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私は銃器には無知なので、「榴弾」の定義を知らないのだが、このおばさんが言っているのは「散弾」のことではないだろうか。下のツィートをリツィートした人は銃器マニアらしい作品をかなり書いている人だが、この言葉を訂正していないのだから、「榴弾」も弾が散るものなのか。とすると、「榴弾砲」とはどういうものなのか。私は、弧を描いて落下する弾が榴弾だと思っていた。「手榴弾」だって、弾自体が「散る」のではなく、当たったら炸裂するものだ。
後で調べてみる。

(追記)「榴弾」の定義と「榴弾砲」の性質に齟齬があるようだ。

陸上兵器や艦載兵器で使用されている火砲の砲弾は、ほとんどが榴弾と徹甲弾に大別できる[注 2]。徹甲弾が高速飛翔する自身の持つ運動エネルギーによって目標を破壊するのに対して、榴弾は内部の火薬が炸裂することで、弾殻が破砕され、その破片が広範囲に飛び散り、目標に突き刺さって打撃を与える[注 3]。これは攻撃対象の違いにより、徹甲弾は戦車や艦船など、装甲された目標の装甲板を破壊するために使用されるのに対し、榴弾は散開した兵士や軽車両、通常の建物などを広く攻撃するために使用される。

榴弾砲は、曲射砲に属する。砲弾は比較的高い角度で発射され、放物線を描いて、目標の頭上から落下する。この特性により、山の向こう側など目視できない地点へも攻撃を加えることができ、また広範囲の目標を捕捉することができる。ほぼ垂直で落下することによって、弾殻が縦長で破片効果によって加害する同種の炸裂弾の中でも水平面方向への断片の飛散割合は高くなり、加害効率が高くなる。



(以下引用)

市販の電動ガンで畑を荒らすおサルを追い払ってる農家のオバチャンが「飛んでってバーッって弾が飛び散るようなの無いの?」と知識は全く無いはずなのに実戦を通して経験的に榴弾を欲していたなんて話は大変興味深かった。>RT
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今、「虚栄の市」を読み始めているが、面白い。ベッキー・シャープというキャラが面白い。意地悪女なのだが、行動が痛快で、ある意味、涼宮ハルヒの先祖的キャラかもしれない。
不遇な生まれ育ちの娘なのだが、だからこそ社会に「鍛えられている」わけだ。
作者の筆致はこのヒロインにまったく同情的ではないのも面白い。不遇は不遇として、彼女の性格は自分で作り上げたものでもあり、周囲の人間が彼女を嫌うのも、彼女が周囲の人間に見せる態度の反映だ、というのがちゃんと描かれている。
小説を書くのにお手本になりそうな作品である。
かなり冗談交じりの書き方なのだが、そのユーモアはディッケンズよりはどちらかと言うとフィールディングに近いか。
森薫に漫画化してもらいたい作品である。ユーモアの質は案外似ている気がする。
「鬼滅の刃」を男作者が書いていたらどうなったか、を論じたスレッドで、このコメントは納得した。女性作者の場合、政治を描いても陰謀とか人間関係の話になりそうである。つまり「政治力学」や「組織力学」の話にはならない気がする。まあ、男作者でもそこまで書ける能力のある漫画家はほとんどいないが。話が逸れるが、女性作家は愛情と憎悪を描かせると上手いが、基本的に肉体的な戦いにはさほど関心が無いのではないか。


(以下引用)

276: 風吹けば名無し 2021/10/14(木) 11:35:34.24 ID:dCQ8z3np0
SF的な設定や政治劇をぶっ込んでくる
例えば鬼化は血液感染するウイルスの症状だとか鬼が政府に忍び込んでるとか
バトル漫画は誰でも知っているだろうが、バトル小説は聞いたことが無いだろう。それは当然で、基本的にバトル小説というものは存在しないからである。まあ、それに近いのは吉川英治の「宮本武蔵」と、その亜流の時代小説群くらいのものだろうが、それらも、バトル漫画とは違って、戦い以外の場面やストーリー展開の比重が大きいため、実は「バトル小説」とは言えない。「バトル小説」に一番近い「眠狂四郎」シリーズだって、決闘場面だけというわけにはいかず、そこまで行くのに紙数をかなり費やすのである。それを言えばバトル漫画だって戦い以外の場面もあるだろう、と言うだろうが、比重が違う。バトル漫画の戦い以外の場面は仲間とふざけあうか修行をするだけだ。それで済むのは、読者層が実年齢が低いか精神年齢が低いからである。
そして、戦いの場面の描写では、視覚芸術である漫画が小説より有利であるのは言うまでもない。小説の場合は、どうしても読者の想像に任せるしか動きの描写はできないのである。
そして、「敵」の描写においても漫画が有利だ。新しい敵を創造する場合、ビジュアル的に違う敵を出せばだいたい済むからである。(昔は、強大な敵を表現するのに、まさに身長や体重が常人の2倍も3倍もある巨人を出すことが多かったのは、漫画がまさにビジュアル性が生命だったからである。)
この前から、何か小説を書きたいという漠然とした欲求はあるのだが、案が何ひとつ出てこない。その原因を考えてみる。

1)どういう案であれ、すべて既に書かれた作品の焼き直しでしかないという気持ちがある。
2)小説の骨子となる「キャラ」や「事件」を考えること自体に空しさを感じる。
3)現実についての知識が大きく不足しているので、面白い事件を考える能力がない。

とすると、マルキ・ド・サドの哲学的小説かヴォルテールの「カンディード」のような「コンデンス・ノベル」くらいしか書けるものはなさそうである。
多くの作家が、晩年には創作能力を失うのは、フィクションへの関心を無くすからだろう。
しかし、私の場合は、世界を哲学的に把握し理解したいという欲求はまだあるし、それを考察することはまさにレジャー(余暇の満足できる過ごし方)になると予感している。
ただ、人間の愛憎や感情の衝突から生まれる「事件」を扱うのは、かなり面倒くさいし、おそらく私の手に余る。そこで、サドかヴォルテール式の小説が私には向いていると思うわけだ。
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