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どうも、大筋になる話を思いつかないのだが、まあ、それほど気を入れて考えているわけでもない。
やはり中心は「大逆事件」になるだろうか。ただし、もちろん、現実のそれではなく、それを匂わせる事件である。あるいは、関東大震災における官憲による社会主義者虐殺事件か。

事件の経緯[編集]

事件の発覚[編集]

事件を報じる毎日新聞の紙面。10月の報道規制解除後のもの。

関東大震災で東京や神奈川が混乱に陥るとして戒厳令が発せられていたさなか、1923年(大正12年)9月16日、大杉栄は、内縁の妻伊藤野枝(作家)を連れ、鶴見区三笠園[注 2]に住居があった辻潤(伊藤の前夫)を見舞ったが、辻が留守であったので、近くの神奈川県橘樹郡鶴見町[注 2]に住む実弟の大杉勇宅を訪問。偶然、大杉の末妹あやめとその息子の橘宗一(6歳)[注 3]が滞在していて、宗一が「東京の焼跡を見に行きたい」[2]というので、これを理由に同行して東京に戻ることとなった。

夕刻に自宅付近に帰ってくるが、伊藤が果物を買っていると、張り込み中の憲兵隊に強引に連行され、淀橋警察署[3]から自動車で麹町憲兵司令部に連れて行かれて消息を絶った[4]。行方不明になった大杉を、その友人で読売新聞記者であった安成二郎[注 4]が探すが、見つからずに事件性を直観。家人が警察に捜索願を出した[5]

警視庁は捜索願を受けて驚き、調べてみたところ、淀橋警察署が憲兵隊による検束を報告した。そこで警視庁が憲兵隊に問い合わせると、憲兵はすでに帰したと返答した。警視庁は行方不明の大杉が何か良からぬ計画でも行っているのではないかと思い、血眼で行方を捜した[6]

大杉はアナキストの大立者であり[7]、18日の報知新聞の夕刊で「大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれた」[8]という記事が出て、噂はすぐに広まった。以前より陸軍が何かやるらしいと聞いていたが沈黙していた警視庁官房主事の正力松太郎後述)は、子供が関わっていたことを憂慮して、警視総監湯淺倉平に相談。湯淺総監は新任の後藤新平[注 5]内相[注 6]に報告するが、後藤に自分では対処できないとして総理に報告するように言われて、湯淺総監は直接、総理大臣山本権兵衛に会って報告した。山本首相が閣議で田中義一陸相に聞くと「知らん」と言い、戒厳司令官福田雅太郎を呼んで問いただしてみても関知していなかったので、憲兵隊の捜査が開始された[8]。するとすぐに内部の犯行が明らかになった。田中陸相が改めて憲兵司令官小泉六一を呼んで問いただすと、小泉は甘粕の犯行を認めた上で賛美したため、田中は叱責して小泉に謹慎を命じた[9]。憲兵隊司令部では9月19日中には甘粕と森が衛戍監獄に収監された[6]。また古井戸から遺体が引き上げられた[10]

9月20日、「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」の一報を大阪朝日新聞時事新報号外で発し[11]、大阪朝日新聞は東京からの記者の電話でこの日は2度号外を出した[注 7]。時事新報は記者を憲兵隊本部に張り込ませ、大杉だけではなく伊藤野枝と子供が殺されたこと、現場の井戸も確認した[12]

軍は突如として9月20日付で、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉と東京憲兵隊本部付(特高課)森慶次郎憲兵曹長が「職務上不法行為」を行ったとして軍法会議に送致し、福田雅太郎戒厳司令官を更迭、憲兵司令官小泉六一少将と東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐を停職処分とすると発表した。また同時に本件に関する新聞記事を差し止める情報統制の決定をした[13]。以後、新聞各紙は核心部分をすべて○○の伏字として事件を報じた。報道は止められたが、情報は各社に電話で拡散したため、検閲を掻い潜った九州日報は21日にも号外を出している[14]

戒厳令下で不眠不休で治安維持に当たっていた軍隊に、世論は普段反軍的な者さえも含めて支持や敬意を表明していたが、突然の司令官更迭について新聞で詳細が報じられないことから、何事が起こったのかと騒然となった。流言飛語が盛んになっていたこともあり、人心不安が高まった[13]

批判が強まる中で、軍は前日の予審の結果を受けて9月25日に第一師団司令部[注 8]発表として、甘粕大尉が16日の夜に大杉栄と他2名を某所に連行して殺害した、と公表したが、他2名が何者であるかは公表させなかった。10月8日に記事差し止め処分が解除されると、新聞は他2名が、伊藤野枝と橘宗一であることを報じ、日本を騒がせるアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世間に有名になった大杉・伊藤の2人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった[15]

