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第一次世界大戦拡大の土台となったバルカン半島問題の概要である。

(以下引用)


バルカン同盟

1912年成立のバルカン半島のスラヴ系諸国を主とした秘密軍事同盟。セルビア・モンテネグロに、ブルガリア・ギリシアが加わった。

 1912年5月、ロシアに支援されたバルカン半島の諸国家が、オスマン帝国(トルコ)に対する共同防御を目的としてに結成した軍事同盟である。セルビアモンテネグロブルガリアギリシアの間で個別に結ばれた。また付属の秘密協定で、戦争勝利後の領土分配を取り決めていた。ロシアがこれを支援したのは、オーストリア=ハンガリー帝国のバルカン進出を阻止するためであった。
 なお、セルビアとモンテネグロはともに南スラヴ系民族でパン=スラヴ主義に立ち、1878年のベルリン会議でオスマン帝国からの独立を承認されていた。ブルガリアはこの時期にはスラヴ化しており、ロシアとの関係も強く、ベルリン条約でオスマン帝国を宗主国として自治権を認められた後、1908年に青年トルコ革命の混乱に乗じて独立を宣言した。ギリシアはオスマン帝国からの独立戦争を闘い、1829年独立を達成していた。この4国は、民族系統は異なっていたが、共通点はギリシア正教会の信者が多いことである。

バルカン戦争の勃発と同盟の解体

 バルカン同盟諸国は、かねてからオスマン帝国の衰退に伴うバルカン問題のなかで、パン=ゲルマン主義をとるオーストリア=ハンガリー帝国の侵出に神経をとがらせていたが、青年トルコ革命後も混乱を続けるオスマン帝国に侵攻してそれぞれ領土を拡大しようとしてバルカン同盟を結成、1912年10月にロシアの支援のもとで第1次バルカン戦争を起こした。しかし、この戦争でもっとも広大な地域を占領したブルガリアに対して他の同盟国が反発し、翌1913年6月には第2次バルカン戦争となって同盟は解体した。
 同盟解体によって孤立したブルガリアは、他のスラヴ諸国と敵対することとなり、翌年勃発した第一次世界大戦ではドイツ・オーストリアの同盟側に加わることになる。

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まあ、私はもともと個々の人間より世界全体が気になるタイプなので、私には不向きな創作技術だが、多くの人の参考になると思う。小説家で言えば、乙一など、キャラクターの造形が凄くうまく、「キャラが生きている」のだが、羽海野チカに近い作業をやっているのか、それとも頭の中だけであれらのキャラの個性を作り出しているのか。

(以下引用)

羽海野ダイアリー11/28発売@CHICAUMINO

キャラの気持ちが知りたい時は B4の紙2.3枚にびっしり その人になったつもりで独り言を書く そしてそれを すぐ取り出せるところに置いておく 目につくたびに見返して 言葉を書き足したり消したり 他の言い方に置き換えたりして ざらざらしたものをすべすべにしていく よーく熟成してくると 文字の量は1/4くらいに減る 絵に置き換えられたらもっと減る 最初多かったものが すごく少なくなっても 少なくなった言葉の後ろに 消したものの気配だけなんとなく残る そこまで綺麗に減らせると 読み返した時すーっとする いまそれをえんえんとやっている なかなか減らない この話を描く頃までに熟成が進むといいなぁ

