私は、思いついたことは何でもこのブログに書く方針なので、読者はほとんど想定していない。したがって、このブログを読んだ人の心情への配慮もほとんどしない。
以下に書くことは、単なる疑念であり、強いて言えば、「人間存在の見えない限界」についての思弁的(哲学的)な、あるいは社会学的な考察であり、考究のために一般人の感情的な部分は排除している。
などと前置きをしたのは、この文章が身体障害者差別と受け取られる可能性があるからだ。
ちなみに私の父は身体障害者援助組織の長を長い間(死ぬまで)ほぼ無給で務めた人間で、私自身も身体障害者への差別意識はほとんど無いと思うし、弱者差別をほとんど生理的に嫌悪する者である。
私は、身体障害者が頭脳や知性において一般人に劣るとは考えない。(ちなみに、「障害者」と書くだけでそれが「身体障害者」と認知されるのは、「障碍」を「障害」と書く以上にはるかに差別的な慣習だと思うし、「障碍」を「障害」と書くのは長い間の慣習によるもので、新たに「障碍」という字を使え、などという押し付けを私は好まない。「碍」という漢字を「障碍」以外に使う機会はほぼゼロだし、そのためだけのためにこの漢字を国民全員に覚えろと強制するのは理不尽だろう。ただし、「障碍」のほうが正当性のある表記だと学者が言うかもしれないが、そんなのは一般国民の知ったことではない。)日常生活での不便を障害者(以下では字数の簡便化のためにこの語を使う。)自身が克服して何不自由なく暮らしている例もあるだろうし、その努力には深い敬意を払う。また、障害者保護の法律も人道的で妥当なものだ。
で、長い前置きになったが、私がここで考えたいのは、「なぜ障害者から大文豪や大芸術家がほとんど出ないのか」ということである。科学ではホーキングという有名人が出たが、それはまれな例外で、科学者の中でも彼以外にはほとんど聞いたことがない。(私はホーキングの科学者としての「業績」の意義を疑っているが、それはここでは論じない。宇宙物理学というもの自体が私には山師的に見えるのであり、ホーキングだけの話でもない。)
なぜ「障害者から大文豪や大芸術家が出ていない」ことを私が問題にするかと言えば、そこに私は「人間存在の見えない限界」が示されているのではないか、と思い浮かんだからである。
「障害者」を「重病人」と置き換えれば、その問題が浮き彫りになるのではないか。重病人でありながら芸術的活動で凄い業績を上げた正岡子規のような例はいくつかあるが、彼らは生来の障害者ではなく、健常者から重病人になったものだ。つまり、人生の前半では健常者として行動し、思索したものだ。その習慣が重病人となっても発揮されたのが、彼らの芸術的活動だったのではないか。
その一方で、生まれつきの障害者で優れた芸術的業績を残した例を私はほとんど知らない。もちろん、よく見る「身障者による絵画展」などは素人芸術でしかない。人類の歴史で、偉大な業績を残した大芸術家はすべて健常者だったのである。(精神異常者的な大芸術家はたくさんいるが、ここでは純粋に肉体だけの点での「健常者」のことだ。)これはなぜなのか。
ひとつには、過去の人類史の中で、身障者は生きるだけで精一杯で芸術に触れる機会もそれに打ち込む余裕も無いのが普通だったから、という理由はあるだろう。では、大金持ちや権力者の家に生まれた身障者は大芸術家になったか。つまり、生活の余裕の有無というのは、この問題の答えにはならないだろう。
この問題がひとつの「疑問」として私の思考の中で浮かび上がったのは、「身障者は行動が不自由な分、精神活動が人生の大半を占めるのではないか。それなのに、なぜ精神方面で人類に大きな業績を残していないのか」という形だった。
その当座の答えとして、私は「身障者であることで、その人間の精神自体に『見えない限界』が生じることがあるのではないか」という解答を出したのだが、これ(精神の見えない限界)はもちろん健常者の大半にもあることだ。しかし、身障者の事例ほど明確な可視化はされないのではないか。
なぜ身障者の場合、芸術方面で偉大な業績を残すことが少ないのか。その決定的な答えを私はまだ持っていない。またいずれ考察するだろう。