軍法会議[編集]

9月24日に軍法会議予審があり、事件の概要が明らかにされた。軍法会議の公判[注 9]も極めて性急に行われた。それらによると、甘粕大尉らは、大震災の混乱に乗じてアナキストらが不穏な動きを起こし政府を転覆しようとすると憂慮し、アナキストの主要人物であった大杉と伊藤を殺害することを決めたという。

予審で明らかになったところでは、9月16日に大杉ら3人が鶴見から帰る途中、自宅付近で甘粕大尉と東京憲兵隊本部付の森慶次郎曹長(後に明らかになるところによれば、さらに鴨志田と本多の両名を加えた4名)が張り込みをしており、子供だけは帰宅させてくれという大杉の要望を拒否して、強引に3人を拉致し、麹町憲兵分隊に連行した。東京憲兵隊本部で夕食を出したが、大杉と伊藤は食べず、橘だけが食べた。大杉はナイフを借りて伊藤が持っていた梨を2人で食べた。午後8時、3人は別々の部屋に移された。

甘粕は予審調書で大杉と伊藤とを自分が絞め殺したと認め、その様子を細かく描写した。大杉は応接室で森曹長と雑談のような取り調べを受けていたが、入室した甘粕は背後から柔道の締め手で大杉の首を右手で絞め、森は苦しみもがく大杉の足を押さえた。15分ほどでぐったりして亡くなった[16]。その後、念のためとしてさらに麻縄で絞めた。午後9時15分、次に甘粕は階下の隊長室に入れられた伊藤のもとを訪れ、しばらく会話して油断させると、同様に絞殺した。[注 10]

甘粕は最初、「個人の考えで3人全てを殺害した」として、大杉と伊藤との間の子供と誤解された橘宗一の死に関しても認めたが、軍法会議では、橘の死の経緯を調書で省略したことに官選弁護人塚崎直義が疑念を持って追及した[17]。特に甘粕の母親が「正彦は特に子供好きでした。罪とがもない子供を手にかけるなど、あり得ない」[18]と涙ながらに主張したことにより、自白を一部撤回。自分は「子供は殺していない。菰包(こもづつ)みになったのを見て、初めてそれを知った」と証言を変えて、大杉と伊藤を殺したのは認めたが、子供殺しは自分ではないとした。橘は連行するために自動車に乗せた最初から甘粕に懐いていた。甘粕は便所に行ってくるといってその場を離れ、少年の死には立ち会っていないと主張した。

この供述の撤回により予審の内容が覆されたことで、塚崎弁護士は捜査のやり直しと公判の中止を申請した[19]

このため、陸軍省から橘宗一殺しの再調査が命令され[20]、10月5日、鴨志田安五郎と本多重雄という2名の憲兵上等兵が橘殺しの共犯であるとして自首し、6日には平井利一憲兵伍長も見張り役として伊藤の死に関与していたことを告白して自首。被告人は5名となった。

鴨志田と本多は子供殺しを認めたが、甘粕と森が「上官の命令だからやりそこなうな」と話していたと証言して波紋を呼んだ。しかし憲兵隊の小泉少将と小山大佐がこの証言を否定した後、以後は軍上層部が関与した疑惑は追及すらされなかった。結局は森曹長が鴨志田に「おまえがやれ」と命令したとされ、鴨志田と本多が手を下すことになった。2人も子供殺しに躊躇したが、命令に逆らえずに、鴨志田が首を絞め、本多が押さえて殺した。森は「甘粕大尉が子供も殺せと命令した」と主張し、自分に命令したのは甘粕であるとした。甘粕は投げ槍な態度で「森が言うのですからその通りでしょう。私は軍人であります。命令しました」[18]と自分が責任を被る旨の答弁をして、再度、供述を翻した。

甘粕と森は遺体の処分について話し合ったが、構外に運び出すと露見するとして森が難色を示し、本部裏の古井戸に投げ込むこととした。甘粕は3名の着物をハサミで切って裸として菰に包み、古井戸に落とした。衣類は翌17日に別の場所で焼却した。何も知らない人足に指示して、古井戸は馬糞や煉瓦を投げ込んで埋められた。

