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某漫画家がリツィートしていたものだが、それはこのツィートに同意しているということだろう。頭が非論理的である。あるいは、言語理解能力が欠如している。

「闘う者は倒れる」とは、「だから戦うべきではない。(合意の道を探るべきである)」と解するのが普通の理解だろう。
それが、なぜ「だから、あきらめるな(戦い続けろ)」という理解になるのか。


(以下引用)


アフリカのことわざ
@africakotowaza
「闘う者は倒れる」 ウォロフ人(セネガル。砂野 amzn.to/2QXAawj ) ※そういうものだから、あきらめるな
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「櫻井ジャーナル」から転載。
「陰謀論」という言い方でこの手の言説を無視する馬鹿が非常に多いのだが、近現代史を少しでも知っている者なら、陰謀こそが歴史の主役である、という考えになるはずで、しかもここに書かれていることはすべて事実である。それを「陰謀論」として無視する人間は、まあ、たいていは社会的にある程度の地位にあって、社会の「陰謀」が暴露されたらその地位を失う可能性があるわけだろう。

(以下引用)


カテゴリ:カテゴリ未分類

 西側ではロシアの「民主派」として宣伝されているアレクセイ・ナワリヌイがロシアへ戻り、拘束されたが、​ナワリヌイの側近がイギリスの外交官と接触、不安定化工作について話し合う様子が撮影され、それをロシアのメディアが放送​した。相手のイギリス人はMI6(イギリスの情報機関)の人間だと見られている。

 ナワリヌイはエール大学の奨学生となり、同大学で学んでいるが、その手配をしたのはマイケル・マクフォール。バラク・オバマが大統領だった2010年8月、ムスリム同胞団を使って中東から北アフリカにかけての地域でアメリカ支配層にとって目障りな体制を転覆させるためにPSD-11を承認したが、その計画を作成したチームのひとりがマクフォール。

 この人物は2012年1月に大使としてモスクワへ着任するが、​その3日後にロシアの反プーチン派NGOの幹部が挨拶に出向いている​。その年の2月にはロシアで大統領選挙が予定されていて、その選挙に対する工作を指揮することがマクフォールの任務だったと考えられている。

 NGOの中には「戦略31」のボリス・ネムツォフとイーブゲニヤ・チリコーワ、「モスクワ・ヘルシンキ・グループ」のレフ・ポノマレフ、選挙監視グループ「GOLOS」のリリヤ・シバノーワらがいた。

 戦略31はNEDから、モスクワ・ヘルシンキ・グループはNEDのほかフォード財団、国際的な投機家であるジョージ・ソロス系のオープン・ソサエティ、そしてUSAIDから、GOLOSもやはりNEDから資金を得ている。

 CIAには秘密工作を実行するための資金を流す仕組みが存在する。定番のルートがNED(国家民主主義基金)やUSAID(米国国際開発庁)だ。NEDは1983年にアメリカ議会が承認した「民主主義のための国家基金法」に基づいて創設された組織で、政府から受け取った公的な資金をNDI(国家民主国際問題研究所)、IRI(国際共和研究所)、CIPE(国際私企業センター)、国際労働連帯アメリカン・センターへ流しているのだが、そうした資金がどのように使われたかは議会へ報告されていない。CIAの活動内容を明らかにすることはできないからだ。USAIDもクーデターや破壊活動などCIAの秘密工作で名前が出てくる。

 アメリカの私的権力は1991年12月のソ連消滅で自分たちの国が唯一の超大国になったと考え、他国に配慮することなく侵略戦争を行い、世界を制覇できると考えた。そして作成されたのがウォルフォウィッツ・ドクトリンだが、そのプランは21世紀に入って大きく揺らぐ。ウラジミル・プーチンを中心とする勢力がロシアを曲がりなりにも再独立させることに成功したのだ。

 ロシアでナワリヌイは支持されていないが、西側ではロシアに対する攻撃を正当化するために利用されている。大多数のロシア人には相手にされない戯言でも西側では信じる人が少なくないだろう。

 イギリスのロシアに対する工作は遅くとも20世紀の初頭から行われている。例えばイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を中心とするMI6のチームをロシアへ送り込んでいる。その中にステファン・アリーとオズワルド・レイナーが含まれていた。

 アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家の家庭教師で、アリー自身はモスクワにあったユスポフの屋敷で生まれている。レイナーはオックスフォード大学時代からフェリックス・ユスポフの親友。イギリスはロシアをドイツとの戦争に引きずり込もうとしていた。

 ロシアの産業資本やユスポフは戦争に賛成していたが、皇后やグレゴリー・ラスプーチンという修道士は戦争に反対、ラスプーチンはイギリスにとって邪魔な存在だ。ラスプーチンの背後には大地主がいた。

 そうした対立の中、皇后は1916年7月13日にラスプーチンへ電報を打つが、それを受け取った直後にラスプーチンは見知らぬ女性に腹部を刺されて入院。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。

 そして1916年12月16日、ラスプーチンは暗殺される。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれていた。最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫き、2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発明は前頭部に命中し、これで即死したと見られている。暗殺に使用された銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだ。

 暗殺したのはユスポフを中心とする貴族グループだとされているが、このグループはMI6のチームと接触していた。イギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。またユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 ロシアでは1917年3月に二月革命があり、大地主は権力の座から陥落して産業資本家を後ろ盾とする臨時革命政府が成立した。この政府は戦争を継続、ドイツは両面作戦を続けなければならなかった。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたボルシェビキだ。

 二月革命に際、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか、刑務所に入れられていて、例えば、レーニンはスイスにいた。そうしたボルシェビキの幹部32名をドイツは「封印列車」でロシアへ運んだ。レーニンが帰国したのは1917年4月。その後、紆余曲折を経て11月の十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止める。

 しかし、ドイツ軍は迅速に部隊を西側へ移動させられなかったことから1918年11月には敗北する。その3カ月前にイギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはロシア(ソ連)に軍隊を派遣して干渉戦争を始めた。

 そうした経緯があるため、その後もドイツとソ連との関係は悪くなかった。ボルシェビキと米英の金融資本を強引に結びつけようとする人びとがいるが、それよりはるかに強くユニポフを中心とするロシア貴族やケレンスキーの臨時革命政府は結びついていた。この結びつきを現在の西側を支配している勢力は秘密にしたがっている。

 ソ連とドイツとの関係を破壊したのはアドルフ・ヒトラーだ。第2次世界大戦でドイツ軍はソ連へ攻め込むが、スターリングラードでの戦闘で大敗、その直後からウォール街の大物、つまりアレン・ダレスたちとナチスの幹部は接触を始め、善後策を協議している。

 アレン・ダレスが君臨していたCIAが世界各地で買収、恫喝、暗殺、クーデターを含む秘密工作を展開してきたことは広く知られている。ダレスが死んだ後も変化はなく、秘密工作の一端は1970年代にアメリカ議会でも明らかにされた。今でもロシアや中国は勿論、中東、東南アジア、東アジア、ラテン・アメリカ、アフリカなど全世界が活動の舞台だ。

 CIAは第2次世界大戦中に活動していたOSS(戦略事務局)の後継機関として設立された。OSSは1942年6月にウォール街の弁護士だったウィリアム・ドノバンを長官として創設されたが、そのモデルはイギリスの機関だった。特殊工作はSOE(特殊作戦執行部)、通常の情報活動はMI6に基づいて組織されている。

 ドノバンは巨大化学会社デュポンの顧問弁護士を務めていたが、その時の同僚弁護士のひとりがアレン・ダレス。この関係でドノバンはダレスををOSSへ誘い、特殊工作を担当するSOを指揮させた。それ以降、ダレスはアメリカにおける秘密工作のトップとして君臨する。この時からアメリカの情報機関は金融資本と緊密な関係を維持している。

 SOEは1940年にイギリスの首相だったウィンストン・チャーチルの命令で創設され、初代長官は保守党の政治家だったフランク・ネルソンが選ばれた。1942年に長官はチャールズ・ハンブローに交代するが、この人物はハンブロー銀行の人間だ。チャーチルは親の代からロスチャイルド家と緊密な関係にあるが、ハンブローとも親しかった。

 大戦後、OSSは廃止される。アメリカでは平和時に情報機関を持つべきでないとする意見があったが、情報の収集と分析だけにするという条件で1947年7月にポール・ニッツェの執筆した国家安全保障法が発効、9月にCIAは創設された。