以下に書くことは、単なる疑念であり、強いて言えば、「人間存在の見えない限界」についての思弁的(哲学的)な、あるいは社会学的な考察であり、考究のために一般人の感情的な部分は排除している。
などと前置きをしたのは、この文章が身体障害者差別と受け取られる可能性があるからだ。
ちなみに私の父は身体障害者援助組織の長を長い間(死ぬまで)ほぼ無給で務めた人間で、私自身も身体障害者への差別意識はほとんど無いと思うし、弱者差別をほとんど生理的に嫌悪する者である。
私は、身体障害者が頭脳や知性において一般人に劣るとは考えない。(ちなみに、「障害者」と書くだけでそれが「身体障害者」と認知されるのは、「障碍」を「障害」と書く以上にはるかに差別的な慣習だと思うし、「障碍」を「障害」と書くのは長い間の慣習によるもので、新たに「障碍」という字を使え、などという押し付けを私は好まない。「碍」という漢字を「障碍」以外に使う機会はほぼゼロだし、そのためだけのためにこの漢字を国民全員に覚えろと強制するのは理不尽だろう。ただし、「障碍」のほうが正当性のある表記だと学者が言うかもしれないが、そんなのは一般国民の知ったことではない。)日常生活での不便を障害者(以下では字数の簡便化のためにこの語を使う。)自身が克服して何不自由なく暮らしている例もあるだろうし、その努力には深い敬意を払う。また、障害者保護の法律も人道的で妥当なものだ。
で、長い前置きになったが、私がここで考えたいのは、「なぜ障害者から大文豪や大芸術家がほとんど出ないのか」ということである。科学ではホーキングという有名人が出たが、それはまれな例外で、科学者の中でも彼以外にはほとんど聞いたことがない。(私はホーキングの科学者としての「業績」の意義を疑っているが、それはここでは論じない。宇宙物理学というもの自体が私には山師的に見えるのであり、ホーキングだけの話でもない。)
なぜ「障害者から大文豪や大芸術家が出ていない」ことを私が問題にするかと言えば、そこに私は「人間存在の見えない限界」が示されているのではないか、と思い浮かんだからである。
「障害者」を「重病人」と置き換えれば、その問題が浮き彫りになるのではないか。重病人でありながら芸術的活動で凄い業績を上げた正岡子規のような例はいくつかあるが、彼らは生来の障害者ではなく、健常者から重病人になったものだ。つまり、人生の前半では健常者として行動し、思索したものだ。その習慣が重病人となっても発揮されたのが、彼らの芸術的活動だったのではないか。
その一方で、生まれつきの障害者で優れた芸術的業績を残した例を私はほとんど知らない。もちろん、よく見る「身障者による絵画展」などは素人芸術でしかない。人類の歴史で、偉大な業績を残した大芸術家はすべて健常者だったのである。(精神異常者的な大芸術家はたくさんいるが、ここでは純粋に肉体だけの点での「健常者」のことだ。)これはなぜなのか。
ひとつには、過去の人類史の中で、身障者は生きるだけで精一杯で芸術に触れる機会もそれに打ち込む余裕も無いのが普通だったから、という理由はあるだろう。では、大金持ちや権力者の家に生まれた身障者は大芸術家になったか。つまり、生活の余裕の有無というのは、この問題の答えにはならないだろう。
この問題がひとつの「疑問」として私の思考の中で浮かび上がったのは、「身障者は行動が不自由な分、精神活動が人生の大半を占めるのではないか。それなのに、なぜ精神方面で人類に大きな業績を残していないのか」という形だった。
その当座の答えとして、私は「身障者であることで、その人間の精神自体に『見えない限界』が生じることがあるのではないか」という解答を出したのだが、これ(精神の見えない限界)はもちろん健常者の大半にもあることだ。しかし、身障者の事例ほど明確な可視化はされないのではないか。
なぜ身障者の場合、芸術方面で偉大な業績を残すことが少ないのか。その決定的な答えを私はまだ持っていない。またいずれ考察するだろう。
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