動機については、関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者が朝鮮人を扇動して騒動を起こすという噂を信じていたとされた。甘粕は「大杉の次は堺利彦福田狂二を殺す予定だった」と述べた[21][注 11]。さらに、最も危険視された無政府主義者の大杉栄が検挙されていないから「やっつけろ」という意見が淀橋署にあったが、警察ではできないから憲兵の方でやってくれないかという話だったとも、甘粕と森は主張したが、淀橋署員らは「記憶にない」と殺害依頼を否定し[22]、真相解明に至らなかった。 また新聞では橘宗一の殺害理由を伊藤野枝の殺害を目撃したがためであると報じられたが、公判ではこれは取り上げられず、前述のように甘粕が命令した事実のみが認定され、子供の死に関して理由や経緯などについても解明されなかった[23]

なお、法務官小川關次郎と被害者橘宗一は従甥の関係にあるとわかって、途中で交代した。

世論と判決[編集]

このスキャンダラスな事件については、軍法会議の内容が連日詳しく報道された。現代とは異なり、亀戸事件・朴烈事件など大震災直後に起こった社会主義者労働活動家・朝鮮人に対する警察や軍隊による不法拘束や虐殺についてすら世論は2つに割れていたが[注 12]、甘粕に対しては、弁護士の塚崎のもとには鴨志田や本多等の下士を罰するのみで「甘粕を減刑させたら承知せぬぞ」という社会主義者からの脅迫が届いていた[24]一方で、「甘粕は国士である」との肯定的な評価から「国賊・大杉を処断した甘粕大尉に減刑を」との署名が数十万名分も集まるなど甘粕大尉を支持する声も強かった。また甘粕も命令を受けて行動したのみで真犯人を庇って責任を1人で被ったのであって、真相は闇の中であるという意見も根強くあった[25]

しかし軍法会議は事件の背後関係には立ち入らないまま、11月24日に検察求刑、最終弁論があって、12月8日、殺害を実行および命令したとして甘粕大尉を首謀者と断じて懲役10年[注 13]、森曹長には同3年[注 14]、命令により殺害して遺体を遺棄した本多・鴨志田の2名は命令に従ったのみとして無罪[注 15]を、また見張りとして関与した平井伍長は証拠不十分により無罪[注 16]と、判決を下して終了した。甘粕に懲役10年が告げられると、傍聴人の中からは有罪が不満であるとして草履を投げる者や怒号を上げる者があって一時騒然としたが、本人らは黙して退出。無罪となった3名は安堵の表情で退出した。

事件の余波[編集]

公判中の10月4日、甘粕大尉の弟で学生の甘粕五郎は、ギロチン社田中勇之進に襲撃された[26]

労働運動社(神田北甲賀町)で行われた大杉ら3名の葬儀・告別式では、国賊の葬儀などさせぬという右翼の一団[注 17]が車2台で乗りつけ、そのうちの1人下鳥繁造[注 18]が焼香の際に遺骨を奪い、制止する古田大次郎和田久太郎に高笑いして、大杉栄の遺影に銃弾を放って逃走するという事件があった。遺骨は下鳥から寺田稲次郎に、寺田から大化会会長岩田富美夫が受け取って車で逃走。下鳥らはその場でアナキスト30名ほどに囲まれるが私服警官に投降し、寺田は逃走中の岐阜駅で捕まった。逃走に成功した岩田は、数ヶ月後に北一輝猶存社)の仲介で3名を起訴猶予とすることを条件として、自ら警視庁に出頭して湯淺総監に遺骨を返還した。岩田は逮捕を免れ、釈放された。

アナキストらは大杉殺害の報復として、関東戒厳司令官の福田雅太郎を標的とした狙撃事件(犯人は古田大次郎[注 19]、和田久太郎、村木源次郎)、福田に糞尿を投げつけた糞喰らえ事件(犯人は古河力作の弟古河三樹松と義弟池田寅三)などを相次いで起こしたが、次々と逮捕された。

アナキストのうち特に朝鮮出身者は中華民国の上海や満州地方に渡ってテロリズムに傾倒するが、日本出身者では転向したり活動を抑圧される者が多く、日本のアナキスト運動は急速に衰退に向かった。

甘粕大尉は3年弱、千葉刑務所において刑に服したが、摂政宮の御成婚による恩赦による減刑で、1926年(大正15年)の10月に仮出所で釈放された。その後、陸軍の官費で夫婦でフランスに留学し、満州に渡って満州事変に関わることになった。

異説・陰謀説[編集]

