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バトル漫画は誰でも知っているだろうが、バトル小説は聞いたことが無いだろう。それは当然で、基本的にバトル小説というものは存在しないからである。まあ、それに近いのは吉川英治の「宮本武蔵」と、その亜流の時代小説群くらいのものだろうが、それらも、バトル漫画とは違って、戦い以外の場面やストーリー展開の比重が大きいため、実は「バトル小説」とは言えない。「バトル小説」に一番近い「眠狂四郎」シリーズだって、決闘場面だけというわけにはいかず、そこまで行くのに紙数をかなり費やすのである。それを言えばバトル漫画だって戦い以外の場面もあるだろう、と言うだろうが、比重が違う。バトル漫画の戦い以外の場面は仲間とふざけあうか修行をするだけだ。それで済むのは、読者層が実年齢が低いか精神年齢が低いからである。
そして、戦いの場面の描写では、視覚芸術である漫画が小説より有利であるのは言うまでもない。小説の場合は、どうしても読者の想像に任せるしか動きの描写はできないのである。
そして、「敵」の描写においても漫画が有利だ。新しい敵を創造する場合、ビジュアル的に違う敵を出せばだいたい済むからである。(昔は、強大な敵を表現するのに、まさに身長や体重が常人の2倍も3倍もある巨人を出すことが多かったのは、漫画がまさにビジュアル性が生命だったからである。)
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「鬼滅の刃」のアニメを私は一話切りしたのだが、今回は我慢して三話まで見て、やはりまったく面白さを感じない。まあ、少年漫画のアニメ化を年寄りが見て面白いはずがないとも言えるが、面白い少年漫画作品はほかに膨大にあるのだから、やはり作品自体が私には合わないのだろう。
そこで、私ならどう書くか、どう作るか、という考察をしてみる。
まず、主人公は炭焼きにはしない。妹も出さないか、設定をまったく変える。つまり、鬼化するという設定はやめる。単に、親を鬼に殺されて、鬼退治をする兄妹にする。妹の気が優しいために、しばしば兄妹は危機に陥る。
この兄妹に絡めて、桃太郎の「犬、猿、雉」に相当する仲間を出す。犬は忠実で真面目な少年。猿は豪快だが優しくて頭が少し弱い大男。(この設定は変えてもいい。猿がずる賢い孤児の少年。犬が真面目な優しい大男)雉は高慢な美少女。遊女でもいい。犬太郎、佐吉(猿吉)、お吉。
鬼とは実は山賊か海賊だとしてもいい。つまり、村が麦わら頭の留非異一味に襲われ、村人はほとんど殺され、女たちは犯されて連れ去られた、ということ。
「桃太郎」に酒呑童子その他の説話をアレンジして加える。つまり、最終目的は海賊退治だが、その道中の話として山賊退治や都での経験などを入れる。一寸法師、鉢被り姫、かぐや姫、青頭巾の話、安倍晴明などが登場。源平の話を入れてもいい。つまり「ドリフターズ」日本限定版か。
前の3人に加えて「七人の侍」にしてもいい。あれも原型は「桃太郎」である。

以上に何か加えて新機軸を出したい。「鬼退治」は帝からの拝命とするか。つまり、両親の仇打ちという設定はやめる。もともとパロディにする要素はすべて消えているのだから。まあ、妹の存在くらいか。それもやめてもいい。しかし、女がふたりいたほうがドラマになりやすいか。
後から加わるのは「ルパン3世」的な連中。「遊び人の泥棒」流藩「クールな剣豪」五右衛門「真面目な剣豪」示現「忍者的な泥棒女」お藤(男性だけで7人、女性が3人となる)。最後は男は子供と主人公だけ、女は3人とも生き残る。

作品冒頭のエピグラム「剣に生きる者剣に死すべし」



おそらくその死体は自殺者だと思うが、この高校生が発見した経緯を知りたい。たぶん、この図書館は立ち入り禁止だったと思う。公的施設が閉鎖されたらふつうそうなる。しかも、その屋上に入ったということは、遊び半分での冒険だったのだろう。(発見したのは日曜日の午後4時くらい、というのもその想定に合う。)果たして、この高校生は処罰されるのだろうか。
まあ、ジュブナイル推理小説あるいはSF小説の冒頭として面白い。当然、あとはその死体が何者か、という話が中心になる。リュックサックが話の鍵になりそうだ。ふつう、リュックサックを背負って図書館の屋上には上らない。近親(兄)が失踪した若い女性が主人公、というのが面白いのではないか。発見者の高校生との絡みも面白いかもしれない。

