には諸国守護人の職務怠慢をついて終身在職を改め、定期交替制にしようとしたが、千葉氏・三浦氏・小山氏など豪族御家人達の激しい反発を招いて断念している。この頃から義時の地位は執権と呼ばれるようになり、次第に独裁的政治を展開して執権政治の基礎を築いていく。その後も有力武士への攻撃は続き、幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を建保元年(1213年)2月、和田合戦において滅ぼした。義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と合わせて幕府の最も枢要な職を独占し、北条氏の幕府指導者としての地位が定まった。乱の3年後の建保4年(1216年)には従四位下に叙し、翌年5月に右京大夫、12月に陸奥守を兼ねて父の官位を超えた。
私生活では比企の乱直後に姫の前と離別し、伊賀の方を継室に迎えて元久2年(1205年)に五男・政村をもうけている。政村は建保元年(1213年)12月、三浦義村を烏帽子親として元服し、その際に義時の「鍾愛の若君」と呼ばれている。建暦2年(1212年)5月、姫の前所生の次男・朝時が将軍・実朝の怒りをかったため義絶し、駿河国へ蟄居させている。
実朝暗殺[編集]
承久元年(1219年)正月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、将軍・実朝が頼家の子公暁によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶した。その日の拝賀式で、実朝の脇で太刀持ちをする予定だったのは義時であったが、『吾妻鏡』によれば当日急に体調不良を訴えて源仲章と交代して自邸に戻り、結果として源仲章は実朝と一緒に暗殺され、義時は生き延びている[注釈 7]。 この事や暗殺事件後の収拾策などから、実朝の暗殺は義時が裏で操ったという説[注釈 8]や、将軍親裁を強める実朝に対する義時・三浦義村ら鎌倉御家人の共謀という説[注釈 9]もあるが、北条氏に対抗する三浦義村[注釈 10]、または幕府転覆を望む後鳥羽上皇が黒幕という説[注釈 11]もあり、またそれらの背後関係よりも公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解[注釈 12]もあって、真相は明らかではない。『愚管抄』によれば、義時は実朝の命により、太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しておらず、自邸に戻ったとはされていない。義時は実際には殺害現場にいたものの、目の前で発生した将軍殺害を防げなかった義時の失態を隠蔽するために『吾妻鏡』が曲筆したとする説も出されている[17]。
事件の前年から、子のない実朝の後継者として後鳥羽上皇の親王を将軍として東下させる事が検討されており、政子が上洛して卿二位と話が進められていた。源氏の正統が絶えた事による幕府内での動揺は大きく、義時は頼朝の異母弟阿野全成の子で将軍の座を望んで挙兵した時元を討ち、また公暁に荷担したとの嫌疑で公暁の異母弟禅暁を誅殺している。
実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として親王の鎌倉下向を朝廷に要請するが、後鳥羽上皇はこれを拒否し、皇族将軍東下問題と絡ませて上皇の寵姫の所領の地頭廃止を要求してくる。幕府方はこれを拒否して、義時の弟・時房を一千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、両者の態度は強硬で交渉は不調に終わる。幕府はやむなく皇族将軍をあきらめ、頼朝の遠い縁戚である摂関家の藤原頼経を4代将軍として迎え入れた。もっとも、頼経は当時生後1年余の幼児であり、直ちに征夷大将軍に任じられる状況にはなかった(実際の将軍補任は7年後)。このため、政子が尼将軍として頼経の後見と空白となっていた鎌倉殿の地位を代行し、義時がこれを補佐して実務面を補うことで実権を握る執権政治が確立した。
実朝死後の半年にわたる将軍後継者問題で、後鳥羽院政と鎌倉幕府の対立が先鋭化する。義時は承久2年(1220年)2月に義兄の伊賀光季を京都守護として派遣し、娘婿・大江親広も京都守護として上洛させた。