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山上たつひこの自伝的エッセイの一部で、「自分の武器」を手に入れていない時代の創作者の創作の状態がどんなものかよく分かる。満蒙開拓団の青年を主人公にしただけでも、「光る風」を後に描いた人間の志向性が分かる。本質的に真面目な性格だからこそ、「がきデカ」のギャグも生まれたのではないか。その真面目さ(あるいは人生の悲惨や不条理)への疑いを持つ時にその落差から笑いへの切り口が生まれる。
赤字にした部分は創作初心者へのアドバイスになりそうだ。

(以下引用)

「国境ブルース」は満蒙(まんもう)開拓団の日本人青年とロシア娘の愛と別れを描いた物語である。

「愛と別れ」とはミもフタもないけれど、この作品についてはそれ以外の言い回しを探す気力が湧かない。

ぼくは旧満州を舞台に、映画「ドクトル・ジバゴ」の向こうをはって一大抒情詩を謳い上げるつもりであったようだ。むろん、抒情詩にも何にもならなかった。主題を曖昧(あいまい)においたまま描き始めたため、焦点が所在不明のぼやけた戦争ドラマになってしまった。時代考証は御座成(おざな)りで、登場人物の性格づけや相関関係もありきたりだった。そして絵──、ぼくのペン先からおずおずと現れる描線ときたら誰かの借り物のようだった。これは「神代の国にて」においても同じことが言える。ぼくの肉体から精神が離脱して抜け殻になったぼくの姿を見ている。抜け殻のぼくは漫画を描いている。

「心ここにあらず」ではない。文字通り心は抜け出して空っぽなのである。浮遊する存在であるぼくは筋肉の記憶だけでペンを蠢かせる漫画家を(こいつはどこへ行き着くつもりなのだろう)とハラハラしながら眺めている。

ギャグという手法を手中にするまでのぼくはおおむねこんな精神状態で仕事をしていたように思う。





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ロシア帝国、日本帝国が滅亡しないまま現代になっていたらどうか、という小説(脚本)ネタのためのメモ。





1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められた。その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年5月28日のアイグン条約、1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった。そして1860年には政策を転換して、漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。この民族移動のことを「闖関東」という。1900年にはロシア軍によってブラゴヴェシチェンスク清国人数千人が虐殺されるアムール川事件が起きる。

1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、上記の条約によって確保されていたロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡された。弱体化した清朝は1911年辛亥革命で倒された。翌年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言するが、実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態であり、満洲は張作霖軍閥の支配下となる。清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増する。1908年の満州人口は1583万人であり、それが満州事変前には3000万人まで増加している。

北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、一次大戦やロシア革命の混乱により支配力は低下し、ロシア革命に対する干渉戦争として行われたシベリア出兵により、外満洲属するウラジオストクを連合軍が、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する事になった。1920年には日本占領下のニコラエフスク赤軍パルチザンが襲撃し、破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)。日本以外の連合軍は1920年に、日本は1922年に撤退し占領は解除された。

Manchukuo map.png

ソビエト連邦は東清鉄道の経営権をロシアから継承していたが、1928年に満洲を実効支配する張学良政権はこの権益の武力による略奪を行おうとした。これに対しソ連は満洲に侵略し、中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保し、権益を再確認する協定を結んだ後撤退した(中東路事件)。

1931年に日本(大日本帝国)は満洲事変を契機に満洲全域を占領し、翌1932年に満洲国を建国した。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。これは清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀は退位させられる際に中華民国から満州に独自の国家を設立することを希望していた[要出典]ことが背景にあった。満洲国は事実上日本の支配下となった。日本は南満洲鉄道満洲重工業開発を通じて産業投資を行い、品種改良で寒さに強い品種を植えることで不毛の地ばかりだった満州に農地が多数開墾され、荒野には工場を建設して開発した。満州で治安が良くなり、交通が開け、貨幣が統一された。満州国建国以前の満州では、軍閥が独自紙幣を発行し、奥地になるほど治安が悪く、農民は安心して耕作ができなかった。満州国は統一した通貨を発行して、満州各地で流通させたことで信頼のある貨幣経済が成立した。奥地にまで道路や鉄道が建設され、治安が良くなると農民も農作物を市場に出して稼ぐようになった。電話線など通信網も張り巡らせ、奥地など満州の地方にも病院や工場、また初等教育への進学率低かった対策に学校も設立した。日本による投資を受けて経済的に豊かになり、群雄割拠状態で乱れていた中華民国時代からの突然の経済発展を受けて、中国民国側から豊かさを求めて多くの移民が流入した。そのため、満州国地域における日本人以外の人口は満州国建国以前よりも増加した。背景にはインフラがほとんどなかったが投資・開発を受けて居住可能地域が増加したこと、日本から持ち込まれた品種からも農耕作可能地域が増加したことにある。満州国成立した1932年には約3000万だった終戦までには約4500万人に増加した。3万人の小さな町が近代都市に発展して、約13年間で300万人に膨れ上がっている[1]。ただし、人口増加率で見ると満州建国前と大差はない。