単なる腹案のメモだが、山手樹一郎の「浪人八景」が案外面白く、映画化向きの話だな、と思ったので、とりあえず、12回もののアニメ脚本として書いてみる。題は「金魚姫と三匹の侍」とする。
ただ、話があまりに長いので、どの部分を捨て、どの部分を生かすかが難しいかと思う。旅の途中のバトルはふたつかみっつにし、ラストの「お家騒動の終結」の面倒くさい部分はナレーションで片づけ、ラストは金魚姫と比良雪太郎が結ばれるハッピーエンドにする。長屋で慣れない家事をし、ドジをしている金魚姫の話で大団円。あるいは、雪太郎が勘当を解かれ、家老になり、金魚姫と結ばれ、新しい金魚姫が生まれた場面で終わり。
キャラとして面白いのは、むしろ敵の青野市郎太で、これほど悪辣な方面で頭が回る悪役も稀である。仲代達矢の役回りか。「明朗時代劇小説」の山手樹一郎は、案外、悪事の才能があったかもしれない。ただ、青野市郎太という名前はダメダメだろう。凄みも魅力も無い。
「三匹の侍」は、昔のテレビドラマだが、「三匹の侍」という言葉に著作権は無いと思う。「三匹」としたのは、彼らが浪人である意味だ。そして、「飼いならされた犬」ではない。
エピソードのひとつは、話の中で、周囲に守られるだけで迷惑をかけるだけの金魚姫が、悪人に攫われ、抱えられて、走る馬上にいて、その馬が棒立ちになって二人とも落馬した時、金魚姫がたまたま上になったために悪人が気絶し、だいぶ後の最終の場面で、その時の悪人(重要ポジション)がその怪我で頭がポンコツになって再起不能になった、という話が伝えられ、「じゃあ一番の手柄は金魚姫だったんだ」と皆で大笑いする話。この「偶然の手柄」が、「守られるだけの存在」だった金魚姫への視聴者の悪印象を軽減できるかと思う。
実写だと、可愛くて無邪気で一途な金魚姫を演じて視聴者に好感を持たせるのは難しいかと思う。アニメだと、「可愛いは正義」で、すべて許されるのではないか。
次に書く作品の主人公、あるいは重要人物として、ヘンリー・フォンダをイメージした人物を描きたい。つまり、強烈な「意志の人」である。人より一段深い視点を持ち、自分の信念を曲げない人物。ただし、その信念は他人に理解も共感もされない。だが、周囲から常に一目置かれ、凄みを感じさせている人物。
その他の人物として、ド・マルセーほか「暗黒事件」の人物のキャラを借用。フランス革命とロシア革命のような舞台。あるいは、満州事変のような舞台。

(以下自己引用)


今どきの若い人は、映画のクラシック(1920年代から60年代、あるいは70年代くらいまで)を見たことがない人がほとんどだろうから、以下の記事は、個人的感想、あるいはメモ書きである。
私は昔からヘンリー・フォンダという俳優が好きだったのだが、この俳優は、どこか得体が知れない印象がある。しかし、どの役柄も、彼の個性に合っているので、それは彼を使う側、主に監督が、彼の個性を把握していたのだろう。それは言語化できない個性かもしれないが、それを今、言語化するなら、彼には「信念の人」という役柄がよく似合い、彼がそうでない役を演じた例を私は思い出せない。もちろん、その信念はその人物の独断であり、場合によっては狂信かもしれないが、彼はその信念を一歩も譲らない、そういう役が似合うのである。
そういう意味では悪役も似合うが、詐欺師は、あまり似合わなかった。むしろ、「テキサスの五人の仲間」は、彼の一般的印象を逆利用した作品だったが、実に似合わなかった。というより、まったく詐欺師に見えないのであるから、種明かしをされても「何だ、これは?」という感じになったのである。種明かし自体が嘘に見えるのだから、これは成功した作品なのか、失敗した作品なのか。
で、「信念の人」には女は似合わない、むしろ邪魔である。だから「荒野の決闘」のようなほのかな片思いは似合うが、はっきりと女性を相手にしたラブロマンスやラブコメは似合わないようだ。少なくとも私は彼のそういう役柄の作品を見たことがない。女性を相手にしたら、融通無碍、臨機応変性が求められるのであり、「信念の人」がいかに女性にとって厄介かは想像できる。まあ、昔の政治家の女房、夫唱婦随の封建社会の女性しか彼には合いそうもない。だから、彼は実生活では結婚に何度か失敗しているはずだ。人並みに女に惚れても、ハリウッドの女性が彼に合うはずがない。つまり、彼が演じた役柄と、彼本人の個性は非常に近い、と私は見ているのである。
「はてな匿名ダイアリー」のコメントのひとつだが、長文の脚本論はネットでは珍しいので転載する。内容に妥当性があるかどうかは、対象作品を見ていないので分からないが、「スオミの話をしよう」は、あまり面白くない、あるいは多くの人に面白さを感じさせない内容のようだ。読んでいても、多重人格者のヒロインというのは、「爽快感」が無さそうに思える。まあ、チェーホフの「可愛い女」の三谷バージョンを作ってみたいという実験作だろう。根が暗いチェーホフの作品を土台にしてコメディとして成功する可能性は少ないと思う。三谷作品の本質は喜劇というより笑劇なのである。チェーホフ的なテーマとの相性は悪そうだ。
下の引用文の、「人物キャラの説得性が無い」という趣旨も、そう(正鵠を射ている)かもしれないが、そこに「ステレオタイプ」という概念を持ち込んだのは少し首をひねる。たとえば、ハンニバル・レクターなり誰なりが見事に造形されていたら、その真似は視聴者に馬鹿にされるのではないか。つまり、その模倣が好評だったなら、それはオリジナルとは違う個性も持っていたからだろう。味付けの問題だ。基本的に「ステレオタイプ」は演技論やフィクション論では悪口なのである。
たとえばRPG的な内容の異世界転生物は無数にあるが、「ダンジョン飯」のキャラは同種の作品キャラのステレオタイプになっていないから面白いのである。女性キャラの扱いのひどさなど、見事にステレオタイプを脱している。主人公ライオスもそうである。周囲の人間にサイコパス扱いされ、常に疑惑の目で見られるキャラがグループのリーダーなのだ。「ダンジョンの中の人」も同様である。つまり、ステレオタイプになっていないから面白い。

