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「ふろむだ」氏の「分裂勘違い君劇場」の古い記事で、私は流し読みしかしていないが、その要点と思われる部分、つまり「量子」とは何か、という部分だけ転載する。猫が生きようが死のうが、実はたいした問題ではない、というのがふろむだ氏の文章の主眼だと思うからだ。
私は、「量子」概念自体が、物理学者の仮説にすぎないと思っている。で、量子は「日常的な意味で存在していない」としたら、「量子コンピュータ」なるものは、明らかに詐欺だろう。不確定性を本質とする存在を、コンピュータに組み込むとしたら、それは量子とはまったく無関係に「乱数表」的なものを組み込んだだけになると思うからだ。つまり、計算行動の中に偶然性を組み込んだ、「量子コンピュータ」を「量子コンピュータ」と言っている詐欺である。「的」の一語の有無で、その存在が全否定もされるわけだ。それ自体、量子的な話であるwww

(以下引用)

「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由 

実に360人もの人がブックマークしたシュレーディンガーの猫の核心という記事が、なぜピントずれのトンデモ記事なのかを、専門用語を一切使わずに説明してみます。文系の人どころか、中学生にもシュレディンガーの猫の核心がわかるように
説明してみます。*1

量子とは何か

よく、「電子や光は、粒子でも波でもなく、量子なのだ」と言われます。


でも、この量子って、「」なんでしょう?


一般人の生活感覚からすると、量子というのは、あらゆる異質なものの中で、もっとも異質なものです。
どのくらい異質かというと、あまりに異質すぎて、僕たちが日常知っているいかなるものとも、少しも似ているところが無いほどです。
だから、「量子というのは、要するに○○みたいなものだ」ということは出来ません。
だって何にも似ていないんだもの。
量子とは、日常知っている何かに例えて説明することができない「何か」なんです。


いや、もっというと、「何か」ですら無い。
ここが一番のミソなんだけど、量子という名前の「何か」が「存在」するわけじゃないんです。
それは、日常生活的な意味での「存在」ではないんです。

これは哲学でも禅問答でもない

ここで勘違いしないで欲しいのは、これは、哲学なんかじゃないっていうことです。
ものの見方の話をしているわけじゃないんです。
べたべたに現実的で具体的で物質的な話として、量子は日常的な意味で「存在」しないんですよ。


量子は、言うなれば存在の確からしさの濃淡パターンとして広がっているだけなんです。
在り方そのものが、われわれが日常イメージするような「もの」とは、根本的に異なるんです。

それは存在「確率」ではない

ここで言う存在する確からしさというのは、「存在する確率」とは違うものです。「確率」というのは、「サイコロを振って1が出る確率」というように、いつかは、「実際に1が出たかどうか」が確定するもののことです。でも、量子の「存在」は、いつまでたっても、確定しないんです。未来永劫確定することは無いんです。いかなる量子であれ、「量子がある場所にしっかりと存在する」という状態は、宇宙開闢以来一度もなかったし、宇宙が消滅するほどの未来に渡ってそれは有りえない。だからそれは確率ではないんです。量子が存在する確率の高いところが濃くなっていて、存在する確率の低いところが薄くなっているわけではないんです。濃いところは「存在そのもの」が濃いんです。薄いところは、「存在そのもの」が薄いんです。(この存在の確からしさのことを、ここでは、便宜上、存在の蓋然性と呼ぶことにします。)

それは雲ではない

このように、存在蓋然性、すなわち存在する確からしさは、なにものにも例えることができません。中学校の科学の時間に、「電子は原子核の周りを電子の粒が惑星のようにぐるぐる回っているわけではなく、電子雲と呼ばれる雲のようにぼわーっと広がっている」という説明を受けた方もいらっしゃると思います。でも、それは、雲じゃないんですよ。雲というのは、霧のようなもので、水滴が空気中に浮かんでいて、その密度の濃いところと薄いところがあって、濃淡ができている。でも、電子雲は、われわれの目にする雲のように、確かに存在するものである水滴の濃淡によって形成された雲ではないんです。それは、「何か」の濃淡なのではなく、存在の確からしさそのものの濃淡なのです。

この世に「存在」するものなど何もない

そして、その量子によって構成される、石ころも、リンゴも、人間も、道路も、建物も、都市も、海も、山も、地球も、太陽も、日常的な意味で「存在」していません。それらのものは、存在の確からしさの濃淡のパターンが複雑に折り重なっているだけで、何かが「存在」しているわけではない。この意味で、ミクロとかマクロとかに関係なく、この世に「存在」するものなんて無いんです。

「存在」しているという錯覚を引き起こしているのは、極端な「濃さ」

でも、僕はここにこうして確かに存在しているじゃないかって?違うんです。それは、存在蓋然性の濃淡パターンの折り重なりにより、総和としての存在蓋然性が、極限まで「濃く」なっているだけの状態なんです。マクロになるほど、存在蓋然性の濃淡パターンが濃くなっていくから、存在蓋然性が実質的に日常感覚的な「存在」と実質的に変わらなくなってくるだけなんです。程度問題に過ぎないんです。我々が「存在」と感覚的に捕らえているものの正体は、存在蓋然性が極限まで濃くなったものなんです。
(中略)