1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊し、ソ連は満州を占領して中華民国への返還を遅らせた(東北問題)。その後、中国共産党が国共内戦に勝利し、満洲は中華人民共和国の領土となった。暫くはソ連との結びつきの強い高崗が独自の地方運営を行っていたが[2]、後に毛沢東粛清された。満州地域は満州国時代のインフラ整備・開発政策の成果が残っていたため、共産主義体制下の中華人民共和国でも豊かな土地であった。しかし、1990年代以降の改革開放政策により、上海深圳市など華東華南経済特区の経済成長が著しくなる一方、満州国時代のインフラのままだったことで、逆に経済的には立ち遅れた地域となった[3]。中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、遼東半島を含む環渤海経済圏を設定した。

満洲に存在した日本の株式会社[編集]




内モンゴルの近代史である。




辛亥革命後[編集]

1911年、中国では辛亥革命中華民国が成立するとともに、モンゴルが独立を宣言し、内モンゴルも合併を申し出た。1913年にモンゴル軍が内モンゴル解放戦争をはじめ、ほぼ全域から中華民国軍を追放した。しかし、帝政ロシアの介入で、この解放戦争は失敗に終わる。1915年6月7日、モンゴルの国境にあるキャフタで露・蒙・華三国の間でキャフタ協定が結ばれ、中華民国北京政府は内モンゴルと外モンゴルを自治区とした(ただし外モンゴルは広範な自治権を獲得した)。

その後、内モンゴルでは、中国に進出していた日本関東軍の援助で、皇帝愛新覚羅溥儀を元首として建国された満州国(一部が内モンゴル東部)とチャハル部出身のデムチュクドンロブ(徳王)によって1939年張家口蒙古聯合自治政府が成立した。当時総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル族は15万4203人だった。1945年8月、ソ連対日参戦によるソビエト連邦軍(赤軍)とモンゴル人民共和国軍の侵攻に満州国と蒙古連合自治政府は崩壊する。ソ連軍とモンゴル軍は内モンゴル東部のみならず、チャハルや熱河省といった内モンゴル西部[6]にも進駐し、その影響下で内モンゴル人民共和国東モンゴル自治政府などが成立する。ソ連とモンゴルは中ソ友好同盟条約に基づいて中華民国にモンゴル独立を認めさせる代わりに内外モンゴル統一の要求を取り下げた。

内モンゴル自治区の成立[編集]

ウランフ

占領したソニド右旗を慰問で訪れたモンゴル人民共和国の指導者ホルローギーン・チョイバルサン中国共産党との連携を現地民に指示[7]してウランフが内モンゴル人民共和国の代表となってからは東モンゴル自治政府やフルンボイル地方自治政府、西蒙自治政府などが懐柔され、察哈爾省綏遠省熱河省遼北省興安省は廃止されて東西モンゴルは統一することになる。中華人民共和国が建国するとウランフの内モンゴル自治政府は内モンゴル自治区となった。中華人民共和国の自治区としては最も早い成立である。徳王は外モンゴル(モンゴル人民共和国)に亡命するもソ連が捕えていた愛新覚羅溥儀のように中国に引き渡されて内モンゴルで特赦と役職を与えられた。外モンゴルは独立の道を歩んだが、内モンゴルは中国共産党の影響があったとはいえ、同じモンゴル族同士の運動と対立の結果自治区となった。

文化大革命時の虐殺と名誉回復[編集]

