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ここも少し興味深いので転載する。

(以下引用)


十有二月癸巳朔丙申(三)櫛玉饒速日命を君主に

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原文

時、長髄彦乃遣行人、言於天皇曰「嘗有天神之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。(饒速日、此云儞藝波揶卑。)是娶吾妹三炊屋媛(亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛)遂有兒息、名曰可美眞手命。(可美眞手、此云于魔詩莽耐。)故、吾以饒速日命、爲君而奉焉。夫天神之子、豈有兩種乎、奈何更稱天神子、以奪人地乎。吾心推之、未必爲信。」天皇曰「天神子亦多耳。汝所爲君、是實天神之子者、必有表物。可相示之。」

現代語訳

そのとき、長髄彦(ナガスネヒコ)はすぐに使者を派遣して、天皇に告げました。
「昔、天津神(アマツカミ)の子(ミコ)がいました。
天磐船(アマノイワフネ)に乗って天より降りて来ました。
その名を櫛玉饒速日命(クシタマニギヤハヒノミコト)といいます。
饒速日は「儞藝波揶卑(ニギハヤヒ)」と読みます。

この人物は私(=長髄彦)の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶って子供をもうけました。
ミカシキヤヒメの別名は長髄媛(ナガスネヒメ)、またの別名を鳥見屋媛(トミヤビメ)といいます。

その子供の名前を可美眞手命(ウマシマデノミコト)といいます。
可美眞手は于魔詩莽耐(ウマシマデ)と読みます。

わたしは饒速日命(ニギハヤヒミコト)を君主として仕えています。天神の子がどうして両種(フタハシラ=神が二人)あるものでしょうか??どうして更に天神(アマツカミ)の子と名乗って、ひとの国を奪おうとするのか? 私が考えるに、未必爲信(イツワリ=偽り=偽物)では無いでしょうか?」
天皇は言いました。
「天神の子は多く居るものだ。
お前のところの君主が本物の天神の子ならば、必ず『表(=シルシ)』があるはずだ。それを見せなさい」
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解説

ニギハヤヒとは?
ニギハヤヒは神武天皇と同じように天神の子とされます。長髄彦は「天神の子は一人」と思っていたようですが、天皇にしてみれば天神の子は複数居て良いみたい。長髄彦の言う方がごもっともな気もしますが、天皇自身が「複数居る」と言うんだからしょうがない。

長髄彦としては天神の子であるニギハヤヒと妹を結婚させて、子供までもうけた。それに天皇とはすでに戦い、天皇の兄の五瀬命(イツセノミコト)に怪我を負わせ、殺している。今更、天皇が「俺も天神の子なんだぜ!」と言って来ても困りますよね。許してくれそうにも無いし。

それでも兄猾(エウカシ)や兄磯城(エシキ)のようにだまし討ちもしないし、この会話の中に長髄彦にも同情の余地を残すあたりは理由があるのかもしれない。






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物語や小説なら、最初のクライマックスである。




現代語訳

戊午年夏四月
夏四月の九日。
皇師(ミイクサ)は兵を整えて、歩いて龍田(タツタ)に向かいました。その道は狭く険しく、人が並んで行けないほどでした。そこで引き返して、東の膽駒山(イコマヤマ)を越えて、中洲(ウチツクニ=大和)に入ろうとしました。

