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「皇帝専制」という政治体制は人間の能力としてもともと無理であり、しかも、臣下は誰一人として信じないというのが「皇帝専制」なので、矛盾がある。その間隙に入り込んだのが「宦官」という存在だろう。
そこには「宦官は(基本的に)セックスができない」というのが最大の根拠として存在しているのではないか。つまり、セックスによって君側の女性を篭絡し、あるいは利用することが無い、という思想である。これは、皇帝の側室や后妃が産んだ子供が確実に皇帝自身の子である、という保証になり、このことは血縁(家系)を最大に重視する中国(昔のシナ)では非常に重要だったと思われる。
なお、宦官を使わなかった欧州の王族や貴族の子供は、その家の召使や御者によく似た子供が頻繁に生まれたようだwww たしか、スイフトがそれを皮肉っている。むしろ、乱倫は欧州王侯の常態だった(ギャラントリーという奇妙な風習がその象徴)から、血縁をさほど重視しなかったのではないか。重視しても無駄だから。そこに血縁より家来の実績重視の「封建制」が発達する理由もあったわけだ。


Episode 洪武帝、一日に632件を処理

 貧農から身を起こし、皇帝に上りつめた洪武帝は、権力の一切を皇帝に集中させる専制政治を作り上げた。その過程で、建国の功臣でもいささかでも疑わしいところのあるものを次々に粛清した。1380年の「胡惟庸の獄」(朱元璋時代の第一の腹心の部下であった胡惟庸という人物を権力を簒奪しようとしたとして捕らえた)では1万5千人が、さらに1390年にはその陰謀が再燃したとして1万5千人が捕らえられ、処刑された。
 専制政治を追求した洪武帝は、中書省を廃止、六部を直接統括し、行政文書はすべて自分で決済した。一説に拠れば、一日平均632件の案件を皇帝として裁決したという。皇帝に権力が集中すればするほど、官僚よりも皇帝の身の回りに仕える宦官の地位が高まることとなる。洪武帝自身は宦官の政治関与を厳しく禁止していたが、やがて永楽帝の時代になると、宦官は重く用いられるようになり、明の内政・外征に介入するようになっていく。
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