森博嗣のウェブエッセイの一節だが、ある程度は納得できる説だ。
ただ、西尾維新のような「雑学が小説内容のほとんど(と思われる)」の小説を書く前提には膨大なインプットがあるだろう。まあ、既にインプットのたくさんある読者には、読んでも時間つぶしにしかならない気がするが、無知な若者にとっては有益な読書かもしれない。もちろん、知識を並べるだけで小説にはならないから、キャラ作りをし、「お話」の骨組みもあるだろうが、アニメで少し見た限りでは、話らしい話は無いように感じた。何やら、奇妙な名前を持った変な性格の、人間と妖怪の中間的存在が、わけのわからない会話を延々とするのである。
(以下引用)
ただ、西尾維新のような「雑学が小説内容のほとんど(と思われる)」の小説を書く前提には膨大なインプットがあるだろう。まあ、既にインプットのたくさんある読者には、読んでも時間つぶしにしかならない気がするが、無知な若者にとっては有益な読書かもしれない。もちろん、知識を並べるだけで小説にはならないから、キャラ作りをし、「お話」の骨組みもあるだろうが、アニメで少し見た限りでは、話らしい話は無いように感じた。何やら、奇妙な名前を持った変な性格の、人間と妖怪の中間的存在が、わけのわからない会話を延々とするのである。
(以下引用)
読書量も最近は多い。同時に数冊を読む。ただ、小説は一切読まない。読書には古いKindleをまだ使っている。ページを捲るだけだから、少々反応が遅くても我慢。
このようにインプットの時間が増えているのは、歳のせいだと思う。いろいろ億劫になったし、体調を考え、無理をしない。さらに、文章を書く仕事を順調に削減できたことも大きい。
小説を書こうと思ったら、このようなインプットは障害となる。何故かというと、面白い作品に出会うたびに、「こういうものは書けないな」と感じるから。世の中にもう存在しているものは、忌諱の対象となる。創作とは、まだ存在しないものを生み出す行為なので、もしなにも知らなければ、無限の可能性がある。インプットして既存のものを蓄積するほど、創作の自由度が縮小する。
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