(以下引用)

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屋上でミイラ化した遺体が見つかった旧明石市立図書館(手前)=2019年4月15日撮影
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屋上でミイラ化した遺体が見つかった旧明石市立図書館(手前)=2019年4月15日撮影

 26日午後4時50分ごろ、兵庫県明石市明石公園の旧明石市立図書館の屋上で、ミイラ化した遺体を男子高校生(15)が見つけ、隣接する県立図書館の職員を通じて110番した。

 兵庫県警明石署によると、遺体はあおむけに倒れており、目立った外傷などはなかったという。死後長期間が経過しているとみられ、性別や年齢は不明。黒いTシャツとズボン姿で作業靴を履いており、周囲にリュックサックと飲料水のペットボトルが落ちていた。同署は身元や死亡の経緯などを調べている。

山本弘(作品はひとつも読んだことがない。世界のSFがニューウェーブとかサイバーパンクとか言い出して以降はまったく読んでいないのである。)のブログ記事だが、小説創作についてのいいアドバイスをしているように思う。
「僕の妹は漢字が読める」というタイトルはなかなかいいと思うし、山本氏も言うように設定が面白い。だが、この作品が失敗しているとしたら、小説あるいは漫画というのは無数のエピソードをいかに効果的につなげるかが生命だからだろう。そのひとつひとつのエピソードが面白く、読者の心をわしづかみにするのが巨匠なのである。そういうエピソードを考えるのも面倒くさいという私のような人間は長編小説など書く資質がゼロなのだが、書いてみたいという欲望だけは若いころから今まである。まあ、アイドルに憧れるブス・不細工な若者と同じだ。

(以下引用)

『僕の妹は漢字が読める』の感想がひどい件

 かじいたかし僕の妹は漢字が読める』(HJ文庫)というライトノベルが話題になっている。

 日本人の国語力が衰退し、漢字を読める者がほとんどいなくなっている23世紀の日本。そこで生まれ育った少年が主人公のコメディだ。

 まず最初に言っておくと、僕はこの作品を評価しない。

 5点満点で2点ぐらい。

 なぜかというと、せっかくの面白い設定をぜんぜん使いこなしていないからである。

 まず、主人公の生きている23世紀の日本の描写。アニメやラノベ的な感性が当たり前になっているという設定なんだけど、そこの描写が甘い。「二次元総理」というネタには笑ったけど、笑えるのはそこぐらい。

 こういうのは、もっといろんなディテールをぶちこんで、この世界のおかしさをたっぷり見せれば、はるかに笑える作品になっていたはずだ。だが、作者はそこまで深く考えなかったようだ。そのへんがSFを読みなれた人間には、ものすごく歯がゆい。

 たとえば主人公が「童貞」という昔の言葉を知らないというシーンがある。じゃあ、この世界では「童貞」はどう呼ばれているのだろうか。いや、そもそもこの世界では、童貞という概念は現在の我々のそれとはまったく異質なものになっているのではないか。たとえば、2次元の方が3次元より重視されている世界では、むしろ肉体を持った女性との性交渉が異端とされているのではないか。そのせいで人口は減少に向かっているのでは……と、いくらでも想像は広がるはず。

 また、妹が「童貞」という言葉の意味を質問されて恥ずかしがるというのも、よく分からない。この世界でも童貞は恥ずかしいことなのか? 彼女は漢字が読めるというだけで、この世界で生まれ育ったんだから、感性は基本的に23世紀人のそれのはずなんだが。

 あと、主人公が精巧なロボットを見て「これは凄い」と感心したりするのも変。2世紀経ったらそんなものは当たり前だろう。

 しかも、この時代になってもまだ本は紙でできていて、主人公が尊敬する作家に見せてもらう原稿も、紙にプリントアウトしたものなのである。ないない、それはない。「30世紀にちゃぶ台」並みにありえない。

 主人公が21世紀のエロゲのポスターを見て「宗教画だ」、美少女フィギュアを見て「マリア像だ」と勘違いするというのも、明らかに作品の世界観に反している。むしろ宗教画を見てエロゲのポスターだと勘違いするべきではないのか。

