さて、思考素材は「マッチョ男の弱さ」であるが、これは精神的弱さのことで、その反動から虚勢を張って攻撃的になる、という指摘をしたコメントは正しいと思う。マッチョになること自体が、自分の内面的な弱さを糊塗する意図ではないか。つまり、女々しいからマッチョになり、DV男になるwww 私はヤクザに陰湿さは感じても男らしさを感じたことはない。そもそもヤンキーやヤクザのように「徒党を組む」こと自体、明白にその連中の弱さの顕れだろう。ヤンキーの「弱い者いじめ」はありふれた現実だ。つまり、強い相手に戦いを挑むのは漫画の中だけ。
(以下引用)
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男がメンタル弱いのはその通り 「今の傷ついた」「俺って実はメンタル弱いのよねえ」と開示できない奴が自ら死を選んでいる
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これこれ。元米兵のマッチョ男が結構自殺しちゃうのもこれらしい
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メンタル弱いくせに攻撃的なのやめてもらって良いですか? というかメンタル弱いから攻撃的になるんだろうな
言うまでもないが、私にはこの程度の小説も書くことはできないのである。だが、他人の書いた作品のアラは分かるわけだ。創作より批評が楽だ、というのは実は「常識でない常識」ではないか。
(以下自己引用)
「楽隊のうさぎ」読了。
やたらと中高校の模試に使われ、センター試験にまで使われた作品だから、どんなものかと読んでみたが、感想は「ツマンネー」の一言。まあ、中学生あたりが読んだら、それなりに面白いのかもしれないが、いくらジュブナイルでも、これより面白い作品、興味深い作品、有益な作品はゴマンとあるだろう。ストーリーがツマンネー、キャラクターがツマンネーで、いったい何が良くてこの作品がこんなに持ち上げられてきたのか、分からない。まあ、好きになればあばたもえくぼになるだろうが、どうもいい所が一つもない。しいて言えば、曲の演奏の描写は、それらしい感じに書けている。しかし、一人一人の人物に魅力がまったく無いし、それ以前に、それぞれの人物が何のために登場しているのか分からない。人物関係にまったく発展性がないのである。この作品の登場人物同士で濃密な人間関係になるのは一人もいない。最初意味ありげに書かれた敵対関係さえ途中で雲散霧消である。その一方では、博多で偶然的に知った人物と全国大会会場で遭遇するという、意味不明の再会があったりする。いったい、何の意味があって、この人物を二度も出す必要があるのか。最後に「ブラボー」を言わせるなら、むしろ何度も対立してきた主人公の母親にするべきだろう。
それに、中学校の男の子と女の子なら、頭の中は異性のことしかないはずだのに、それもほとんど描かれない。セックスめいたことと言えば、何と両親のキスシーンを目撃するという、おぞましい場面くらいだ。まあ、セックスを排除したところが「文部省推薦」みたいな扱いの最大原因かもしれない。
森勉という指揮者を作者は最大限にほめたたえるのだが、これも魅力はない。一人も魅力的な人物は出ないのである。しいて言えば、「悪役」として出る無気力教師くらいが興味深そうだが、これも事件として、あるいは人間関係として発展しない。教師が無気力だからクラスが荒れる、というステロタイプの話作りも面白味がない。それ以前に、話にも発展しないのだから、ただ作者が教育現場についての低レベルの主観的感想を述べるにとどまっている。つまり、いい教師に当たればハッピー、悪い教師に当たればアンハッピーという程度の、世間一般の母親レベルの感想だ。作家の書く内容ではない。
「楽隊のうさぎ」は、まあ18歳くらいの人間が書いたなら「よく最後まで書いたねえ」とほめられる、そういう程度の作品である。作者がこれを書くのにほとんど頭を使っていない事は保証できる。新聞連載の間、おそらく毎日適当に書き流していたのだろう。それがこれほどに持ち上げられるようになるとは、作者本人も思っていなかっただろう。
