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まったくの素人が、小説を書いてコンテストに応募したという話で、その作業方法が凄い。プロ顔負けである。今すぐにプロになれると思う。

(以下引用)

スケジュール

11月-12月プロット

物語の作り方を勉強しようと思い、脚本についての本をいくつか読む。ここ最近受賞作品や売れている小説を読む。ネット情報も調べる。

その後、まず100字以内でどんな物語かをあらわす文章をたくさん作る(ログラインと言うらしい)。この時点で早速、創作の難しさに気づく。思いつくのはありきたりなストーリーばかり。

ゼロからアイデアを出していると、似たようなものばかりになることに気づく。自分がどんなストーリーを考えるのが得意かわからないし、この段階ではある程度多様性があった方がいいと思い、SF現代青春もの戦記物、みたいにカテゴリでわけて、その中で考えることにする。それぞれのカテゴリの中でまだマシと思えるログラインを、800字程度のあらすじに膨らませる。

なんとかかんとか、4本分ひねり出し、この段階で一度友人に見せてみる。わりと恥ずかしかった。

1月ドラフト

友人に見せた4本のあらすじがそれなりに評判が良かったので、キャラ世界観の設定を深めていく。ここで、あらすじごとに考えやすものと考えにくいものがあることに気づく。わりとスムーズキャラや設定を考えることができた2本を使って、書き始める。

いざ書き始めて、これは長期戦になるであろうことを瞬時に悟る。自分夏休みの宿題を直前まで放置するタイプだが、それでは到底太刀打ちできない。そこで、毎日起きてから3時間執筆にあてることにする。3時間にしたのは、仕事との兼ね合いと、これ以上は創作力が続かないから。土日だけは3時間x2スロットの6時間にした。また、毎日同じ小説を書いていると自分自身がその物語に飽きることに気づく。自分が心から楽しめないのはまずいだろう。なので、二作品を一日交代で書き進める。

電撃大賞には、全体で80ページ以上130ページ以内という規定がある。自分執筆ペースは、エピソードの流れが頭にできていればだいたい3時間で8ページぐらい。文字数にすると約6000〜8000字。だがこの「流れが頭にある」というのがくせ者で、最初に作った800字程度のあらすじだけでは、一つ一つのエピソードが書き進められない。つまりエピソードごとに、もっと細かなプロット必要だった。なので、3時間執筆時間以外でも、通勤時間を使って次に書くエピソードの流れを頭で考えて、スマホメモを取っていった。

また、書いている途中は一度も推敲せずに一気に最後まで走るのが良いというアドバイスネットにあったのでそれに従う。結果的にこれはよかったと思う。とりあえず終わらせるのがモチベーション的に非常に大事だと思った。特に序盤〜中盤あたりを書いているときは、本当に最後までたどり着けるか結構不安になった。その辺で行ったり来たりするのはあまり良くないのではないかと思う。

月末に二作分のドラフトが完成する。この段階ではまだ人に見せられるようなものではなく、第ゼロ稿というところか。

2月第一稿

ドラフトが完成してから、1週間寝かせて、再度最初のページから直していく。

上に書いたとおり、一切途中に推敲は入れていないので、矛盾が生じていたり、伏線をまったく張っていない設定がたくさんある。他にも、安直でつまらない会話や、適当人物風景描写冗長な文だらけ。まずは全体を見てそれらを洗い出し、一つ一つ潰していく。

細部の推敲と並行して、改めてプロットを見直す。物語全体の流れがほぼ確定したので、章立てを決める。各章内に、盛り上がる部分・落ち着く部分があって、最後に引きがあるかを確認する。うまくまとまっていない章については、エピソードを追加・削除・移動。また、全体をとおしてテーマ一貫性があるか、最後まで引っ張る謎や問題があるか、改めて確認する。

