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ここのところずっと「涼宮ハルヒ」シリーズを読み続けていたが、「驚愕(前後編)」で一応終わりのようだ。と言うか、その後は出ていないのではないか。
「驚愕」の後書きに書いてあったが、その執筆段階からかなりスランプ状態だったようだ。
で、「驚愕」の内容も、かなり無理に書いた印象がある。話の中心の出来事がかなり意味不明で、説明も曖昧である。まあ、未来人の藤原が時間改変をしようと企んで、そのためにハルヒの殺害を企図した、みたいな印象だ。問題は、そこにハルヒ自身がほとんど出て来ないことで、結局キョンが完全に主役である。世界を変え得る神にも等しいハルヒの能力が他者によって奪えるとか、ハルヒ自身を簡単に殺せるというのが実に理不尽な印象だ。
まあ、「自分が神であることに無意識な神」というのが「涼宮ハルヒ」物語の最大のキモではあるが、ハルヒを害する計画を立てている連中が、なぜハルヒ自身と接触せずキョンとしつこく交渉したり脅したりするのかが分からない。その説明がほとんど無いのである。明確に、ハルヒの無意識を動かす最大要因がキョンであるから、と説明すればいいのだろうが、そうすると、「キョンの一人語り」という設定ではやりにくかったのだろうか。
まあ、いずれにしても、ハルヒシリーズの中では一番、出来が悪い。個々のキャラの性格もほとんど活かされていないし、国木田など、キャラ自体が「違う」印象だ。ここまで自己言及するキャラではなかったと思う。谷口と九曜がかつて付き合っていた、という設定もあまり生きていない。何より、SOS団のメンバー、特に長門有希がほとんど活躍しない。だから、キョンが駄弁を延々と垂れ流すだけになっている。
まあ、作者自身が、飽きたのだろう。
要するに、同一人物たちの並行世界をふたつに分けて描写して、最後に統一するという「仕掛け」だけが先行して、肝心の「物語」がいい加減になった印象だ。
ついでに言えば、「驚愕」の中でハルヒが驚愕する場面はほとんど無い。驚愕するのはキョンだけだ。むしろ、前作の「分裂」をこちらの作品の題名としたほうが内容には合っている。

以上、ケチばかりつけたが、このシリーズが、ライトノベルの金字塔であるのは疑いがない。大いに楽しく読ませてもらった。



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「silverfish files」という読書感想ブログの記事の一部で、ディッケンズの「大いなる遺産」のラストの一文の解釈だが、翻訳者の訳もブログ筆者の訳も間違いだと思う。
私の解釈(訳)は

「(彼女の別れ方には)それ以外の別れ方もあるという陰影は見えなかった」

である。partingを「別れ」とせず「別れ方」と考えれば簡単である。なお、この記述の後で、ディッケンズが原作を出版した時の初版の最後のシーンが書かれているが、それがまさしく私の上記の内容なのである。つまり、第二版以降に曖昧な表現に改悪したのだろう。


(以下引用)

