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内モンゴルの近代史である。




辛亥革命後[編集]

1911年、中国では辛亥革命中華民国が成立するとともに、モンゴルが独立を宣言し、内モンゴルも合併を申し出た。1913年にモンゴル軍が内モンゴル解放戦争をはじめ、ほぼ全域から中華民国軍を追放した。しかし、帝政ロシアの介入で、この解放戦争は失敗に終わる。1915年6月7日、モンゴルの国境にあるキャフタで露・蒙・華三国の間でキャフタ協定が結ばれ、中華民国北京政府は内モンゴルと外モンゴルを自治区とした(ただし外モンゴルは広範な自治権を獲得した)。

その後、内モンゴルでは、中国に進出していた日本関東軍の援助で、皇帝愛新覚羅溥儀を元首として建国された満州国(一部が内モンゴル東部)とチャハル部出身のデムチュクドンロブ(徳王)によって1939年張家口蒙古聯合自治政府が成立した。当時総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル族は15万4203人だった。1945年8月、ソ連対日参戦によるソビエト連邦軍(赤軍)とモンゴル人民共和国軍の侵攻に満州国と蒙古連合自治政府は崩壊する。ソ連軍とモンゴル軍は内モンゴル東部のみならず、チャハルや熱河省といった内モンゴル西部[6]にも進駐し、その影響下で内モンゴル人民共和国東モンゴル自治政府などが成立する。ソ連とモンゴルは中ソ友好同盟条約に基づいて中華民国にモンゴル独立を認めさせる代わりに内外モンゴル統一の要求を取り下げた。

内モンゴル自治区の成立[編集]

ウランフ

占領したソニド右旗を慰問で訪れたモンゴル人民共和国の指導者ホルローギーン・チョイバルサン中国共産党との連携を現地民に指示[7]してウランフが内モンゴル人民共和国の代表となってからは東モンゴル自治政府やフルンボイル地方自治政府、西蒙自治政府などが懐柔され、察哈爾省綏遠省熱河省遼北省興安省は廃止されて東西モンゴルは統一することになる。中華人民共和国が建国するとウランフの内モンゴル自治政府は内モンゴル自治区となった。中華人民共和国の自治区としては最も早い成立である。徳王は外モンゴル(モンゴル人民共和国)に亡命するもソ連が捕えていた愛新覚羅溥儀のように中国に引き渡されて内モンゴルで特赦と役職を与えられた。外モンゴルは独立の道を歩んだが、内モンゴルは中国共産党の影響があったとはいえ、同じモンゴル族同士の運動と対立の結果自治区となった。

文化大革命時の虐殺と名誉回復[編集]

その後ウランフは文化大革命の勃発により失脚し、1966年に起きた内モンゴル人民革命党粛清事件など文化大革命による大量虐殺の上にモンゴル人は自治権が完全に剥奪されていた。当時の内モンゴルのモンゴル人の人口約150万人ののうち、34万6000人が逮捕され、2万7900人が殺害され、12万人が暴力を受けて障害者にされたとされ、後に犠牲者らは胡耀邦によって名誉回復された[2][8]1967年フフホトに革命委員会が成立した。中ソ対立の軍事的緊張下に1969年には内モンゴル生産建設兵団が設置され、1970年には行政区画の大幅な変更が行われた。これによって内モンゴル東部は東北三省に、西部は寧夏甘粛に分割されたが、1979年に旧に復し、ウランフも復権した。ウランフの妹婿の孔飛中国語版、息子のブヘ中国語版、孫のブ・シャオリン中国語版も内モンゴル自治区主席を務めるなど文革時代を除いてウランフの一族は内モンゴル自治区で太子党となって権勢を振っている[9]

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