漫画家の多くがオタク上がりだとして、オタクとネトウヨは体質が近い気がする。つまり、ネトウヨは「政治オタク」の末期的症状だろう。それがたまたま漫画も描ける場合、「進撃の巨人」なども生み出すわけだ。(この作者がネトウヨだったこと、それを自認していることは、あまり知られていない。その思想が彼の心底に残っているとしたら、彼が町山智弘に自作の映画脚本を依頼したのも、町山を嘲笑する意図があったのではないか。)
(以下引用)
それはもう突き抜け度が別格だから…
私は、現代を舞台にしたアクションものならリボルバーは不適切だと思っている。大型拳銃ならなおさらだ。携帯しにくく、所持がバレやすいし、抜く時に引っかかりが多すぎる(下の写真参照)からだ。下手をしたら、抜く瞬間に自分で引き金を引いて自分の手足や腹を撃ちかねないwww
まあ、映画なら見かけ見栄え中心だから多用されるのだろう。
なお、警官の拳銃両手持ちというのも、リボルバーだからこそだろう。それを、(フィクションでは)非リボルバー(オートマチック)でもやっているのは愚劣なのではないか。毎度言うが、両手持ちというのは、相手に自分の所在を知られていない、「敵地強襲」の侵入時の話に限定され、乱戦では、体全体を標的に向けないと撃てない(つまり、動作が遅れる)両手持ちは無意味有害であるはずだ。
(以下引用)
現在Netflixにて配信中の、鈴木亮平主演『シティーハンター』。原作の持ち味を現代風にアレンジし、誰がどう見ても『シティーハンター』としか言えない内容に仕上がっている作品だ。そんな本作にも、主人公である冴羽獠の愛銃、コルト・パイソンは登場している。
考えれば考えるほど、コルト・パイソンは冴羽獠という主人公の武器として完璧なチョイスである。ペルセウスにせよヤマトタケルにせよアーサー王にせよ、物語のヒーローは特別な武器を持たなければならないと相場が決まっている。その「特別な武器」として、パイソンほど条件を満たした拳銃はなかなか存在しない。
基本的にヒーローの武器は、誰でも簡単に手に入れられる粗悪なものであってはならない。入手するだけでエピソードが生まれるくらい手に入れることが難しく、高貴で精密、見た目も他とは異なるものでなければならない。天叢雲剣を手に入れるためには八岐大蛇を退治せねばならないし、普通の鎌ではメドゥーサの首を落とすことはできないのだ。
さらに言えば、ヒーローの武器は、他を圧倒する絶対的な威力を持っていなければならない。刀剣であれば切れ味鋭い業物である必要があるし、銃であるならば一発でターゲットを倒せなくてはならない。一撃必殺の説得力を持ち、もしも敵に向かって振るわれたならば必ず相手を倒すことのできる武器こそが、ヒーローには相応しい。
この条件をひっくり返すと、逆にリアルなテイストの作品が生まれることになる。『装甲騎兵ボトムズ』は主人公キリコがATをバンバン乗り捨てることで従来のロボットアニメとは一線を画するリアルさを演出していたし、『96時間』シリーズの主人公ブライアン・ミルズは「敵の銃を奪って撃つだけ撃ち、弾が切れたらすぐに捨てる」という撃ち方を繰り返すことで、銃にも敵にも興味がなく娘の救出を最優先するプロフェッショナルな雰囲気を醸し出していた。「ヒーローがヒーローらしい武器を使う」点を潔く捨てると、リアルでスパルタンで従来の枠組みに収まらない主人公像を提示できる。
だがしかし、『シティーハンター』はマンガである。リアルな銃撃戦ではなくコミカルなドタバタと大人なギャグとラブコメ要素と冴羽獠のカッコよさを堪能する作品であり、そのテイストはNetflix版でも強く意識されていた。銃撃戦はあくまでファンタジーとして演出され、生々しい流血や人体損壊もなく、冴羽獠が徹底してカッコよく敵をシバいていく。今となっては正直ちょっと恥ずかしい「発砲された銃弾がスローで飛んでいく演出」も堂々とやるし、冴羽獠たった一人で完全武装の敵を圧倒してしまう。「これは『ジョン・ウィック』ではなく『シティーハンター』なので、こういうテイストでいきます」というメッセージが伝わってくるアクションシーンは、この作品ならではだ。