これも平日3時間休日6時間スケジュールで進める。「自分はこの小説を完成させられる」という自信のようなものがようやく出てくる。

第一稿が完成する。プロットを見てもらった友人に完成版を見せる。かなり恥ずかしかった。

3月: 第二稿

1週間ほどで友人から感想をもらう。自分では気づかなかった有益視点が多くもらえる。特に物語最初テーマ放置されて途中からのものに変わってしまっていたり、せっかく魅力的なキャラがいるのにそのキャラエピソードほとんどなかったり、そういうのこそ案外自分では気づかない。

感想を踏まえて、ぶれている部分を直したり、キャラエピソードを追加したり、不要キャラを削除したりする。

月末に再度友人に見せる。これぐらいになると、あまり恥ずかしくもなくなる。

この月もやはり平日3時間休日6時間は守る。

4月推敲

最初から最後まで、何回かにわたって見直す。

漢字の使い方を見直したり、改行の入れ方を変えたりと、読みやすさやテンポに気をつけて変更していく。

脚本術の本に、「審査員ランダムにページを開いてそこが面白いかどうか見る」と書いてあった。なので、自分でもそれを試した。これは良かったと思う。通しで読んでいると良くも悪くも物語に入り込んでいくので、細かい欠点に気が向かなくなる。あと、無意識自分が気になる部分ばかり直してしまうのも防げる。

10日が締め切りだったが、さすがに直前は結構時間を使った。コロナの影響で使える時間が多くなったこともあった。

やってよかったこ

過去受賞作品を読む

受賞作の傾向をつかもうと思って読んだが、ストーリーという点では傾向はあってないようなものだと思った。文体も多様で、地の文多め漢字多めのものから、ほぼ会話文で構成されてるものまで。そんな感じではあったが、ある意味傾向がないのが傾向と言えるので、それがわかったのは良かった。

脚本術の本を読む

どう作れば失敗しないかアンチパターンを学べた。当たり前のことを網羅的に並べてあるような印象は少し受けた。結局、面白ストーリー方法なんてないのだろう。

ドラマアニメの一話を観る

序盤で一気に引き込むのが大事、というのはどんな指南書にも書いてあった。つまりそれぐらい難しいということなんだと思う。実際、キャラ紹介や世界観説明必要な序盤は、面白くするのが難しいと感じた。

よくできているドラマアニメの一話は、テンポ良くこれらをこなしている。映像があるドラマアニメと違い、小説文章だけしか使えないのでそのまま真似はできないが、構成などは参考になる。

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 そして、彼女が望むなら金の帽子をかぶるがいい
 高く跳ね上がることができるなら、彼女のために跳ねるがいい
彼女が「金の帽子をかぶった恋人よ 高く跳ね上がる恋人よ
 私はあなたを愛します」と言うまで
                 (トーマス・パーク・ディンビリエ)


ーーーーーーーーー

ただギャッツビーだけが私の反発心から免れていた。ギャッツビーは、私が自然な軽蔑心を持つすべてを代表していたのだが。
仮に個性というものが、途切れることなく続けられた一連のジェスチャー(身振り:仮装や演技)であるなら、彼には何か豪華なものがあった。約束された人生への高められた敏感さのようなものが。
それは軟弱な感受性とは異なる、希望を求める度外れた才能、ロマンチックな心構えとでも言えそうなもので、私が他の誰にも見たことがなく、これからもおそらく見いだせないと思う。
ギャッツビーは、その正しさを最後に証明した。「希望」はギャッツビーを捉えたのである。
彼の夢からの目覚めに伴う汚いゴミの浮遊物は、悲哀の不毛さや人間の意気揚々たる絶頂期のはかなさへの私の目を時々閉ざさせるのである。

ーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーー

ギャッツビーは青い信号を、熱狂的な未来を信じた。その未来は我々には毎年のように後退していくのである。そして、我々の傍を巧みにすり抜けていく。だが、それは問題ではない。ーーー明日は我々はもっと速く走るだろう。両腕をより遠くに伸ばして。……そして、ある晴れた朝にーーー
だから我々は流れに逆らってボートを漕ぎ続ける。絶え間なく過去に押し戻されながら。


