この前から、ネットテレビで昔の海外の白黒映画を何本か見ているが、その中で気が付いたこと、というか考えたことがある。
それは、映画の導入部で観客を惹き付けるのは、サスペンスやアクションではなく、登場人物、特に脇役やモブの魅力である、ということだ。ヒッチコックやフランク・キャプラの映画ではだいたい、脇役やモブの個性を疎かにしない。他の映画との一番の違いはそこだろうし、彼ら以外でも、名作映画は脇役やモブ(セリフ付きモブに限定されるが)も、個性がある。特に、愛嬌がある。偉い人物も「どこか滑稽な人物」として描かれるわけだ。小悪党なども愛嬌があり、憎めない。別の見方をすれば、「芯からの悪人」はいない、とも言える。それぞれ立場によって犯罪的行為もするが、それはスポーツで戦うのと同じであり、勝利を目指しての行為にすぎないわけだ。だから、見ていて不快感が無い。
これは特にイギリス的な感覚かもしれない。
私は以前に「『39階段』のスポーツ感覚」という小エッセイを書いたが、イギリスがスパイ小説の本場だというのは、スパイの活動自体にスポーツ感覚があるわけだ。つまり、「知的遊戯」の面が大きい。
話を「脇役やモブにも個性を与える」というテーゼに戻せば、多くのフィクションがなぜあれほどつまらないのか、という理由が分かってくる。
たとえば、ヒッチコックの「海外特派員」と、監督名は失念したが、同じように古い白黒映画でスパイ映画の「間諜」という作品を比べると、私は前者はすぐに作品世界に引き込まれたが、後者は話が始まって10分ほどしても興味を持てなかった。同じ10分間でも、前者では人物に個性があったが、後者にはまったく個性を感じられなかったのだ。(ちなみに、ビビアン・リーがヒロインの映画で、話の最初から登場している。)「面白い人物」がいれば、それが主役だろうが脇役だろうがモブだろうが、映画は面白く、そういう人物がいなければ、どんな派手な事件が繰り広げられても少しも面白くない、ということである。つまり、「感情移入ができない映画は、観客にとってはゼロに等しい」。
これはフィクションの創作における鉄則だろう。
ある意味では、小池一夫が言う「キャラを立てろ」と同じことだが、たぶんその言葉は「中心キャラ」に限定されている。小池一夫の作品ではそうだからだ。
しかし、ヒッチコックやキャプラや昔の名作映画では、モブキャラも「生きている」のである。これは創作を志す者が注意すべきことだろう。
なお、そうした「半モブキャラ」の魅力は、たいていの場合、ユーモア、笑いにある。どこか滑稽で笑えるキャラに出逢うと、観客はその作品世界に引き込まれるのである。
これは現実社会と同じであり、笑いは人と人を結びつける。同じ冗談で笑いあうと、そこに連帯感が生まれるわけだ。漫画などでも同じであり、たとえば吉田戦車のキャラの微妙なおかしさを感じられる読者は、その世界を愛さずにはいられない。逆に、どんなに凄い内容の漫画でも、その作品世界が愛されない漫画家は無数にいる。(ここで言う笑いは、相手を愛することにつながる笑いであることに注意。相手を見下し、嘲笑する笑いではない。相手の弱点が笑いの理由だとしても、それは愛すべき弱点なのである。)
それは、映画の導入部で観客を惹き付けるのは、サスペンスやアクションではなく、登場人物、特に脇役やモブの魅力である、ということだ。ヒッチコックやフランク・キャプラの映画ではだいたい、脇役やモブの個性を疎かにしない。他の映画との一番の違いはそこだろうし、彼ら以外でも、名作映画は脇役やモブ(セリフ付きモブに限定されるが)も、個性がある。特に、愛嬌がある。偉い人物も「どこか滑稽な人物」として描かれるわけだ。小悪党なども愛嬌があり、憎めない。別の見方をすれば、「芯からの悪人」はいない、とも言える。それぞれ立場によって犯罪的行為もするが、それはスポーツで戦うのと同じであり、勝利を目指しての行為にすぎないわけだ。だから、見ていて不快感が無い。
これは特にイギリス的な感覚かもしれない。
私は以前に「『39階段』のスポーツ感覚」という小エッセイを書いたが、イギリスがスパイ小説の本場だというのは、スパイの活動自体にスポーツ感覚があるわけだ。つまり、「知的遊戯」の面が大きい。
話を「脇役やモブにも個性を与える」というテーゼに戻せば、多くのフィクションがなぜあれほどつまらないのか、という理由が分かってくる。
たとえば、ヒッチコックの「海外特派員」と、監督名は失念したが、同じように古い白黒映画でスパイ映画の「間諜」という作品を比べると、私は前者はすぐに作品世界に引き込まれたが、後者は話が始まって10分ほどしても興味を持てなかった。同じ10分間でも、前者では人物に個性があったが、後者にはまったく個性を感じられなかったのだ。(ちなみに、ビビアン・リーがヒロインの映画で、話の最初から登場している。)「面白い人物」がいれば、それが主役だろうが脇役だろうがモブだろうが、映画は面白く、そういう人物がいなければ、どんな派手な事件が繰り広げられても少しも面白くない、ということである。つまり、「感情移入ができない映画は、観客にとってはゼロに等しい」。
これはフィクションの創作における鉄則だろう。
ある意味では、小池一夫が言う「キャラを立てろ」と同じことだが、たぶんその言葉は「中心キャラ」に限定されている。小池一夫の作品ではそうだからだ。
しかし、ヒッチコックやキャプラや昔の名作映画では、モブキャラも「生きている」のである。これは創作を志す者が注意すべきことだろう。
なお、そうした「半モブキャラ」の魅力は、たいていの場合、ユーモア、笑いにある。どこか滑稽で笑えるキャラに出逢うと、観客はその作品世界に引き込まれるのである。
これは現実社会と同じであり、笑いは人と人を結びつける。同じ冗談で笑いあうと、そこに連帯感が生まれるわけだ。漫画などでも同じであり、たとえば吉田戦車のキャラの微妙なおかしさを感じられる読者は、その世界を愛さずにはいられない。逆に、どんなに凄い内容の漫画でも、その作品世界が愛されない漫画家は無数にいる。(ここで言う笑いは、相手を愛することにつながる笑いであることに注意。相手を見下し、嘲笑する笑いではない。相手の弱点が笑いの理由だとしても、それは愛すべき弱点なのである。)
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