その後ウランフは文化大革命の勃発により失脚し、1966年に起きた内モンゴル人民革命党粛清事件など文化大革命による大量虐殺の上にモンゴル人は自治権が完全に剥奪されていた。当時の内モンゴルのモンゴル人の人口約150万人ののうち、34万6000人が逮捕され、2万7900人が殺害され、12万人が暴力を受けて障害者にされたとされ、後に犠牲者らは胡耀邦によって名誉回復された[2][8]1967年フフホトに革命委員会が成立した。中ソ対立の軍事的緊張下に1969年には内モンゴル生産建設兵団が設置され、1970年には行政区画の大幅な変更が行われた。これによって内モンゴル東部は東北三省に、西部は寧夏甘粛に分割されたが、1979年に旧に復し、ウランフも復権した。ウランフの妹婿の孔飛中国語版、息子のブヘ中国語版、孫のブ・シャオリン中国語版も内モンゴル自治区主席を務めるなど文革時代を除いてウランフの一族は内モンゴル自治区で太子党となって権勢を振っている[9]

はい   Да.
ダー
いいえ   Нет.
ニィエート
ありがとう   Спасибо.
スパスィーバ
どういたしまして   Не за что.
ニィエー ザ シタ
お願いします   Пожалуйста. (私が1番目に好きなロシア語です。)
パジャールスタ
よろこんで!   С удовольствием! (私が2番目に好きなロシア語です。)
スダヴォーリストゥヴエム
わかります   Я понимаю.
ヤー パニマーユ
わかりません   Я не понимаю.
ヤー ニ パニマーユ
ゆっくり話してください   Говорите медленно.
ガヴァリーチェ ミェードリンナ
もう一度お願いします。   Повторите, пожалуйста.
パフタりーチェ パジャールスタ
もちろん   Конечно.
カニェーシナ
たぶん   Может быть.
モージト ブィチ
いいね   Это хорошо.
エータ ハらショー
悪い   Это плохо.
エータ プローハ
すいません、ごめんなさい   Извините.
イズヴィニーチェ
(2)至福のキス


俺はその少女の方に向かって歩き出した。近づくにつれて少女の様子がはっきりしてくる。明らかに外国人の顔立ちで、明らかに北方系、おそらくロシアかその周辺の国の顔だ。服装も、エプロンにスカーフで、農家の娘のようだ。色白で、目は青い。ほっそりしているが、顔はやや丸顔で可愛い。

「*******! ******」

何を言っているのか、さっぱり分からない。俺の心は不安感でいっぱいになる。

「******! ******?」

何か問いかけているのは分かるが、それ以上は分からない。

「****グレゴリー?」

たぶん、俺はグレゴリーと言うのだろう。仕方なく、おれはうなづいた。この世界で、うなづく仕草が同意を示すかどうかは分からないが、そうするしかない。

少女は途方に暮れたような顔で、まだ何とかかんとか言っていたが、まったく俺には分からない言葉だ。ただ、ロシア語であるような気はする。ロシア語なら、「ニエット」が「ノー」の意味だというのは知っているが、「イエス」は何と言ったか。「ヤー」とか「ダー」とか言った気がする。いや、「ヤー・チャイカ」が「私はカモメ」と訳されていたから、「ダー」の方か。

少女は俺の手を引っ張るようにして、近くにあった小さな家に連れていった。

家の作りは、二間か三間くらいだろうか。居間と台所が一緒で、奥に寝室があるようだ。
その居間のテーブルは大きい。家は小さいが家族は多いような気がした。
少女は俺を粗末な木の椅子に座らせて、暖炉(いわゆるペチカだろうか?)の上の妙な器具からお茶らしきものを注いで私の前に置いた。

「*****」

と少女が言った時、俺は、「有難う」と言ったが、少女は首を傾げる。

俺は思いついて「スパシーボ」と言ってみた。何となく、それが「有難う」のロシア語だという気がしたのである。もっとも、ここがロシアかどうかまだ分からないが。

少女は「スパシーボ? ******スパシーボ?」

と言って首を傾げたが、笑顔になったので、まあ、これでいいか、と俺は思った。

少女が俺の傍に来て、その身をかがめた時、少女が何をするつもりなのか、俺はまったく予想もしていなかった。

突然のキス。

生まれて初めてのキスに俺はパニクった。

いや、相手は、まあ、俺の感覚では美少女だし、実にラッキーだとは思うが、そもそも、キスとはどうするものなのか。唇と唇を合わせるだけではないような気がする。確か、舌を相手の口の中に突っ込むとか、舌と舌を絡み合わせるとか、あったような気がするが、気が動転するだけで、どうしていいか分からない。だが、美しい少女と唇を重ねるだけでも至福である。

「******! *****?」

少女が唇を離して何か言い、にっこり笑ったので、別に不快感は与えなかったようだと判断して俺は安心した。

家の外で足音と数人の人声がした。この家の人たちが帰ってきたのだろう。

さて、これからが地獄だ、という気がした。







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