 大戦中の1944年、イギリスのSOEとアメリカのSOは西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたレジスタンスに対抗するため、ジェドバラというゲリラ戦の部隊を編成する。レジスタンスの主力はコミュニストだったからである。後にベトナム戦争で住民皆殺し作戦のフェニックス・プログラムを指揮、CIA長官にもなったウィリアム・コルビーもジェドバラに所属していた。

 大戦後にジェドバラも廃止されるが、メンバーの一部は軍の特殊部隊へ流れるが、破壊活動を目的して秘密裏に組織されたOPCの幹部にもなる。この機関は1950年10月にCIAと合体、その翌年の1月にアレン・ダレスが秘密工作を統括する副長官としてCIAへ乗り込んだ。OPCが核になって1952年に作られたのが計画局である。

 この部署はCIAの「組織内組織」になり、今ではCIAを乗っ取ったような形。さらに国務省など政府内に触手を張り巡らせ、政府の外部にも「民間CIA」のネットワークが存在するが、その頭脳は今でもウォール街にあるはずだ。







私は「ベルセルク」に出てくるような大剣が大嫌いなのだが、あれだけの大きさの鉄だと重量的に操作性が非常に低下するのは理の当然だと思う。
下のツィートに出てくる動画(GIF)だと大剣(実質的にはロングソード程度だろう。)をバトントワリングみたいにグルグル回す、つまり遠心力を利用して剣の動きを維持する操作を行っているが、そんな動作は実際の闘いでは簡単に隙ができるだろう。剣が後ろに回り始めた瞬間に切り込まれたら、その回り始めた自分の剣の動きを止めることも不可能なはずだ。つまり、無抵抗に斬られることになる。
西洋のRPG的作品での大剣を使った殺陣というのは、そういう不合理性がある。花相撲みたいなものだ。
ローマ兵の主武器は(集団での激突時の槍のほかは)ほとんど短刀に近い長さの小刀だったことの意味を誰も分かっていないから、馬鹿げた大剣がRPGやその種の洋画に溢れるのである。
なお、一軍の大将が部下への威厳を示し、敵を威嚇するなどのために大剣を所持することはあったかと思う。



Flagalac
@Clarento
「大剣は重量で叩き切る武器」という説はよく耳にしたが(そういえばロングソードも同じような話が...) ... まぁ、確かにロングソードなどと比べると重さはあるが、それはあくまで比較の話 なぜか分厚く重い鉄の棒のような存在と勘違いしてしまった人は多いらしい



山岸凉子の「汐の声」という題名の作品だったと思うが、子役俳優の「使用期限」を延ばすために事務所だか母親だかがその子役に成長抑止剤を飲ませて、その少女は子供の身長のまま老婆になる、という話があったが、それに近いことを芸能界というのは平気でやるようだ。芸能人の麻薬使用癖も案外事務所がその芸能人の弱みを握っていいようにコントロールするために意図的にその誘惑にさらしているのではないか。


きたがわ翔
@kitagawa_sho
なんでも鑑定団を見ていたらフィンガー5のアキラがお宝持って登場。その際彼らのヒストリーで、アキラの声変わりを恐れた事務所が女性ホルモンを打とうとして拒否した、とか凄いことサラッと言っててアワアワとなった(;´Д`)
単なるメモである。
私は中核派と革マル派の違いがまったく分からない。どちらも暴力革命を肯定する過激派マルキストであると思うのだが、それがお互い不倶戴天の敵のように憎み合い、果ては殺害にまで至る、その思考経路が理解できないのである。「内ゲバ」ほど時の権力にとって都合のよいものはないだろうになぜ彼らは同士討ちをあれほどつづけたのか。いわゆる「内ゲバの論理」というのもあるのだろうが、はたして内ゲバが本当に論理で納得できるように説明できるだろうか。
と同時に、なぜマルキシズムだけが社会主義の本道であるかのように考えられているのかも理解できない。なぜフェビアン協会のような穏健な社会主義運動が世界の主流にならなかったのか。

(追記)ヤフー知恵袋から転載。日本共産党の「議会を通じての民主的革命」路線に不満な過激グループが共産党を脱退して、さらに内部分裂(権力抗争か?)で中核派と革マル派に分かれただけで、政治思想として中核派と革マル派に根本的な、あるいは明確な違いは無いようだ。下の回答を見ても、どちらも「労働者の組織化」を行い、そして最終段階では「暴力を用いる」点でも同じである。

2020/8/18 19:50(編集あり)