事件の主犯は甘粕ではないとする説は事件当時の大正時代から根強く存在している。甘粕が模範的な士官と思われたことから「甘粕は事件自体に関与していない」「大杉以外の殺害は知らなかった」などのさまざまな説が生まれた。満州時代の甘粕は、満州映画協会幹部らとの私的な席で「ぼくはやっていない」という発言をし[27]、陸士同期の半田敏治満洲国国務院総務庁参事官[28])にも酒の席で「俺は何もやっちゃおらんよ」と語っていた[29]。しかし一方で奉天特務機関の貴志彌次郎少将[注 20]は吉薗周蔵(後述)に「甘粕に騙されるな」[30]と注意しており、甘粕の経歴や裏の顔を指摘する声もあって、そこから発展して様々な異説や陰謀説も生まれた。主なものは以下。

  1. 憲兵司令官小泉六一主犯説[31]
  2. 戒厳司令官福田雅太郎主犯説[注 21]
  3. 麻布第三連隊主犯説(脚本家笠原和夫[注 22]
  4. 陸軍幹部謀略説(竹中労など)
  5. 陸軍内秘密結社説(事件当時の読売新聞陸軍部長中尾竜夫 )
  6. 甘粕=フリーメーソン説(評論家三宅雪嶺ほか)[32]
  7. 大杉密偵説(吉薗周蔵)

これらは大別すると、憲兵隊または軍が組織として主義者の殺害を命令したが事後に軍組織の関与を隠蔽して、実行者である甘粕らが命令者の責任を被ったというものと、実行者ではない甘粕らが命令者と実行者の両方の責任を被ったというもの、または非公式な組織や個人の命令や指示で甘粕らが実行したというもの、などに分けられる。

多くが指摘することは、渋谷と麹町の分隊長である憲兵大尉甘粕正彦が、直属の部下ではない、憲兵司令部付曹長である森慶次郎に命令していた点であった。2人に指示ができる命令者は、甘粕よりも立場が上でなくては組織上おかしく、これらが小泉や小山、福田が主犯と疑われる理由の1つとなっている。また軍隊内の結社説も、命令系統の無視を理由の1つとしている。

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四件の事件[編集]

いずれも詳細は、各事件の項目を参照されたい。

幸徳事件[編集]

前述のとおり、単に「大逆事件」と言えば一般的にはこの事件を意味する[2]

堺利彦片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。この事件を口実として、政府がフレームアップ(政治的でっち上げ)により、幸徳秋水をはじめとする全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)を根絶しようと取り調べや家宅捜索を行なって弾圧した事件が幸徳事件である。第二次世界大戦後、関係資料が発見され、暗殺計画に関与していたのは宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の4名だけであったことが判明した。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年に、「戦前の特殊な事例によって発生した事件であり、現在の法制度に照らし合わせることはできない」「大逆罪が既に廃止されている」との理由から、免訴の判決を下し、再審請求が事実上できないことを示している。(但し、刑事補償法では免訴でも無罪と推定されるときは補償を受けることができるとされている。)

信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した[3]松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした[4]。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出脩に弁護を頼んだ。

1911年1月18日死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日幸徳秋水森近運平宮下太吉新村忠雄古河力作奥宮健之大石誠之助成石平四郎松尾卯一太新美卯一郎内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明峯尾節堂岡本穎一郎三浦安太郎佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬成石勘三郎崎久保誓一武田九平飛松与次郎岡林寅松小松丑治

赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄荒畑寒村[5]堺利彦山川均は事件の連座を免れた。 なお、本事件の弁護を担当した平出脩も1914年(大正3年)に35歳で急逝している。

大逆事件以後[編集]

社会主義運動はこの事件で、数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。いわゆる〈冬の時代〉である。

徳冨蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、明治44年(1911年)1月に秋水らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。

大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」や「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎1911年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。永井荷風は『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」と書いている。

また、秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、南北朝正閏論が起こった[6]帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受ける。以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。

また翌明治45年(1912年)6月には上杉慎吉天皇主権説を発表した一方、美濃部達吉天皇機関説を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山縣有朋はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく[7]

大石誠之助の甥である西村伊作は大石の遺産の一部で文化学院を創設した。このことについて柄谷行人氏は「大正デモクラシー、大正文化というのは、実質的に、大逆事件で死刑になった人の遺産で成立した」と指摘している[8]

とりあえず、大まかな構想としては、大正時代の日本を舞台として「悪霊」的な物語を描くつもりだが、キャラのほとんどは「悪霊」の人物を使うつもりである。そこに、明治から大正にかけての実在人物のエピソードをまぶしていく感じか。まあ、そこは山田風太郎の明治物の手法だ。
だが、話そのものは「悪霊」の話ではなく、日本における社会主義思想が社会に巻き起こす凶悪な激動である。死体がゴロゴロ出て来る予定だが、簡単に言えば、「自由民権思想」「大正デモクラシー」「社会主義思想」「共産主義思想」「女性解放思想」と当時の社会の軋轢である。その軋轢として大逆事件や柳原白蓮事件だけでなく、後世の「連合赤軍事件」に近い事件も入れる予定である。特に現実の事件と整合性を取る必要は無い。すべて、「フィクション」である。現実の事件は単なるヒントだ。話に出て来る実在人物も当然、私によって現実とは異なる人物になっている。
とりあえず、キャラクター名と、それが「悪霊」のどの人物をヒントにしているか、書いておく。