「量子は粒子なのか」という質問自体がピントずれ

こうして見てみると、「量子は粒子なのか?それとも波なのか?」という質問そのものが、そもそもトンチンカンなわけです。
量子はそもそも、日常的な意味で「存在」していないのだから、粒子という日常的に存在するものに例えることなんて、そもそもできないはずなんです。波というのは、「日常的な意味で存在する何か」が波打たなければなりませんが、量子の世界には、そもそも日常的な意味で存在するものなど無いのです。なのに、日常生活的な何かが波打っているかのような前提で話を進めるから、話がトンデモになるんです。粒子とか波とかいう比喩そのものが通用しないのに、それが通用することを前提に議論をするから、粒子であるはずが、われわれの常識における粒子にはありえない振る舞いをするといって、ミステリーだ、パラドックスだと言って騒ぐことになるんです。でも、粒子でないものを粒子だと決めつけておいて、粒子として振る舞わないから不思議だパラドックスだと騒いでいるのって、単なるアホですよね。ごく普通の人が秋葉原を歩いていたら、いきなり変なおじさんがやってきて、「おまえは秋葉オタクだ。秋葉オタクは非モテでセックスなどしないのだ。なのに、おまえは彼女をつれており、その彼女とセックスをしたみたいな話をしている。ミステリーだ。パラドックスだ。」って言われるようなものです。意味不明ですよ。

量子が粒子であることを証明した実験結果があるのでは?

ただ、こんなことを言うと、「量子は粒として観測されることがある。だから、あるときには、粒として振る舞うと考えてもいいのではないか?」という人がいます。
でも、これが、誤解の始まりなんです。
実際には、「量子が粒として観測されたこと」というのは無いんです。


「ええ?ウソだろう?だって霧箱の中で電子の軌道が観測されたじゃないか!」って?
でも、観測されたのは、霧の形で現れたスジであって、粒としての電子そのものじゃないんですよ。
粒がある軌道を描いて通ったから、そこにスジができたわけじゃないんです。
観測したその瞬間に、量子の存在蓋然性の濃淡パターンの濃い部分が、その霧のスジの「太さ」まで「収縮」しただけなんです。
だから、それは、電子の「粒」が「存在」した証拠でもなんでも無いんです。

一切の「もの」が存在しないだけでなく、一切の「こと」も存在しない

そして、もっと言うと、あらゆる「もの」が存在しないだけでなく、あらゆる「こと」も存在しません。リンゴも人間も、存在蓋然性の濃淡パターンが重なり合っているだけなのと同じように、生きているのか死んでいるのかという状態すら「存在」しないんです。存在蓋然性の濃淡パターンが折り重なっているだけなんです。

シュレ猫のパラドックスは偏見にとらわれた人間の自縄自縛的虚妄

だから、シュレディンガーの猫パラドックスは、そもそも「シュレディンガーの猫が生きている状態の蓋然性の濃さが中くらいの状態」を、日常生活的な「存在」感覚に例えて理解しようとしたことから生じた誤解に過ぎないんです。単にぼくたちの日常生活的な偏見がもたらした錯誤に過ぎないんです。我々の日常生活で目にするものは、すべて、存在蓋然性がものすごく濃いかものすごく薄いものばかりです。つまり、日常生活では、ちょう濃いかちょう薄いかの二値しか、目にすることはありません。でも、それは、たまたま我々がそのサイズの世界に生きているから、それを見たことがないだけで、他のサイズの世界にまでその常識を持ち込むのは、おかしな話です。世界中どこでも英語が話されていて、アメリカの会計基準で組織が運営されていて、資本主義の原則に従って経済活動が行われているのが当たり前だと考えるアメリカ人みたいなもので、自分のところでしか通用しない常識を無理矢理よそに持ち込んで通用させようとするから、はなしがややこしくなるんです。


量子サイズの世界では、われわれの常識世界のように、そんな極端に濃いものや、極端に薄いものばかりじゃないんです。にもかかわらず、真っ黒か真っ白の状態しか思い至らない人間中心的な日常感覚を引きずったままシュレディンガーの猫の生死の状態を論じようとするものだから、「シュレディンガーの猫が生きている状態と死んでいる状態の二つの状態が同時に成立している」とかいう目も当てられないトンチンカンな議論をするはめになるわけです。

白と黒しか見たことがない人が灰色を説明しようとした結果が「重ね合わせ」というトンデモ

そもそも量子力学を解説するときの「重ね合わせ」という言葉使い自体が、あまりにも、我々の日常的な常識に毒されすぎているんです。それは、われわれが日常的に知っているような「状態」が重なったものじゃないんです。状態の蓋然性が極端に濃かったり極端に薄かったりしないだけの、量子サイズの世界ではごくありふれた中間的な濃さの蓋然性だというだけの話なんです。そもそも何も重なったりなんかしてないんですよ。

(後略)

*1:専門用語どころか、シュレディンガーの猫を一般人に説明するときによく用いられる一般的な言葉遣いそのものを避けました。実は、シュレディンガーの猫そのものは簡単な話で、そこには難解さどころか、不思議もパラドックスもないのです。一見、難解さとか不思議とかパラドックスを引き起こしているように錯覚されるのは、単にだめだめな言葉遣いのせいなんです。簡単な話をややこしくしてしまう、一般人に誤解と混乱を引き起こす言葉遣いのせいなんです。たとえば、一般人の理解している「確率」とはぜんぜん別の概念なのに「確率論的に存在する」という表現をするから、彼らは混乱してしまうんです。また、一般人がイメージするような「状態」が重なっているわけではないのに「重ね合わせ」という言葉を使うから彼らは混乱してしまうんです。そもそも何も重なってないのに、重なっているとか言うから、混乱が起こる。だから、これらの言葉遣いを避けるというより、むしろ、それらの言葉遣いを積極的に否定することが、一般人がシュレ猫をスムーズに理解するための鍵だと思い、この文章を書いてみました。

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