(以下引用)



 
 
中核派議長、会見の真意 若手と距離感、組織引き締め躍起© 産経新聞社 中核派議長、会見の真意 若手と距離感、組織引き締め躍起

 暴力革命を掲げて数多くのテロやゲリラ事件を起こした過激派「中核派」最高幹部で昨年、51年ぶりに公に姿を見せた清水丈夫(たけお)議長(83)が27日、東京都内で会見した。昭和46年に警察官が殺害された「渋谷暴動」をめぐり、中核派の組織的関与を認める一方、「殺害は許容していない」と強調。「革命闘争の中で、犠牲は仕方がない」と過激な活動を正当化した。

 スーツ姿で現れた清水議長は直前にマスクを外し、あいさつ。時折、笑顔を見せながら、質疑応答に応じた。昨年9月、都内の集会で登壇し、昭和44年の潜伏開始から半世紀ぶりに公然活動を再開した理由について「資本主義をぶっ倒すため、自分の経験も含め全力で訴えようということで踏み切った」と説明。潜伏中の具体的な行動は語らなかったが、「多くの人の援助があり、非常にしっかりとした生活ができた」と振り返った。

 昭和46年、沖縄返還協定反対闘争で中核派などが東京・渋谷の派出所を襲撃、警察官が殺害された渋谷暴動をめぐっては、反対闘争の取り組みを組織的に主導したことを認めたが、人命が失われたことについては「どうしても必要な闘争だった。仕方がない」との見解を示した。

 議長職からの離任も取り沙汰されるが「今後、党が理性的に決めるだろう」と明言を避けた。また、革命の実現性を問われると、「できれば、自分が存命のうちにしたい」と語った。

 暴力革命を掲げて数多くのテロやゲリラ事件を起こした過激派「中核派」最高幹部で昨年9月に半世紀ぶりに表舞台に姿を見せた清水丈夫議長。27日に東京都内で開かれた会見では、過去にゲリラやテロ行為などの非公然活動を繰り返してきた闘争路線を正当化したが、現在の中核派は、かつての過激な活動はなりをひそめ、SNSなどを活用した「ソフト路線」で支持獲得をもくろむ。唐突な感が否めない議長会見は、なぜ開かれたのか。

 清水議長は現在、東京都江戸川区の中核派の拠点「前進社」に居住。若手とも交流を図っているというが、関係者は「歩んだ時代が違うメンバーとは微妙な距離感がある」と話す。

 昭和30年代、全日本学生自治会総連合(全学連)の書記長として学生運動を主導した清水議長は中核派でも中心人物となり警察当局の摘発強化で潜伏を開始。50年、本多延嘉書記長が対立する過激派、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)に殺害されると最高指導者の地位を継承したとされる。

 中核派は、警察官が殺害された46年の渋谷暴動に関与。平成2年には、即位の礼に合わせ、都内約30カ所に迫撃弾を撃ち込むなど全国で124件のゲリラ事件を起こした。対立する過激派との「内ゲバ」では、多数の活動家が死傷した。

 過激な闘争は徹底的な取り締まりを受け、世論の支持を失い組織も縮小。近年は労働運動や差別問題などをテーマに幅広い層に訴える活動に転換した。若手メンバーがデザイン技術を使った動画をSNSで配信するなど支持拡大に躍起だ。

 ただ活動家獲得の成果は乏しく、新型コロナウイルスの感染拡大もあり、警察関係者は「打開策が見えず執行部への不満は根強い」と分析する。活動方針をめぐり党中央執行部と地方組織が対立して執行部が解任に追い込まれたといい、清水議長が組織引き締めのため、表舞台に改めて姿を見せたとの指摘がある。

 公安関係者は、清水議長と同世代の支持は得られたが、若い世代は批判的だとし、「現在も賛否は分かれており、執行部の厳しい立場は続くのではないか」と話した。

 ■中核派 正式名称は革命的共産主義者同盟全国委員会。昭和32年、過激な武装闘争路線から転換した日本共産党を離脱した急進的学生らのグループが源流。安保闘争や反天皇制をはじめ過激な闘争で知られ、46年、東京・渋谷の派出所を火炎瓶などで襲撃した渋谷暴動で新潟県警の警察官を殺害。平成29年には同事件で長年、指名手配されていた活動家、大坂正明被告(71)が逮捕された。



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