1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められた。その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年5月28日のアイグン条約、1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった。そして1860年には政策を転換して、漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。この民族移動のことを「闖関東」という。1900年にはロシア軍によってブラゴヴェシチェンスクで清国人数千人が虐殺されるアムール川事件が起きる。
1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、上記の条約によって確保されていたロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡された。弱体化した清朝は1911年の辛亥革命で倒された。翌年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言するが、実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態であり、満洲は張作霖の軍閥の支配下となる。清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増する。1908年の満州人口は1583万人であり、それが満州事変前には3000万人まで増加している。
北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、一次大戦やロシア革命の混乱により支配力は低下し、ロシア革命に対する干渉戦争として行われたシベリア出兵により、外満洲属するウラジオストクを連合軍が、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する事になった。1920年には日本占領下のニコラエフスクを赤軍パルチザンが襲撃し、破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)。日本以外の連合軍は1920年に、日本は1922年に撤退し占領は解除された。
ソビエト連邦は東清鉄道の経営権をロシアから継承していたが、1928年に満洲を実効支配する張学良政権はこの権益の武力による略奪を行おうとした。これに対しソ連は満洲に侵略し、中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保し、権益を再確認する協定を結んだ後撤退した(中東路事件)。
1931年に日本(大日本帝国)は満洲事変を契機に満洲全域を占領し、翌1932年に満洲国を建国した。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。これは清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀は退位させられる際に中華民国から満州に独自の国家を設立することを希望していた[要出典]ことが背景にあった。満洲国は事実上日本の支配下となった。日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発を通じて産業投資を行い、品種改良で寒さに強い品種を植えることで不毛の地ばかりだった満州に農地が多数開墾され、荒野には工場を建設して開発した。満州で治安が良くなり、交通が開け、貨幣が統一された。満州国建国以前の満州では、軍閥が独自紙幣を発行し、奥地になるほど治安が悪く、農民は安心して耕作ができなかった。満州国は統一した通貨を発行して、満州各地で流通させたことで信頼のある貨幣経済が成立した。奥地にまで道路や鉄道が建設され、治安が良くなると農民も農作物を市場に出して稼ぐようになった。電話線など通信網も張り巡らせ、奥地など満州の地方にも病院や工場、また初等教育への進学率低かった対策に学校も設立した。日本による投資を受けて経済的に豊かになり、群雄割拠状態で乱れていた中華民国時代からの突然の経済発展を受けて、中国民国側から豊かさを求めて多くの移民が流入した。そのため、満州国地域における日本人以外の人口は満州国建国以前よりも増加した。背景にはインフラがほとんどなかったが投資・開発を受けて居住可能地域が増加したこと、日本から持ち込まれた品種からも農耕作可能地域が増加したことにある。満州国成立した1932年には約3000万だった終戦までには約4500万人に増加した。3万人の小さな町が近代都市に発展して、約13年間で300万人に膨れ上がっている[1]。ただし、人口増加率で見ると満州建国前と大差はない。
1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊し、ソ連は満州を占領して中華民国への返還を遅らせた(東北問題)。その後、中国共産党が国共内戦に勝利し、満洲は中華人民共和国の領土となった。暫くはソ連との結びつきの強い高崗が独自の地方運営を行っていたが[2]、後に毛沢東に粛清された。満州地域は満州国時代のインフラ整備・開発政策の成果が残っていたため、共産主義体制下の中華人民共和国でも豊かな土地であった。しかし、1990年代以降の改革開放政策により、上海や深圳市など華東、華南の経済特区の経済成長が著しくなる一方、満州国時代のインフラのままだったことで、逆に経済的には立ち遅れた地域となった[3]。中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、遼東半島を含む環渤海経済圏を設定した。
満洲に存在した日本の株式会社[編集]
- 南満洲鉄道株式会社
- 満洲重工業株式会社
- 満洲航空株式会社
- 満洲海運株式会社
- 株式会社満洲映画協会
- 満洲拓殖公社
- 満洲電信電話株式会社
- 株式会社昭和製鋼所(後の満洲製鉄株式会社)
- 日満商事株式会社
- 株式会社辰村組