1 須田銀三郎(スタヴローギン)
2 須田稲子(ワルワーラ夫人)前知事須田清隆夫人
3 鳥居浪平(ステパン氏)
4 鳥居陽介(ピョートル)
5 安藤知事(レンプケ知事)
6 安藤蓮子(レンプケ夫人)
7 岩野夫人(イワノヴァ夫人)
8 岩野理伊子(リーザ)
9 兵頭佐太郎(シャートフ)
10 兵頭菊(ダーリヤ)稲子の養女
11 加賀野将軍(ガガーノフ将軍)
12 桐井六郎(キリーロフ)建築技師
13 真淵力弥(マブリーキー)陸軍大尉
14 富士谷(リプーチン)役人
15 栗谷(リャムシン)質屋
16 田端退役大尉(レビャートキン)
17 田端万里江(マリア)狂女


ほかに、実在人物モデルとして、黒田清隆(銀三郎の父)、柳原白蓮、福沢諭吉など

裏テーマとして「華族の没落」と「資本主義の勃興」「資本家による政治支配」

いわば、政治版「仁義なき戦い」でもある。








財政[編集]

小笠原長幹(旧小倉藩小笠原家、伯爵)

華族は皇室の藩屏として期待されたが、奈良華族をはじめとする中級以下の旧・公家などには、経済基盤が貧弱だったため生活に困窮する者が現れた。華族としての体面を保つために、多大な出費を要したためである。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家が跡を絶たなかった。

一方、大名華族は家屋敷などの財産を保持し、維新後数10年間は家禄、それに引き続いて金碌公債が支給されたため一般に裕福であり、旧・家臣との人脈も財産を守る上で役立った。それでも明治末期以降は相伝の家宝が「売り立て」(入札)の形で売却されることも多くなり、大名華族の財政も次第に悪化しつつあった。

華族銀行として機能していた十五銀行金融恐慌の最中、1927年昭和2年)4月21日に破綻した際には、多くの華族が財産を失い、途方に暮れた。

スキャンダル[編集]

華族は現代の芸能人のような扱いもされており、『婦人画報』などの雑誌には華族子女や夫人のグラビア写真が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、柳原白蓮柳原前光伯爵次女)が有夫の身で年下の社会主義活動家と駆け落ちした白蓮事件、芳川鎌子(芳川寛治夫人、芳川顕正伯爵四女)がお抱え運転手と図った千葉心中、吉井徳子(吉井勇伯爵夫人、柳原義光伯爵次女)とその遊び仲間による男性交換や自由恋愛の不良華族事件など、数々の華族の醜聞が新聞や雑誌を賑わせた。





概要[編集]

公家堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。1869年(明治2年)に華族に列せられたのは、それまでの公卿142家、諸侯285家の計427家[1]1874年(明治7年)1月に内務省が発表した資料によると華族は2891人[2][3]

 

華族令発布による爵位制度の発足[編集]

1884年(明治17年)7月7日華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された[注釈 8]

爵位の基準は、1884年(明治17年)5月7日に賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、維新期の勲功を加味された一部の華族を除いては、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家と元・対馬藩宗家以外は江戸時代家格国主伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」が選定基準となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。

また華族令発布と同時期に、維新前に公家や諸侯でなかった者、特に伊藤博文維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、当主は爵位を受けている。叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。これらの華族は新華族や勲功華族と呼ばれている。また、終身華族はすべて永世華族に列せられ、終身華族が新たに生まれることもなかったため、全ての華族は永世華族となった。これ以降も勲功による授爵、皇族臣籍降下によって華族は増加した。

 

叙爵基準による最初の叙爵[編集]

 

教育[編集]

学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の総定員は帝国大学のそれと大差なく、旧制高校生のうち1割程度が病気等の理由で中途退学していたため帝国大学全体ではその分定員の空きが生じていた。このため学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。

但し学習院の教育内容も「お坊ちゃま」に対する緩いものでは無く、所謂「ノブレス・オブリージュ」という貴族としての義務・教養を学ぶ学校であり、正に旧制高等学校同等の教育機関であった。

 

 

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