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ニコラ・テスラ(セルビア語: Никола Тесла, セルビア語ラテン翻字: Nikola Tesla, 1856年7月10日 - 1943年1月7日)は、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家である。交流電気方式、無線操縦、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなど多数の発明や、「世界システム」なる全地球的送電システムなど壮大な提唱もあり、磁束密度の単位「テスラ」にその名を残している。
8つの言語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通し、電流戦争ではトーマス・エジソンのライバルだった。
人物・生涯[編集]
1856年7月9日深夜、オーストリア帝国(現在のクロアチア西部)リカ=コルバヴァ県ゴスピッチ近郊の村スミリャン(英語版) で生まれる。父母ともにセルビア人で父はセルビア正教会司祭に奉じ、兄弟は兄のデンと姉2人と妹1人がいた。兄を失った5歳の頃から頻繁に幻覚を見たとされ、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るため勉学に励んで特に数学で突出した才能を発揮したとされる。
1878年12月、グラーツ工科大学を中退。
1880年1月、プラハ大学に留学。ただしコースの卒業証明はうけておらず。[1]
1881年1月、ブダペスト国営電信局に就職する[1]
その後ゼネラル・エレクトリックのフランス法人に勤めた。
1882年、誘導モーターの開発に成功する。
1884年、渡米してエジソンのエジソン電灯会社に採用される。当時直流による電力事業を展開する社内で交流による電力事業を提案し、エジソンと対立して数ヶ月で失職する。
1887年4月、独立したテスラは Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)を設立し、独自に交流による電力事業を推進して同年10月に交流電源の特許を受諾される[要出典]。
1888年5月16日、アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、感銘したジョージ・ウェスティングハウスから研究費100万米ドルと特許使用料を提供される。テスラの特許を使用した交流発電機は、ウェスティングハウス・エレクトリック社ベンジャミン・G・ランム(英語版)の設計で、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所(英語版)に三相交流25サイクルのものが設置された。テスラは同年に循環磁界を発見して超高周波発生器を開発するが、ウェスティングハウス社技術陣の中で孤立して1年で離れる。
1891年、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器を発明する。
1893年、無線トランスミッターを発明する。
シカゴ万博会場内の電気供給に、電気館の電源システムをウェスティングハウス社が構築して交流の優位性を示した。これは、20台の単相500馬力発電機を2群にわけ、それぞれ回転子を90度ずらして二相交流12000馬力発電機として構成し、蒸気機関により駆動して発電した電力を変圧器で昇圧して送電後、再度変圧器で降圧して16燭光の電灯を1000個点灯するとともに誘導電動機を回したもので、ほかに回転変流機を設置して直流電源電車を走行させた。
1898年、点火プラグの米国特許を取得し、無線操縦特許を取得してニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで無線操縦の船舶模型を実演した[2]。
1901年、J・P・モルガンの援助により、ロングアイランドのショアハムに高さ57メートルの無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」を建設開始し[3]、1905年に完成するもモルガンとの関係悪化により資金繰りが悪化し研究を中断する[4]。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、タワーは標的になるとして1917年に撤去された[要出典]。
1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となったという噂が流れるが共に受賞しなかった[5]。1930年代にも受賞候補に選ばれるが受賞しなかった[要出典]。
1916年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になり一度は辞退するが(後述)再考後1917年にこれを受ける[6][7]。晩年は精神障害に悩まされた[要出典]。
1928年、フリーバー(Flivver)と言う名称の「空中輸送装置」の特許を得たが、これは垂直離着陸機(ティルトローター式)の最初期に当たる。