そのとき長髄彦(ナガスネヒコ)が(神武天皇が大和へ来るという話を)聞いて言いました。
「それは天神子等(アマツカミノミコタチ)が来るのは、我が国を奪おうとしているに違いない」
それで(長髄彦は)侵略に対する兵を集めて、孔舍衞坂(クサエノサカ)で迎え撃ち、戦いになりました。その戦いで流れ矢が神武天皇の兄の五瀬命(イツセミコト)の肱脛(ヒジハギ=ヒジのこと)に当たりました。
皇師(ミイクサ)はこれ以上、進軍し戦うことは出来ませんでした。そこて天皇(スメラミコト)は残念に思い、神策(アヤシキハカリゴト=名案)を沖衿(ミココロノウチ=心の中)で廻らし、言いました。
「今、わたしは日の神の子孫(ウミノコ)なのに、日に向いて敵に向かったのは、天道(アメノミチ)に逆らうことだ。ここは一旦、退却し弱いと思わせ、神祇をよくよく祀り、背に日の神の勢いを背負い、日陰が挿すように敵を襲い倒そう。そうすれば剣を血で汚さずとも、敵は必ず自然と破れるだろう」
皆(=部下)は、言いました。
「その通りです」
そこで軍中(イクサ)に令(ミコトノリ)して言いました。
「しばらく止まれ、もう進軍するな!」
すぐに軍(イクサ)を率いて退却しました。敵もまた攻めて来なかった。(神武天皇の軍は)退却して草香之津(クサカノツ)に到着して、盾を揃え、並べ、雄誥(オタケビ)をあげました。
雄誥は烏多鶏縻(オタケビ)といいます

それでその津(=港)を盾津(タテツ)と名付けて言うようになりました。今は蓼津(タデツ)というのは訛ったからです。初めの孔舍衞(クサエ)の戦いで、ある人物が大きな木に隠れて難を逃れました。それでその木を指して
「母のように恩がある」
といいました。
それで世の人はその場所を「母木邑(オモノキノムラ)」といいます。今、飫悶廼奇(オモノキ)というのは、それが訛ったものです。
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解説

難波から上陸した神武天皇は大和を目指します。ちなみに「ヤマト」という言葉は「山門」で、周囲が山に囲まれている地形の事で、本来は特定の土地を指した言葉ではありませんでした。

そんな大和を目指すのですが、すでに大和を支配していた長髄彦(ナガスネヒコ)が反抗します。当然です。侵略に対して兵を立てて守るのは極々当たり前のことです。それで神武天皇は破れてしまいます。

もともと海を通って来た「海のプロ」なので、陸での戦いに不慣れだったのかもしれません。この記述で初めて「歩いて移動」しているくらいです。

そこで五瀬命(イツセノミコト)が負傷し、太陽を背にすれば勝てるに違いないという言い訳をして、一旦退却します。まぁ、戦争では太陽を背にして戦うというのはセオリーですから、間違ってはいません。
オタケビとは
隼人のところでも、「犬のように吠える」とは「魔を祓う」という意味があったわけで、単に鼓舞する意味よりも、敗戦という「穢れ」を祓う儀式だったのではないか?とも。
前述サイトの「皇統騎馬民族説否定論」だが、私もまったく同感である。

(以下引用)


神武天皇は海洋民族だよね
神武天皇は皇子と船員を連れて、故郷を出発しました。
よく大和朝廷は騎馬民族という意見がありますが、記紀を何処をどう読んでも、騎馬民族という結論には至らない。記紀では、馬が日本に伝わるのは応神天皇となっているので、記述通りならあり得ない。
●日本では大昔には馬が居たらしいが、それは野生の馬で多少は飼われていたかもしれない。骨は出るが騎乗するための馬具が出ない。
古墳時代の中期に入ると馬の骨と馬具などが出る。関東が中心。
●この時代に朝鮮半島から来たとされるが、それなら西日本が中心でないとおかしいのではないか??
●蝦夷との戦争で馬が活用されたのか?
●わたしは蝦夷から馬が伝わったのではないか?と疑っている。
●大和朝廷は東北の蝦夷を征伐した「現実的理由」に金と馬があったのではないか? だから関東に馬がたくさん出てくるのではないか??