フィッツジェラルドの「The great Gatsby」の日本語訳題名が「華麗なるギャッツビー」というアホな訳がされているのはみなさんご承知だろうが、これはその当時映画題名に「華麗な(る)」という題名を付けるのが流行っていたため、映画がそういうアホな題名になり、その後では小説もそういう題名を踏襲しているだけなのを知っている人も少なくなったのではないか。当然、原題は「偉大なるギャッツビー」と訳すべきものである。
ところで、このアホな死に方をした、どうやらギャングの小ボス、あるいは成り上がりチンピラらしい男がなぜ「偉大な」とされているか、ということを問題視した人はあまりいない気がする。
というのも、フィッツジェラルドはアメリカ文壇では群小作家のひとりだとされているからではないか、と思われるし、それも当然ではないか、と私は思うが、別の面では大作家たちが足元にも及ばない重要性を持った作家だとも思っている。たとえば、私はほとんど読んだことがないが、スタインベックとかフォークナーなどは、長い作品を書いただけの、根気のある鈍才作家だと見ることも可能だろう。そこは趣味の問題だ。
では、なぜフィッツジェラルドが重要作家だと私が思うのか。それは、彼の詩人性と思想性にある。このふたつは一体である。つまり、彼は詩も哲学書も書かなかった詩人であり思想家なのである。そして、小説を書く才能(「物語」を作る才能)が無いのに小説家になった、「道を間違えた」作家だ、というのが私の考えだ。

「偉大なるギャッツビー」は、私が昔から気になっている作品なのだが、小説を読んだこともなく、映画もまともに見たことがない。映画は、レッドフォード版をテレビで見たと思うが、ほとんど覚えていない。ところが、小説を読まなくても、私はこの作品を日本で一番理解している人間、いや、それは言い過ぎだが、この作品の精神をかなり理解している人間のひとりだという気がする。それは、この作品の本質が、作品冒頭に書かれたエピグラフ(引用句)にあると思うからだ。極論すれば、この小説を読まなくても、小説の大筋を知っていて、このエピグラフに感動できるなら、それはこの作品を本質的に理解したということである、と私は思う。何しろ、フィッツジェラルドは「小説の下手な小説家」なのだから、真面目に作品を読むと、かえって混迷に陥るとすら私は思うのである。

そこで、ダイジェスト好きの私が、この作品を思い切ってダイジェストしてみるつもりだ。英語版を元にするつもりだが、私は英語は苦手なので、この作品の「本質」を示す部分だと私が思う部分だけを訳(意訳になるだろうが)してダイジェストにする。
まあ、冒涜的作業と思う人もいるだろうから、そういう人は、次回の「偉大なるギャッツビー」ダイジェストを読まなければいい。
念のために言うが、「物語」的部分はほとんど省略するので、ダイジェストではなく、作品の「エッセンス」と言うのが適切だと思う。つまり、一種の「作品評論」でもある。

私はアニメは好きだが、ユーチューブや何かの説明動画は大嫌いで、文章なら10秒で読める内容を10分くらいもかけているのにイライラする。




自分のペースで見たい

もちづき @mochizuki_asd

本当にこれ 本なら自分のペースでサッと読めるのに、動画は必ず時間分待たなければならないのが苦痛で仕方ない。 twitter.com/s_mogura/statu…

  2024-01-22 08:17:20
御飯粒【ゆかり】 @rice_chu

レシピや折り紙の折り方ググると動画ばかりで文字と画像でお願いします…_:(´ཀ`」 ∠):ってなる。必要な箇所まで先送り/待ってる時間が嫌すぎる。あと音声まじで不要。時間かかりすぎる。 twitter.com/s_mogura/statu…

  2024-01-22 12:36:27
あるちゃ @alphaindy

文章なら一目で読める。 本当にこれです。 動画だと自分に必要な情報がすぐに拾えなくて使いづらいんですよね。 あと作り手の価値観で必要なところがサラッと流されたり不要なところがしつこくされるのも不愉快 twitter.com/wonosatoru/sta…

