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ヒトラーの絵についてのいくつかの評言だが、ジョン・ガンサーは(よく覚えていないが)ジャーナリストにすぎなかったのではないか。つまり、ヒトラーの絵を語る資格があるのか。その下にある美術評論家(名前を書いていない)の評価のほうがまともだと私は思う。ジョン・ガンサーは、「ヒトラーの絵だ」という偏見の下で最初から見ているという気がする。
ヒトラーの人物画は風景画の一部にあるものしか見ていないが、確かに稚拙である。建築物の絵が実に細密丁寧に描かれているのと対比的だ。だが、人物画が嫌いな画家がいてもべつにいいと思う。私も、部屋に飾るなら人物画ではなく風景画を選ぶ。毎日同じ人物の同じ顔を見て、何が面白いのか。まあ、飽きるという点ではどんな名画でも同じではある。自宅に名画を飾っている人は、毎日同じ絵を見て飽きないのだろうか。買って二、三日は見るが、その後はまったく見ないのではないかwww

「人間に興味が無い」人間のほうが、抽象的な計画にのめり込む傾向がある(当然、その種の思考が得意である)ような気がする。人間を個々人ではなく人種(あるいは集団や組織単位)で考える、というのは「人間の抽象化」だろう。会社経営者や政治家に多そうである。宗教家なども案外そういう思考をしがちなのではないか。下手をしたら、「教育者」を名乗る人間(学校経営者など)にもかなりいる気がする。

(以下引用)

  • 13. 名無しの歴史部員
  • 2020年09月22日 00:34
  • wikiから抜粋したで

    ウィーン美術アカデミー所有のヒトラー作品を鑑賞したジョン・ガンサーは、
    「どれも単調で、リズムも精彩も感情も、物質世界を越える想像力もない。
    ただの建築家のスケッチだ。骨を折りながらも正確な図面を描いている。
    それ以上ではない。ウィーンの教授陣が建築学校にいけ、ファインアートは
    見込みがないから諦めろといったのも不思議はない」と語っている[7]。

    ある現代美術評論家は、ヒトラーの絵を誰が描いたか伏せた状態で批評を求められ、
    「とても素晴らしい」と認めた。一方で、作風は異なるもののやはりヒトラーが
    描いた人物画については、作者が人間にまったく興味が無いことがわかる、
    という評価だった[18]。

    フラテッリ・アリナーリ社の『ヒトラーの水彩画』という題の本によれば、
    その作品には表現主義特有の「陰鬱さ」がある[1]。
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先ほど思いついただけの思想なのだが、ヒロイズムというのはヒロインが存在して初めて成立するものではないだろうか。
たとえば、「未来少年コナン」で、コナンがラナに出会うことが無かったなら、彼は南の孤島で抜群の身体能力を持って生き抜き、生涯を終えるだろうが、それはヒーローだろうか。単に、面白い野蛮人で終わるのではないか。コナンがラナのためにすべてを捧げ、行動するからこそ彼はヒーローなのではないか、というわけだ。
これはべつにフェミニストに媚びているわけではない。ラナのようなヒロインは何億人にひとりしか存在しないからだ。
まあ、要するに、ゲーテの「永遠に女性なるもの、我らを牽きて往かしむ」というのは、物事を斜めに見たがる猪口才な人間が思うより深淵な真理を道破しているのではないかということだ。
まあ、現代では純文学でベストセラーという事例は滅多にないことからも、世間の平均的読解力水準や芸術理解力水準は分かる。世界文学の古典は「大衆文学」でもあったから評判になり、「純文学性」つまり、思想的な高さがあったから古典となったわけだ。DQN的な、趣味の低劣な人間が多い国なら、その国でベストセラーになるのは恥でさえあるだろう。