同じく、前出サイトから転載。
海幸彦山幸彦で、困窮した海幸彦(のほうだと思う)が、「俳人(俳優、ピエロ的存在)になって仕えるから許してくれ」というのが、下の記事の前半の意味。なお、「狗」も侮蔑的意味がある。「偽物」という意味合いが強く、「狗人」は、「原日本人」に与えられた、「人の姿をしている、人の偽物」の意味だろう。九州の稲作についての記述も、まさにその通りだろう。大和朝廷の東征自体が、稲作の適地を求めての意味合いが非常に強いと思う。単なる領土拡張というのは、古代では経済的な意義が無い。稲でないと、税も取り立てられないからこそ、後世でも百姓以外は納税義務が無かったのである。その経済的欠陥が徳川幕府崩壊の真の原因だったと私は見ている。

(以下引用)


狗人と俳人
狗は番犬という意味でしょう。俳人の「俳」は「人に非ず」と書くのを見るに良い意味ではない、ような気がします。

大和朝廷の根本は稲でした。米は保存が利くもので、これを「税」として「通貨」代わりに徴収することで、大和朝廷という国家を成立させました。だから、稲が大事です。

ところが九州南部は水はけが良すぎて稲が育たない。
だから九州南部は大和朝廷になかなか参加することが出来なかった。というか、参加するメリットが無い。なにより九州南部は沖縄・台湾・中国といった交易によって利益を得ていたので、国力もあった。

仲哀天皇が九州を平定したとありますが、これもまだ九州北部です。つまり神功皇后が朝鮮征伐を行ったときもまだ、九州南部は独立を保っていました。わたしは神功皇后が朝鮮に進出した背景が、九州南部以外の交易ルートを確保するという目的があったからと考えています。

その後、九州南部も大和朝廷に参加します。おそらく、朝鮮半島経由の中国→中国南部という別の交易ルートが生まれたために、優位が崩れ、国力が落ちたのでしょう。その後、白村江の敗戦で朝鮮半島ルートが遮断されるのですが、そのときには九州南部が大和朝廷に入っているために、経済的な意味では朝鮮が不要になった。ひっくり返すと、九州南部の存在価値は相対的に上がる事になります。

そういう複雑な事情があって、俳人・狗人とおとしめながらも、神話に取り込んで行くことになります。おとしめては居るのですが、この神話で言えば、隼人は皇統なのです。天皇の祖先の兄弟なのです。「血」で言えば悪いものではありません。
●そういうと山幸海幸で隼人が取り上げられているのは、古事記編纂時の政治事情から…という風に聞こえますが、日本書紀で異伝が書かれている以上は、神話自体は古いと思います。
●個人的には九州南部からあらゆる文化が入って来た。その経緯がこの神話に反映されているとも思っています。
前出のサイトの記事。

(以下引用)


地上で初めて作られた稲?
今では出雲で稲作の跡(遺跡)が見られるわけですから、この書で稲作をしていることに、大した意味は無いのかもしれませんが……

アマテラスがオシホミミ、オシホミミからニニギへと伝えられた「稲」が、天孫降臨によって地上にもたらされ、そしておそらくは初めての「稲の収穫」となります。
参考:第九段一書(二)—4齋庭の穂を、我が子オシホミミに

これまでも稲作は登場していますが、それは高天原での稲作であって地上ではこれが初めてです。

ニニギが「笠狭(カササ)の岬」に辿り着いたこと。コノハナサクヤヒメがここで地上初めての稲作を行い、酒を造り、新嘗祭で奉納したことを考えると、日本の稲作の到達点は九州南部だったのだと思います。
●海幸・山幸の物語も九州南部に伝わった物語と思われます。
●これらの九州南部の神話が日本神話の重要な部分に入っているのは、九州南部が大和朝廷に参加するのが遅かったから?という説がよく言われますが、ちょっと辻褄が合わない。
●九州南部は沖縄・台湾・中国南部、そして東南アジアからインド、果ては中東やギリシャ・ヨーロッパまでを繋ぐ非常に大きな海運交易の入り口であり、文化・技術が流入する窓口だったのではないでしょうか?


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