  2024-01-22 10:51:18
ますだじゅん@『5分で読書 未知におどろく銀河旅行』発売中! @CRwVUTh6Xjn2eG8

何分何秒目にアレがあります、という目次みたいなものがあればいいけど、なかった場合は最初から最後まで見なければいけない。とにかく検索性が悪いというか… twitter.com/wonosatoru/sta…

  2024-01-22 10:39:48
mamimoo! @mamimooco

動画(特にYoutube)は苦手。自分のペースで読み進められて、自分のイメージで脳内に映像化できる本の方が理解しやすい。動画は製作者のペースで進むから、自身のペースと合わないとストレスを感じる。 説明書を動画にしたものも、自分の欲しい情報に辿り着くまでに時間がかかるので、これも苦手。 twitter.com/s_mogura/statu…

  
「ふろむだ」氏の「分裂勘違い君劇場」の古い記事で、私は流し読みしかしていないが、その要点と思われる部分、つまり「量子」とは何か、という部分だけ転載する。猫が生きようが死のうが、実はたいした問題ではない、というのがふろむだ氏の文章の主眼だと思うからだ。
私は、「量子」概念自体が、物理学者の仮説にすぎないと思っている。で、量子は「日常的な意味で存在していない」としたら、「量子コンピュータ」なるものは、明らかに詐欺だろう。不確定性を本質とする存在を、コンピュータに組み込むとしたら、それは量子とはまったく無関係に「乱数表」的なものを組み込んだだけになると思うからだ。つまり、計算行動の中に偶然性を組み込んだ、「量子コンピュータ」を「量子コンピュータ」と言っている詐欺である。「的」の一語の有無で、その存在が全否定もされるわけだ。それ自体、量子的な話であるwww

(以下引用)

「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由 

実に360人もの人がブックマークしたシュレーディンガーの猫の核心という記事が、なぜピントずれのトンデモ記事なのかを、専門用語を一切使わずに説明してみます。文系の人どころか、中学生にもシュレディンガーの猫の核心がわかるように
説明してみます。*1

量子とは何か

よく、「電子や光は、粒子でも波でもなく、量子なのだ」と言われます。


でも、この量子って、「」なんでしょう?


一般人の生活感覚からすると、量子というのは、あらゆる異質なものの中で、もっとも異質なものです。
どのくらい異質かというと、あまりに異質すぎて、僕たちが日常知っているいかなるものとも、少しも似ているところが無いほどです。
だから、「量子というのは、要するに○○みたいなものだ」ということは出来ません。
だって何にも似ていないんだもの。
量子とは、日常知っている何かに例えて説明することができない「何か」なんです。


いや、もっというと、「何か」ですら無い。
ここが一番のミソなんだけど、量子という名前の「何か」が「存在」するわけじゃないんです。
それは、日常生活的な意味での「存在」ではないんです。

これは哲学でも禅問答でもない

ここで勘違いしないで欲しいのは、これは、哲学なんかじゃないっていうことです。
ものの見方の話をしているわけじゃないんです。
べたべたに現実的で具体的で物質的な話として、量子は日常的な意味で「存在」しないんですよ。


量子は、言うなれば存在の確からしさの濃淡パターンとして広がっているだけなんです。
在り方そのものが、われわれが日常イメージするような「もの」とは、根本的に異なるんです。

それは存在「確率」ではない

ここで言う存在する確からしさというのは、「存在する確率」とは違うものです。「確率」というのは、「サイコロを振って1が出る確率」というように、いつかは、「実際に1が出たかどうか」が確定するもののことです。でも、量子の「存在」は、いつまでたっても、確定しないんです。未来永劫確定することは無いんです。いかなる量子であれ、「量子がある場所にしっかりと存在する」という状態は、宇宙開闢以来一度もなかったし、宇宙が消滅するほどの未来に渡ってそれは有りえない。だからそれは確率ではないんです。量子が存在する確率の高いところが濃くなっていて、存在する確率の低いところが薄くなっているわけではないんです。濃いところは「存在そのもの」が濃いんです。薄いところは、「存在そのもの」が薄いんです。(この存在の確からしさのことを、ここでは、便宜上、存在の蓋然性と呼ぶことにします。)