 まあ、ギャグ作品で細かいところまでつじつまを合わせろとは言わないが、主人公の考え方が作品の設定と矛盾しているのは、さすがにいただけない。

 この作品を「ラノベ批判だ」と早とちりしている者もいる。そんなことはない。僕の目には、むしろ作者はラノベの定石に忠実すぎて、そこから飛躍できていないと感じる。

 後半、21世紀にタイムスリップしてきた主人公が高校に通うようになるのだが、その展開に無理がありすぎるうえ、必然性がまったくない。漢字の読み書きができないので苦労するのを見せたいなら、学校でなくても、日常生活で十分だろう。どうも「ラノベの主人公は学校に通うもの」という定石に縛られているだけのように見えるのだ。

 主人公と妹の関係も、さすがに見飽きた。新味がない。

 つーか、この設定だけくれ! 僕に書かせろ!

 頭からすべて書き直して、面白い作品にしてやるから!

 ……とまあ、いろいろ書いてきたけど、僕はべつにこの作品に腹は立たない。シオドア・スタージョンが言うように、どんなジャンルでも90%はクズなのだ。ハズレに当たるたびに、いちいち腹立ててなんかいられない。

 僕が腹が立ったのは、むしろこの作品を批判している連中の方である。

http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51641055.html

>地の文が酷いw

>ラノベってこんなレベルばっかりなの?

>設定以上に文章がひどい

>これでプロの作家を名乗れるんだから、ラノベはマジキチ

 ……あのさあ。

 君ら、一ページ目に書かれている設定、ちゃんと読んだ?

 これは漢字の読み書きができない主人公が書いたハチャメチャな文章を、現代の読者に向けて「意訳」したっていう設定なんだよ。それで文章が上手かったら、逆におかしいだろう。

「我輩」の一人称のパートを読めば分かるように、作者はちゃんとした日本語を書ける人なのだ。わざと下手な文章にしているのである。

>このものがたりちゅうにつかわれている『じゅうこうだ』のひとことをとりあげてもいみがとくていできない。

>ぜんごぶんのつながりで、そのいみをはんだんするしかなく、にじゅうさんせいきせかいではあるいみどくしょのちからはこうじょうしているのだろう。

 もちろん「重厚だ」というのも原文では「ずっしりん」とか書いてあったのを意訳したということなんだろう。それぐらい分からんのか。

>隙のない美貌の妹を持つ兄が何でこんなB級顔なんだよ

 義理の妹だって、ちゃんと説明されてるだろ!?

> こんなのが許せられる時代って・・・・

 うん、確かに「許される」という言葉もまともに書けない奴がいる時代って悲しいよね(笑)。

>それとも俺が知らないだけで、こういう良い意味で阿保なラノベって多いの?

 無理して慣れない漢字使うことないぞ。阿呆はカタカナで書け。

 もしかしたらスラングのつもりで使ったのかもしれないが、阿保(あぼ)という姓の人は実在するので、こういう使い方をしてはいかんと思う。

>ラノベケータイ小説なんかが面白いとか言ってる馬鹿が増えれば、いずれ日本はこんなアホみたいな世界になるぞって、警笛を鳴らしてるわけだ

 鳴らすのは「警鐘」な。警笛鳴らしてどうする。

>発想は良かった、のだと思う。過去形。

>「現代文学」とやらが、日常会話とかけ離れている時点でもはや「韻文」なのだろうか、これはまさに「読めません」だ。文学ならばそれでいいのだろう。読めないが。

 お前の文章の方が読めません(笑)。日本語が崩壊している。そもそも「韻文」の意味を分かってるのかも疑問。

>なんかブラッドベリの「華氏411」思い出した。

 有名なタイトルを間違えるな。

>この程度のやつと筒井康孝を比べるなよ

 筒井康隆氏を引き合いに出すなら、名前ぐらいちゃんと書け。失礼だ。

>何がどうすごいかすげえ気になるけど長すぎて読む気分になれない・・・

 ギャグだよな!? ギャグだと言ってくれ!

 かと思えば、変な深読みしている連中もいる。

>もしかしてこれって漢字教育廃止した某半島国家を揶揄してるんじゃないのか・・・?

>というより、どう考えても元ネタはハングルと漢字が読めない韓国人をネタをしているとしか思えん。

 いや、そんな意図、ないない(笑)。

>「自分は文筆業である。

> 漢字を繰り、

> 言葉を紡ぐ者である。」

>という自負に溢れた文章書きが放つ、

>独特の自己(と同類)への陶酔を伴った

>自慰作品であると感じた。

>ケータイ小説とかラノベを皮肉ってるように思わせて、実は村上春樹を始めとした現在の純文学を皮肉ってるんじゃないか

 だからそんな高尚な意図ねえって!