(以下引用)

2024-09-23

スオミの話をしよう』は何故つまらないのか(ネタバレあり)

映画スオミの話をしよう』を観た。稀代の脚本家三谷幸喜氏がメガホンを取ったとは思えないほど、つまらない作品だった。何故、これほどつまらないのだろうか。端的にいえば、寒川しずお以外の人物像に説得力がないかである

もっと説得力がない人物像は、主人公スオミである。何故スオミ結婚を繰り返すのか。何故、多重人格のように出会う男に合わせて性格だけでなく、話す言語さえも完全に変えることができるのか。なぜ、身代金要求狂言誘拐を起こしてまで生まれ故郷ヘルシンキに行くための資金を捻出しようとしたのか。

本来、これらの問いに対して観客を説得するようなエピソードを描くべきだった。しか脚本は「そういう設定」といって長澤まさみ氏の演技力で観客を説得しようとし、失敗した。寒川しずお以外の他の登場人物も同様である

なぜ、設定と演技力による人物像の説得に失敗したのか。その理由は、スオミ人物像を連想させるステレオタイプが十分に確立されていないからであろう。例えば、本作品で唯一、人物像に説得力がある寒川しずおはエキセントリックな有名詩人だが、エキセントリックな有名文学者というステレオタイプ文学史フィクションを通して十分に確立されているので、設定と坂東彌十郎氏の演技力だけで観客を説得することができた。しかスオミのような人物ステレオタイプは、史実にもフィクションにも見出すことができない。

この映画比較すると、ドラマ地面師たち』はエピソードによる説得と、ステレオタイプに乗っかって設定と演技力だけで行う説得を優れた形で組み合わせている。辻本拓海がなぜ地面師になったのか、石洋ハウス青柳隆史は何故港区土地を喉から手が出るほど欲しいのか、これらの経緯を説明するエピソードを描いて視聴者を説得している。他方でハリソン山中場合、『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターなどの極めて高い知性と身体能力を持つ超人的な快楽殺人者というステレオタイプに乗っかって、設定と演技力だけで視聴者を説得することにも成功している。

個人的には、フィクションには説得力重要と考える。フィクションなのだからエキセントリックな有名文学者超人的なシリアルキラーだけでなく、人間のような意思を持つおもちゃ超能力者など物理的に存在しえない人物さえ設定で盛り込むことができる。しかし、これらは観客に対して説得力を持たなければならない。その方法は、既に確立されたステレオタイプに乗っかって設定と演技力で観客を説得するか、エピソードを描いて「だからこの人はこういう風になったのです」と説得するか、これらのいずれか(又は両方)をしなければならない。

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