それは雲ではない

このように、存在蓋然性、すなわち存在する確からしさは、なにものにも例えることができません。中学校の科学の時間に、「電子は原子核の周りを電子の粒が惑星のようにぐるぐる回っているわけではなく、電子雲と呼ばれる雲のようにぼわーっと広がっている」という説明を受けた方もいらっしゃると思います。でも、それは、雲じゃないんですよ。雲というのは、霧のようなもので、水滴が空気中に浮かんでいて、その密度の濃いところと薄いところがあって、濃淡ができている。でも、電子雲は、われわれの目にする雲のように、確かに存在するものである水滴の濃淡によって形成された雲ではないんです。それは、「何か」の濃淡なのではなく、存在の確からしさそのものの濃淡なのです。

この世に「存在」するものなど何もない

そして、その量子によって構成される、石ころも、リンゴも、人間も、道路も、建物も、都市も、海も、山も、地球も、太陽も、日常的な意味で「存在」していません。それらのものは、存在の確からしさの濃淡のパターンが複雑に折り重なっているだけで、何かが「存在」しているわけではない。この意味で、ミクロとかマクロとかに関係なく、この世に「存在」するものなんて無いんです。

「存在」しているという錯覚を引き起こしているのは、極端な「濃さ」

でも、僕はここにこうして確かに存在しているじゃないかって?違うんです。それは、存在蓋然性の濃淡パターンの折り重なりにより、総和としての存在蓋然性が、極限まで「濃く」なっているだけの状態なんです。マクロになるほど、存在蓋然性の濃淡パターンが濃くなっていくから、存在蓋然性が実質的に日常感覚的な「存在」と実質的に変わらなくなってくるだけなんです。程度問題に過ぎないんです。我々が「存在」と感覚的に捕らえているものの正体は、存在蓋然性が極限まで濃くなったものなんです。
(中略)

「量子は粒子なのか」という質問自体がピントずれ

こうして見てみると、「量子は粒子なのか?それとも波なのか?」という質問そのものが、そもそもトンチンカンなわけです。
量子はそもそも、日常的な意味で「存在」していないのだから、粒子という日常的に存在するものに例えることなんて、そもそもできないはずなんです。波というのは、「日常的な意味で存在する何か」が波打たなければなりませんが、量子の世界には、そもそも日常的な意味で存在するものなど無いのです。なのに、日常生活的な何かが波打っているかのような前提で話を進めるから、話がトンデモになるんです。粒子とか波とかいう比喩そのものが通用しないのに、それが通用することを前提に議論をするから、粒子であるはずが、われわれの常識における粒子にはありえない振る舞いをするといって、ミステリーだ、パラドックスだと言って騒ぐことになるんです。でも、粒子でないものを粒子だと決めつけておいて、粒子として振る舞わないから不思議だパラドックスだと騒いでいるのって、単なるアホですよね。ごく普通の人が秋葉原を歩いていたら、いきなり変なおじさんがやってきて、「おまえは秋葉オタクだ。秋葉オタクは非モテでセックスなどしないのだ。なのに、おまえは彼女をつれており、その彼女とセックスをしたみたいな話をしている。ミステリーだ。パラドックスだ。」って言われるようなものです。意味不明ですよ。

量子が粒子であることを証明した実験結果があるのでは?

