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小谷野敦の「このミステリーがひどい!」は、痛快な本だが、勢いで書き飛ばしたような部分も結構あり、自分の「面白い、面白くない」という主観を、対象作品の価値(ひどい作品、馬鹿ミスである)としているのを割り引いて読まないと俎上に上げられた作品群に対して不公平だろう。そもそも、ミステリーのファンタジー性(非現実性)というのはミステリーファンが最初から承知の上で読んでいるのであり、それはプロレスが本気の殺し合いではないのを承知で喜んで見ているのと同じことだ。土台(事件の骨子)そのものが非現実的であっても、デティールを現実的にすることで、その乖離の「浮遊感覚」を楽しむのがミステリーだと言ってもいい。それはまた、文学的価値が無い、という評価にもならない。文学的価値は多様なのである。(ちなみに、私は小谷野氏同様、ミステリーはあまり好んではいない。読むのが面倒くさすぎる。騙されるために読むというのも、正直言って馬鹿馬鹿しい。)
その「このミステリーがひどい!」の中で、古典的文学をミステリー作品と見立てて批評している部分があるが、そこでもやはり作品価値を「ミステリーとしてはひどい」「馬鹿ミスである」とするのはおかしな話だろう。それらの古典は人間の心の深い部分を揺り動かすものがあるから偉大な古典となったのである。御伽噺に鬼が出てくるからといって、「鬼など存在しない。したがって、そういうありえない話を書いている御伽噺は無価値だ」と言うのと同じことだ。
たとえば、馬鹿ミスの例として、「オセロウ」について、

「オセロウは愚かだと言われるが、イアゴーを信じたところが愚かというより、いちおうデズデモウナに確かめなかったところが愚かなのである」

と書いてあるが、これは「比較文学者」、つまり、一応は文学研究者である小谷野氏の発言としては、氏の文学鑑賞眼を疑わせる「浅すぎる」言葉ではないだろうか。
オセロウがデズデモウナをあまりに愛しすぎていたために、彼女が自分を本当に愛しているかどうか自信が持てずにいることは明白に描かれている。ならば、不貞の事実を彼女に確かめることは、彼にとって死ぬよりつらいことのはずである。むしろ、「彼女が自分(のような黒人)を愛しているはずがない」という確信のほうが彼の心の中では大きかっただろう。その彼女に「事実を確かめる」ことができるはずがあるだろうか。それよりは、「不貞が事実かどうか不明のままで」彼女を殺したほうが、「不貞ではなかった」という「美しい可能性」が残るから、そのほうを選ぶ、というのは愚かではあるだろうが、人間心理として大いにありうることだと思う。そういう、かつて誰も描かなかったが「真実」でもある、奇怪な人間心理を描いていることを観客たちは心の底で感じたからこそ、「オセロウ」はシェークスピアの傑作のひとつと評価されたのだと私は思う。

昔、「愛するって怖い」という歌謡曲がヒットしたが、その俗っぽい題名が嫌いで私はロクに聞いたこともない。だが、「オセロウ」と重ね合わせると、まさに「愛するって怖い」は真実なのである。




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