1943年1月7日、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで死去する。享年86歳であった。数トンの重量に及ぶとされる彼の発明品や設計図は「アメリカ軍とFBIが没収した」「ユーゴスラビアを通じてソ連の手にも渡った」と街談巷説されたが、実際はFBIの押収後に複製されて母国に返還された。原版はベオグラードのニコラ・テスラ博物館に保管され、2003年にユネスコ記憶遺産に登録された[8]。
エジソンとの確執[編集]
テスラがエジソン電灯に入社した当時のトーマス・エジソンは研究者と発明家としてすでに実績があり、エジソンへの憧憬や敬意から就職したとも考えられ、給与未払いなどの話題もあるが、両者の確執は「直流と交流との確執」に起因している。
エジソンは、エジソン好みの直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させたら、褒賞として5万ドル払うと提案した。直流の優位性や安全性に加えて交流の難しさなどを考慮した発言だったが、テスラはこれを成功させた。交流を認めたくないエジソンは褒賞を「冗談だった」で済ませ支払わなかったため、テスラは激怒して後に退社する。
後年にテスラら交流陣営とエジソンの直流陣営が紛争し、エジソンは交流の危険性を広めるためのキャンペーンとして有名な電気椅子処刑を発案するなどしたが、現在は全世界で交流送電が採用されている。
以下はエジソンとの確執をあらわすエピソードである。
- 1917年、生活に貧するテスラへ米国電気工学協会からエジソン勲章授与が知らされるが、「私に名誉の勲章をくださるということですが、それを上着につけてあなた方協会員の前で得意げに見せびらかせばよいということですか。あなた方は私の体を飾り立てるばかりで功績を認められそこなった私の頭とその画期的な発明には何も与えてくださらない。今日、あなた方の協会があるのは、おおかた私の頭とその産物が下地を与えたからだというのに」[要出典]と、エジソンの名が冠されたこの賞を断った。
- エジソンの死後、ニューヨークタイムズのインタビューで否定的にコメントしている。
私は少し理論を利用するか計算するだけで90%削減できたであろう労力を彼が費すのを残念に思いながらほとんど見ているだけだった。彼は本での学習や数学的な知識を軽視し、自身の発明家としての直感や実践的なアメリカ人的感覚のみを信じていた。
I was almost a sorry witness of his doings, knowing that just a little theory and calculation would have saved him 90 percent of the labor. But he had a veritable contempt for book learning and mathematical knowledge, trusting himself entirely to his inventor's instinct and practical American sense.[9]
エジソンは典型的な実験科学者、テスラは理論科学者、として研究手法が「水と油」であったことが示唆される。
- 幼少期は空想と数々の強迫観念に囚われていた。成人以後は異常な潔癖症で知られた。「宇宙人と交信している(心霊診断を行ったエドガー・ケイシーと交流があった)」「地球を割ってみせる」など奇怪な発言や行動が多い。
- 奇抜な研究内容や、数々の伝説、冷遇された人生などから、彼や彼の発明であるテスラコイルなどはカルト団体や疑似科学らに多々用いられ、自身も晩年は霊界との通信装置を研究するなどオカルト色が強まった[要出典]。エジソンも同様に晩年に霊界との通信装置などを研究した。
- 長身で美男であることからモルガンの令嬢などと恋愛したが、本人の性格などに起因して成就せず生涯を独身で過ごした。モルガンの資金援助打ち切りは娘との関係があると言われる。
- 「公園を歌いながら散歩しつつ思考しており、なにかひらめいたらしくとんぼ返りをした」と当時の目撃者が記録している。
- 友人で作家のマーク・トウェインはテスラを「稲妻博士」と呼んでいる[要出典]。「アメリカSFの父」と呼ばれるヒューゴー・ガーンズバックも友人で、テスラ死後にそのデスマスクを製作させている。
- 科学技術の発展に著しく貢献したとして、肖像が母国セルビアの100ディナール通貨に使用されている。
無線送電装置[編集]
世界(無線)システム(World Wireless System、Tesla World system)なる電磁波を用いた無線送電装置を発案し、ニューヨーク州ロングアイランドに「ウォーデンクリフ・タワー」を建設して実験したが、用いた周波数が150キロヘルツと低いために減衰が速く、到達地点では微弱で失敗している。
IEEEとの関わり[編集]
IEEEの最高勲章であるエジソン勲章受章を1916年に打診され、一度は固辞するものの1917年に受ける[5]。
1975年には、テスラの名前を冠したIEEE ニコラ・テスラ賞(英語版)が設けられている。