 君ら、赤いパンツが「重税に苦しむ日本国民の心情を表現している」と言った、作中のオオダイラ先生と同じ間違い犯してるよ!

>これラノベを暗に否定(危惧?)してるわけだよね。

>普段からラノベ通読してる人達はこれ読んでどう思うんだろう…

 どうも思いません。ジャンルの定石を皮肉った自虐ネタなんて、ラノベには珍しくないよ。

 これで「すごい」と騒ぐのは、ラノベにどんな作品があるかを知らない人間ではなかろうか。

>ラノベは文学じゃない

>絵の書けない漫画家の逃げ道

 はいはい、ラノベを読んだことのない奴の典型的な偏見ね(笑)。

 ついでに言うと、絵は「書けない」じゃなくて「描けない」って書くんだよ。「描」は小学校で習う漢字だと思うけど?

>こんな引き込まれない導入は始めてだが、ラノベってみんなこうなのか?

>普通の小説は最初の半ページでガッツリ掴んでくれるぞ?

 普通の小説でも半ページでがっつりつかんでくるものなんて、そうそうないんだが。お前はいったい何冊ぐらい小説を読んだうえで言ってるのかと、小一時間ほど(以下略)。

>イラストが致命的にダメだ。もうその時点で読む気せぇへん

 イラストで否定!

>内容に主義・主張があればこんなどこかで見たようなタイトルにはなるまい。

 タイトルすら否定!

「僕の妹」というフレーズが入っているだけで、便乗作品だと思いこんでいるらしい。

>他人の作ったものを踏み台にするような作品はちょっと

 パロディとかオマージュとか全否定!?

 いや、参った。あきれた。

 頭の悪いラノベを笑っているつもりかもしれないが、実はそのラノベの設定や作者の意図を理解する読解力さえない(難解な文学作品ならともかく、ラノベだよ?)。

 作者の文章を笑っているつもりかもしれないが、実は自分もまともな日本語が書けない。

 さらには、中身すら読まず、タイトルやイラストの印象で評価する。

「普通の小説」と比べてラノベをバカにしてるけど、実は決定的に読書量が少ないことが露呈しているではないか。おそらく普段、ラノベすら読まず、マンガばっかり読んでるんじゃないかしらん。

 これでは2世紀ぐらい経ったら、本当にこの作品のような世界になってしまうんじゃないだろうか。心配だ。

最近、ドストエフスキーの小説を読み直しているが、その「語り方」に共通した特徴があるようだ。それは、「神の視点」、つまり作者自身が神であるかのように作品世界全体を「客観的に」描くのではなく、作中の誰か(脇役ですらないが、出来事の全体を熟知する人間)が語る形式で語る手法である。これは、その「語り手」がなぜ事件の詳細を知っているのかという疑問を読者に抱かせる危険性はあるが、単なる一人称(主人公自身が語り手)手法に比べて、より客観性が生じる利点がある。また、作中の異常なキャラの異常性が迫真的になる。だが、「語り手」が存在するはずの無い場面までリアルに描くと、完全に「嘘くさくなる」はずなので、そこが筆力の問題になるわけだ。少なくとも、作者の思想を「地の文」で表明するのと、作中人物の発言として描くのでは、読者は後者のほうにより「聞く気になる」と思われる。それは、その人物が本気か嘘かが不明なだけ、読者の判断力が問われ、真剣に読むからだろう。
なお、ドストエフスキーの長編では、たいてい「誰が語っているのか」ということはかなり曖昧にされるのが常である。とにかく「事件の目撃者」あるいは「事件の事情を詳しく知る人物」であることしか読者には分からないのである。仮にこの手法を現代で使ったら、評論家には「作劇上の欠点」としか見做されないだろう。現代の我々は「一人称」でなければ「三人称」(非常に稀に「二人称」)という作劇法に頭が固定されているからだ。
なお、各章の終わりが「その場面への誰かの乱入」という形になっていることが多い。これは週刊漫画などでの「次回への『引き』」の手法であり、ドストエフスキーの作品の「刺激の強さ」「迫力」「ドラマ性」の一因になっている。
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