そして物語のラストシーン。40近くなったピップとエステラは、ミス・ハヴィサム邸の廃墟で偶然再会する。二人ともさんざん辛苦をなめた後である。エステラにもかつてのとげとげしさはないが、毒気と一緒にバイタリティまで抜けてしまっている。ピップに対し「離れ離れになってもいつまでも友達でいましょう」なんて言う。もう別れる気があからさまである。だがエステラへの想いが捨て切れてないピップには、「再びエステラと別れるという陰影は少しも見あたらなかった」。
 これがこの長編の最後の文章。なんだかわかったようなわからないような文章だが、原文は、"I saw no shadow of another parting from her."。つまり、「またエステラと別れることになるとは、全然思えなかった」という意味だろう。だが、それはあくまでピップがそう感じているにすぎないのだ。
谷川流の涼宮ハルヒシリーズは、アニメを見たのが1,2年前で、原作小説を古本屋で買って読み始めて1年くらいかと思うが、もちろん全作品は揃っていない。それどころか、同じ作品を何度も買っているのは、その作品タイトルが記憶できないためである。まあ「消失」だけは記憶できるが、それ以外は無理だ。従って、作品内容もほとんど覚えていない。ひどい場合は、同じ作品を半分くらい読んでから「あっ、これは前に読んだやつだ」と気づいたりする。
まあ、同じ作品を何度も楽しめるとも言えるから、ボケも悪いばかりではない。
で、「憤慨」の中に出て来る、キョンの書いた「恋愛小説」には、2度目も騙されてしまったのである。つまり、最初に読んだ時もあまり真面目に読んでいなかったので、これがいかにトリッキーな推理小説であるかが分からなかったわけだ。「恋愛小説」だという前提で読んだので、そうとしか思えず、その「推理小説」性を忘れていたので、二度も騙されたのである。
要するに、我々は「与えられた前提で思考する」ことが完全に習慣化しているために、実に騙されやすい存在になっているということだ。この場合は「恋愛小説」として提出されたら、そういう目でしかその作品を読まなくなるのである。これは人間性への鋭い問題提起だろう。
ちなみに、このキョンの小説のトリックは、日本の推理小説の傑作のひとつとされている(かどうかは知らないが、その年度の代表作だと思う。)「葉桜の季節に君を想うこと」と同じである。あの作品は、作中の事件自体よりも、作中で最後まで隠された「ある事実」によって読者をあっと言わせたのだが、キョンのこの「恋愛小説」がまさにそれと同じであり、ある意味では、これが推理小説の基本かもしれないと思う。つまり、「作者が『肝心の事実』を隠して話を進めれば、ミステリーになる」ということだ。
これを「叙述トリック」と分類してもいいが、推理小説全体がそうだと言ってもいいと思う。
「いつか電池が切れるまで」に引用された小田嶋隆の文章である。
作家が老齢化して創作能力を失う原因のひとつが、「書く習慣を失う」ことかもしれない。高橋留美子のように、漫画を描くのが一番楽しい、という人は年を取っても創作能力は失われないようだ。
素人でも、下手な作品しか書けないことは分かっていても、書くことを続ければ、「創作能力」自体が向上するのではないか。なまじ、自分で自分の作品を批判的に見る習慣があると、書くのがいやになるだろう。


(以下引用)

 アイディアの場合は、もっと極端だ。
 ネタは、出し続けることで生まれる。
 ウソだと思うかもしれないが、これは本当だ。
 三ヵ月何も書かずにいると、さぞや書くことがたまっているはずだ、と、そう思う人もあるだろうが、そんなことはない。
 三ヵ月間、何も書かずにいたら、おそらくアタマが空っぽになって、再起動が困難になる。


 つまり、たくさんアイディアを出すと、アイディアの在庫が減ると思うのは素人で、実のところ、ひとつのアイディアを思いついてそれを原稿の形にする過程の中で、むしろ新しいアイディアの三つや四つは出てくるものなのだ。
 ネタは、何もせずに寝転がっているときに、天啓のようにひらめくものではない。歩いているときに唐突に訪れるものでもない。多くの場合、書くためのアイディアは、書いている最中に生まれてくる。というよりも、実態としては、アイディアAを書き起こしているときに、派生的にアイディアA’が枝分かれしてくる。だから、原稿を書けば書くほど、持ちネタは増えるものなのである。

最初からの意味の「テンから」の「てん」はどういう漢字を当てるのか、下のツィートを見て疑問に思ったのだが、所有している国語辞典には載っていない。方言か隠語だろうか。後で調べてみる。

〘副〙
① 「天から」すなわち、最初からので、迷うまでもないという気持をこめて用いる語。はじめっから。あたまから。
滑稽本・八笑人(1820‐49)二上「なんでも最初(テン)から立って、押合って見るが一チばん早イヨ」
② 打消表現を伴って、まったく、そのようであることを強めていうのに用いる語。てんで。まるっきり。てんきり
歌舞伎彩入御伽草(おつま八郎兵衛)(1808)序幕「女が不承知なら、てんから出来ねえ仕事だわな」

(以下引用)

ファインマンbot
@feynmannnn
僕は科学者だから自分のやっている事を必ず説明できるものといつも考えていたのだ。だから「これはいい」「あれはだめだ」と言いながら、その判断の理由は説明できないような芸術家の言う事など、天から信じていなかった。ところがどうだ。僕自身その通りのことをやっているではないか!
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