猪原賽【宇宙戦争 連載中】
@iharadaisuke
「なんでこんなつまらんマンガが売れてるんだろ」違います、あなたがその絵柄/キャラ/ジャンル/話が苦手、趣味に合わないだけで、合う人が多いのです。 「こんなマンガがトップかよ、俺がこの雑誌に持ち込んだら即入賞だな」違います、こんなマンガを好む読者が多い雑誌だからあなたは勝てません。
「in deep」の一節で「レギオン」という言葉が聖書のマルコによる福音書の中に出てくるということに関する記述である。

(以下引用)

先ほどの「マルコによる福音書」は、この映画の中に出てきて、当時聖書など知らない私は、この下りをこの映画ではじめて知ります。映画での場面の説明的に書きますと、以下のように出てきます。

エクソシスト3の場面より説明

老刑事が、悪魔的な殺人事件の現場で、「部分的に焼かれている聖書」を見つける。刑事は「聖書の焼かれている部分」に着目し、その部分を家にある聖書で読み直す。

刑事 「イエスは悪霊の取りついた男の名を聞かれた。その者は答えて言った。レギオン・・・大勢だから・・・」

刑事 「・・・大勢・・・・・」

このように、刑事は、

「大勢」

という言葉を呟くのですけれど、これが意味するところは、

「悪魔の代行者がこの世にはたくさんいる」

という意味でもあるはずで、つまり、

「この世は、悪魔の手先のような存在で満ちている」

と。

では、

「どのような存在が悪魔の手先なのか」

ということについて、エクソシスト3では明確に書かれているのです。それは、

「一般の人間」

なのです。

どんな人間なのかといいますと、その内容が、今のような時代には大っぴらには表現しにくいかと思いますが、

「心の弱い人間たち」

なのです。

エクソシスト3では、途中から精神病院が舞台になりますが、

・精神を病んでいる
・意志が弱い
・良心が弱い

というような人たちは容易に悪魔にコントロールされるというような雰囲気の描写が続きます。


(以上引用)

英和辞書でregionは「地方、範囲、領域」だが、regを語頭に持つ語の中でregiment「連隊、大勢」、あるいはregnant「統治する、優勢の、流行の」などが、「大勢の」のニュアンスを持つ言葉だろうか。
で、レギオンは悪魔そのものではなく、「悪魔に憑(と)りつかれた者」の意味があるかと思うが、ドストエフスキーの「悪霊」も、悪霊そのものを主題とするものではなく、悪霊に憑りつかれた者、つまりレギオンとしてのスタヴローギンを描いたものではないか。そのスタヴローギンは、能力的には何でも為しうる人間でありながら、「精神を病んでいる」「意思が弱い」「良心が弱い」ために、何事もなせず、ただ無力な幼女を犯すという最低の行為しかできなかった人間として描かれる。
神という存在が完全に否定された現代では、無数のレギオンが地上を埋めているかもしれない。

ただし、上で書いた「精神を病んでいる」は、現代科学の定義の上での精神病ではおそらくない、ということを一言しておく。これは理性的に、あるいは道徳的に健全さを失っている意味だろう。現代科学の「精神病」は単に社会的不適合を病気扱いする傾向が強い。これは金儲け至上主義の資本主義の帰結だろう。つまり、コミュ力が第一義である社会から「病気」として排除されるわけだ。昔なら「職人気質」だったものすら今では病気扱いである。
まあ、物書き志望者以外には用の無い豆知識だが、メモしておく。
ヤクザと暴力団は違うと言う意見には、やっていることは同じだ、と答えておく。と言うより、ヤクザは江戸時代(あるいは明治時代)までで、現代ではそれがより悪質化して暴力団になったわけだ。

鈴木智彦/SUZUKI TOMOHIKO
@yonakiishi
「『会長・若頭』って最近はある」と電話かかってきた。説明を聞いて納得し、さっきの言い方だと逃げ道がなく、突っ込みを躱せないので消去、訂正します。ごめん。 でも基本的には「会は会長・理事長」「組は組長・若頭」「一家は総長・若頭か理事長」がパターンです。会で若頭だと、へぇ~ってなる。
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