リアルさをほとんど志向しないマンガ的な物語であるならば、やはり冴羽獠の武器は「ヒーローの武器」でなければならない。その点において、コルト・パイソンは様々な条件を満たしたうってつけの武器である。
まず、パイソンは高い。最上級のターゲットリボルバーを目指して設計された銃であり、製造において手作業で調整しなくてはならない部分が多い。初期のモデルは表面も美しいガンブルーで仕上げられており、トリガーの調整など内部に関しても入念に手が入っていたとされる。これらの特徴のため、生産コストは他社の同クラスのリボルバーと比べて高くなり、それは価格に反映された。さらに生産が進むにつれて仕上げも品質も下がっていったとされており、初期モデルこそ最高というプレミア性もある。そもそも手に入れにくい銃なのだ。
さらに、原作での冴羽獠のパイソンは、伝説のガンスミスである真柴憲一郎が調整したものであり、単なる量産品ではない。同じものがふたつとない武器であり、ここでまず「ヒーローの武器は、誰でも簡単に手に入れられるものであってはならない」というポイントを満たしている。
威力の点でも申し分ない。パイソンの弾薬は.357 S&W マグナム弾である。1935年に発表されたこの弾薬の名前は、酒の増量ボトルである「マグナム」に由来する。その名の通り、.357マグナムは従来の県縦断より薬莢を長く設計して火薬量を増やした弾薬で、自動車のドアや初期のボディアーマーのような障害物を貫通することができる拳銃弾として登場した。以来、「マグナム」の名は大口径・大威力なリボルバーの代名詞となっており、銃に詳しくなくても一撃必殺の強力な武器であることはイメージできる。「絶対的な威力を持っていなくてはならない」という条件も、これでクリアしている。
また、パイソンは見た目からして強そうであることが重要だ。機関部から突き出た銃身の上にはベンチレーテッドリブ、下にはフルレングスアンダーラグが取り付けられており、銃身自体がひとまわり太くゴツい印象になっている。機関部から銃身がひょろりと伸びている普通のリボルバーと比べると、巨大でいかつい雰囲気が漂っているのだ。これもまた、ヒーローの武器らしいポイントだと言えるだろう。
もうひとつ書いておくと、「リボルバーである」というのも大事な要素であるように思う。高威力で生産数の少ない自動拳銃もたくさんあるが、冴羽獠というヒーローの武器はリボルバーでなければならなかったのだ。それはおそらく、リボルバーという武器のイメージに原因がある。
我々日本人が実際に目にする機会が最も多い銃は、おそらく「お巡りさんが腰に吊っているリボルバー」だろう。警官が装備している銃であることから、リボルバーは「犯罪者に立ち向かうための武器」というイメージと密接に絡みついている。さらに西部劇での使用や、映画『ダーティハリー』でのM29(ハリーも警察官である)の発砲も、リボルバーの活躍シーンとして印象深いものだ。
これらの作品や実際の警察官の姿を通して、我々には「大型のリボルバー=正義の拳銃」というイメージが結びついている。そして自動拳銃には、このような善悪に関するイメージの結びつきはほとんどないように思うのだ。善玉的ムードが漂うリボルバーであり、そしてヒーローの武器として様々な条件を満たしているパイソンは、どう考えても『シティハンター』という作品の主人公が持つに相応しい武器である。
北条司先生が、どのような経緯を経て冴羽獠にパイソンを持たせようと思ったのかは、自分にはよくわかっていない(おそらくどこかにインタビューがあるのだろうと思うが……)。が、この拳銃を持たせることを決定したというだけで、北条先生のセンスの良さは伝わってくる。Netflix版でも、時間経過とともにだんだん冴羽獠に見えてくる鈴木亮平には、パイソンがよく似合っていた。このNetflix版を見て、改めて「冴羽獠とパイソン」は最高の組み合わせだな……と思わされたのであった。