一番の問題は、なぜ「将軍」という職を無視して北条氏が「執権」職で政治の実権を握ることができたのかだ。単に「北条氏」という名前がそれほど巨大化したということなのだろうか。
もちろん、北条氏が常に善政を敷いてきたことは、知っている人は知っているが、知らない人のほうが多いだろう。
ちなみに、鎌倉幕府滅亡から建武の新政、南北朝の動乱の責任は、一にかかって後醍醐天皇という大馬鹿天皇に責任がある、というのが「尊皇主義者」である私の考えだ。天皇が政治の実権を握ると、それは貴族だけの利益を求める「特権階級保護」政治にしかならないのである。そう考えると、平安時代の藤原氏の専横は、天皇は(政治の実権が無く)単なるお飾りで、まだ天皇の責任は小さい。
鎌倉将軍一覧(かまくらしょうぐんいちらん)では、鎌倉幕府の征夷大将軍の一覧を示す。
一般的には、征夷大将軍の地位は鎌倉殿(鎌倉幕府の長)の地位を公的に担保するもの、と考えられている。
だが征夷大将軍はもとは源頼朝が鎮守府将軍である奥州藤原氏を凌駕する官職として望んだもので、鎌倉殿の本質的属性ではなかった。実際、2代目鎌倉殿となった源頼家が征夷大将軍職に就いたのは家督相続から3年後であり、源実朝の死後に鎌倉殿となった藤原頼経も征夷大将軍職に就いたのは鎌倉下向から7年後であって(鎌倉幕府公式記録「吾妻鏡」では実朝死去後から北条政子が6年間鎌倉殿だったとしている)、その間は征夷大将軍職が空席であったが、「鎌倉殿」であることは変わらず、特に問題とされなかった。
源実朝が暗殺されたあと頼朝の子孫(源氏将軍)が絶え、京都の朝廷に対抗し、有力御家人たちを抑えられるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、初めは摂関家の子弟を将軍職に就けたが(摂家将軍)、北条氏に離反した。このため、北条氏は摂家将軍を廃して皇族(宮将軍・親王将軍)を京都から迎え将軍職に就けた。その結果、実権が北条氏に握られることとなり、将軍は名目的存在となったが、形の上では将軍はあくまでも幕府の長であり、全ての御家人の主君であることから、御家人たちに対して一定の求心力を持ち続けた。これを警戒した北条氏は、幼少の将軍を迎えては成人すると解任して京都に送還するということを幕末まで繰り返した。
北条氏が幕府内では将軍を遥かに凌駕する権力を握り、また朝廷に対して将軍職任命を容易に強要できるだけの実力を持ちながら自らは将軍にならなかったのは、北条氏を支持する御家人たちが北条氏の将軍職就任を推したが、朝廷が拒絶した、とする説が存在する。また、北条氏の出自が伊豆の地方豪族でしかなかったことから、仮に将軍職に就いても有力御家人たちの心服を得ることができないため、将軍職就任を断念せざるを得なかった、とする説も存在する。
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代 | 氏名 | 肖像 | 院号 | 官位 | 在職 | 期間 | 出身家 | 享年 | 墓所 |
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1 | みなもとのよりとも 源頼朝 |
武皇 | 正二位 権大納言 |
6年 6か月 | 河内源氏 | 53 | 大倉法華堂 白旗神社 |
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2 | みなもとのよりいえ 源頼家 |
法華院 | 正二位 左衛門督 |
1年 2か月 | 河内源氏 | 23 | 修禅寺 | ||
3 | みなもとのさねとも 源実朝 |
大慈寺 | 正二位 右大臣 |
15年 4か月 | 河内源氏 | 28 | 寿福寺 白旗神社 |
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4 | ふじわらのよりつね 藤原頼経 |
- | 正二位 権大納言 |
18年 3か月 | 藤原氏 (九条家) |
39 | - | ||
5 | ふじわらのよりつぐ 藤原頼嗣 |
- | 従三位 左近衛中将 |
7年 10か月 | 藤原氏 (九条家) |
18 | - | ||
6 | むねたかしんのう 宗尊親王 |
- | 一品 中務卿 |
14年 3か月 | 皇族 | 33 | - | ||
7 | これやすしんのう 惟康親王 |
- | 正二位 中納言右近衛大将 →二品 |
23年 2か月 | 皇族 | 63 | - | ||
8 | ひさあきらしんのう 久明親王 |
- | 一品 式部卿 |
18年 10か月 | 皇族 | 53 | - | ||
9 | もりくにしんのう 守邦親王 |
- | 二品 | 24年 9か月 | 皇族 | 33 | - |