ただ、こんなことを言うと、「量子は粒として観測されることがある。だから、あるときには、粒として振る舞うと考えてもいいのではないか?」という人がいます。
でも、これが、誤解の始まりなんです。
実際には、「量子が粒として観測されたこと」というのは無いんです。


「ええ?ウソだろう?だって霧箱の中で電子の軌道が観測されたじゃないか!」って?
でも、観測されたのは、霧の形で現れたスジであって、粒としての電子そのものじゃないんですよ。
粒がある軌道を描いて通ったから、そこにスジができたわけじゃないんです。
観測したその瞬間に、量子の存在蓋然性の濃淡パターンの濃い部分が、その霧のスジの「太さ」まで「収縮」しただけなんです。
だから、それは、電子の「粒」が「存在」した証拠でもなんでも無いんです。

一切の「もの」が存在しないだけでなく、一切の「こと」も存在しない

そして、もっと言うと、あらゆる「もの」が存在しないだけでなく、あらゆる「こと」も存在しません。リンゴも人間も、存在蓋然性の濃淡パターンが重なり合っているだけなのと同じように、生きているのか死んでいるのかという状態すら「存在」しないんです。存在蓋然性の濃淡パターンが折り重なっているだけなんです。

シュレ猫のパラドックスは偏見にとらわれた人間の自縄自縛的虚妄

だから、シュレディンガーの猫パラドックスは、そもそも「シュレディンガーの猫が生きている状態の蓋然性の濃さが中くらいの状態」を、日常生活的な「存在」感覚に例えて理解しようとしたことから生じた誤解に過ぎないんです。単にぼくたちの日常生活的な偏見がもたらした錯誤に過ぎないんです。我々の日常生活で目にするものは、すべて、存在蓋然性がものすごく濃いかものすごく薄いものばかりです。つまり、日常生活では、ちょう濃いかちょう薄いかの二値しか、目にすることはありません。でも、それは、たまたま我々がそのサイズの世界に生きているから、それを見たことがないだけで、他のサイズの世界にまでその常識を持ち込むのは、おかしな話です。世界中どこでも英語が話されていて、アメリカの会計基準で組織が運営されていて、資本主義の原則に従って経済活動が行われているのが当たり前だと考えるアメリカ人みたいなもので、自分のところでしか通用しない常識を無理矢理よそに持ち込んで通用させようとするから、はなしがややこしくなるんです。


量子サイズの世界では、われわれの常識世界のように、そんな極端に濃いものや、極端に薄いものばかりじゃないんです。にもかかわらず、真っ黒か真っ白の状態しか思い至らない人間中心的な日常感覚を引きずったままシュレディンガーの猫の生死の状態を論じようとするものだから、「シュレディンガーの猫が生きている状態と死んでいる状態の二つの状態が同時に成立している」とかいう目も当てられないトンチンカンな議論をするはめになるわけです。

白と黒しか見たことがない人が灰色を説明しようとした結果が「重ね合わせ」というトンデモ

そもそも量子力学を解説するときの「重ね合わせ」という言葉使い自体が、あまりにも、我々の日常的な常識に毒されすぎているんです。それは、われわれが日常的に知っているような「状態」が重なったものじゃないんです。状態の蓋然性が極端に濃かったり極端に薄かったりしないだけの、量子サイズの世界ではごくありふれた中間的な濃さの蓋然性だというだけの話なんです。そもそも何も重なったりなんかしてないんですよ。

(後略)

*1:専門用語どころか、シュレディンガーの猫を一般人に説明するときによく用いられる一般的な言葉遣いそのものを避けました。実は、シュレディンガーの猫そのものは簡単な話で、そこには難解さどころか、不思議もパラドックスもないのです。一見、難解さとか不思議とかパラドックスを引き起こしているように錯覚されるのは、単にだめだめな言葉遣いのせいなんです。簡単な話をややこしくしてしまう、一般人に誤解と混乱を引き起こす言葉遣いのせいなんです。たとえば、一般人の理解している「確率」とはぜんぜん別の概念なのに「確率論的に存在する」という表現をするから、彼らは混乱してしまうんです。また、一般人がイメージするような「状態」が重なっているわけではないのに「重ね合わせ」という言葉を使うから彼らは混乱してしまうんです。そもそも何も重なってないのに、重なっているとか言うから、混乱が起こる。だから、これらの言葉遣いを避けるというより、むしろ、それらの言葉遣いを積極的に否定することが、一般人がシュレ猫をスムーズに理解するための鍵だと思い、この文章を書いてみました。

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