朱元璋
洪武帝 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 洪武帝 |
簡体字: | 洪武帝 |
拼音: | Hóngwǔ dì |
ラテン字: | Hung2-wu3 ti4 |
和名表記: | こうぶてい |
発音転記: | ホンウー ディ |
英語名: | Hongwu Emperor |
朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の初代皇帝。廟号は太祖(たいそ)。諡号は高皇帝(こうこうてい)。その治世の年号「洪武」から洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。
生涯[編集]
皇帝即位まで[編集]
少年期[編集]
元末の天暦元年(1328年)の9月18日、淮水ほとりの濠州鍾離県(現在の安徽省鳳陽県)にて生まれる[2][3]。父は朱五四(後に世珍と改名)、母は陳氏。兄が3人、姉が2人いる6人兄弟の末っ子だった[2][3]。五四の兄五一の家に4人の男子がおり、朱家で8人目の男子ということから朱重八と名付けられた(以後、煩雑となるので元璋で通す)[2]。母親は夢の中で仙人から赤い玉を授かって重八を妊娠し、彼が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事と勘違いして家に集まってきたが、火事が起きてないので不思議な顔をして帰っていったという[2]。
朱家は元は劉邦の出身地である江蘇省沛県に住んでいたが、元のはじめ頃に生活苦から句容に移る。しかし元璋の祖父初一は徭役の重さに耐えかねて盱眙県へ遷る。ここである程度の暮らしを手に入れることに成功し、息子の五一と五四も一家を構えることができた。しかし初一死後は再び困窮するようになり、濠州霊璧次いで虹県 に遷る。この間に3人の兄が誕生し、鍾離県に遷ったところで重八が生まれた。このように朱家は流民と言ったほうが良いような貧農だった[4][5]。
両親は幼い元璋を村の塾に通わせていたが、学費が続かず[6]、地主のもとに牧童として奉公に出されることになった[6][7]。幼い頃の元璋はガキ大将であり、牧童仲間の間で信望が高かった。ある時、腹を空かした元璋たちは我慢ができなくって地主の牛を1頭殺して皆で食べてしまった。満腹になった後、地主からのお仕置きを恐れて青くなった彼らだったが、元璋は自分が責任を取ると言って一人で地主のもとに赴き、地主から滅多打ちにされた[8][9]。
貧しいながらも何とか生きていた朱一家であったが、至正四年(1344年)、元璋17歳の時に淮河一帯が酷い干ばつに襲われる。農作物は枯れてしまい、そこに蝗が来襲して緑の物を食い尽くして飢饉となった。さらに追い打ちをかけるように疫病が流行。父母と長兄はこの時に死亡した[10][11]。3人の遺体を埋葬した後、次兄は郷里に残り、三兄は他家に養子に出て、元璋は隣人のつてにより皇覚寺(現隆興寺 [12])という寺で小僧となることになった(2人の姉はすでに他家に嫁いでいた)。その後、兄弟が再び会うことはなく、これが今生の別れとなった[13][14]。
しかし皇覚寺でも飢饉の影響は色濃く早々に食料が尽きてしまい、寺に入ってから2か月弱で食を求めて托鉢の旅に出ざるを得なくなった[13][15]。その様はほとんど乞食同然の悲惨なものであり、後年元璋はこのときのことを思い返して「身は蓬の如く風に逐われて止まるところなく、心は滾滾として沸騰する」と述べている[16][17]。濠州から始まって南の合肥、そこから西の六安・光州・固始・息州・羅山・信陽・汝州・陳州・毫州・潁州と3年にわたって淮西地方(淮河の西)をほとんどくまなく回った[18][17]。長く苦しい旅であったが、この旅で得た知識・経験はそれまで狭い世界に住んでいた元璋の目を大きく開かせることになり、のちの争覇戦での大きな助けとなった[19][20][21]。
3年後、元璋が21歳になった至正7年(1347年)に皇覚寺に戻り、再び僧侶としての修行に入る。後に部下となる徐達や湯和と付き合いがはじまったのがこの頃である[22][23]。
紅巾の乱[編集]
至正11年(1351年)、白蓮教徒の集団が各地で反乱を起こし、紅巾の乱が勃発した[24]。その中で皇覚寺は反乱軍に通じているという疑いがかけられて元軍から焼き討ちにされてしまった[25]。寺の焼け跡で元璋が自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍への参加が大吉であると出たため[26]、韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を投じた[27]。なおこのときに最初は間諜と間違われて殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて幕下に入ったという逸話がある[27]。朱元璋は郭子興の下でめきめきと頭角を現し[27]、郭の養女の馬氏を妻に貰った[27]。これが後の馬皇后である[28]。
この頃に名を重八から元璋に変え[29]、徐達[30]や勇猛で知られる常遇春[31]や後の謀臣の李善長[32]・劉基[33]ら優秀な部下を獲得していった。朱元璋は李善長から「漢の高祖劉邦は農民から身を起こしました。度量広く殺人を好まなかったために皇帝となりました。公(元璋)は高祖を手本とすれば天下を統一できます」と言われた[32]。1355年の郭子興の死後は郭軍団から離れて一独立勢力となり、翌年に集慶路(南京)を攻撃してこれを落とし[34]、ここを応天府と改名して本拠地に据え[35]、部下から推挙されて呉国公を名乗るようになった[36]。