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少し前に「ワールドトリガー」を、そして最近「進撃の巨人」のアニメをそれぞれ見たが、話の整合性では前者、話の壮大さと迫力では後者が勝っているかな、という感じで、前者は宇宙規模の話の割には、個々のエピソードは小さなスケールのバトルだけである。しかも、「演習」「訓練」みたいなものが多く、切迫感が無い。後者は、話の細部は滅茶苦茶だが、スケールは大きい。何しろ、「殺し合い」ばかりだから、切迫感もある。しかし、キャラに魅力がまったく無いどころか、主人公のエレンときたら、史上最低のキャラだろう。
で、何が言いたいかというと、「魅力的なキャラを作れれば、話は自然と生まれてくる」という考え方の創作法もある、ということだ。この創作法のポイントは「話の整合性はある程度誤魔化せる」ということだと思う。キャラが読者や視聴者の頬をゆるませるかぎり、些細な欠点は見逃されるということだ。これは、幼児や小児や愛玩動物を見る大人の気持ちを考えれば理解できるかと思う。高橋留美子の「うる星やつら」は、無数のキャラを出し、それらを動かすことで大長編を作ったわけで、個々の話は毎度毎度同じようなものだったわけだ。「めぞん一刻」にしても、話の大筋は一本、つまり主人公とヒロインの恋物語で、それはいろいろ変化するが、一刻館の住人のドタバタ騒ぎはほとんどがワンパターンである。つまり、同じキャラが、毎度似たような行動を取って騒動が起こるわけだ。
久米田康治が書いていたが、「絶望先生」でたくさんのキャラを出してしまったことを激しく後悔しているそうだ。つまり、それぞれのキャラで別作品が幾つも描けたはずだ、ということである。逆に言えば、キャラを作ることは容易な作業ではない、ということだ。
高橋留美子にしても、犬夜叉と男らんまはほぼ同じ性格のキャラである。時代と外貌が違うが、キャラの中身は同じなのである。あだち充の主人公にしても、男はほぼ同じキャラで、ヒロインは2種類くらいだろう。つまり、作者自身の好みに合わないキャラは描いていても楽しくないからだと思う。この辺は、推理小説作家とはだいぶ違うようだ。推理小説は、パズルがメインで、キャラはただの「道具」であることが多い。だから、人物が簡単に殺される。主人公の探偵にしても、「解決篇の説明をするための道具」と言っていい。「金田一少年の事件簿」など、主人公は魅力ゼロである。

私が好きなキャラを挙げておく。

1「トム・ジョーンズ」のトム・ジョーンズ
2「高慢と偏見」のミスタ・ダーシー
3シャーロック・ホームズ
4「レ・ミゼラブル」のジャン・ヴァルジャン
5あだち充作品の男主人公やヒロイン
6「風と共に去りぬ」のレット・バトラー
7「ピグマリオン」のヒギンズ教授
8映画「西部の男」の主人公(ゲーリー・クーパー)
9「ローマの休日」「マイ・フェア・レディ」のヒロイン(ヘップバーン)
10「第三の男」のハリー・ライム

これらのキャラの特徴や共通性を考えると、悪役のハリー・ライムやヒロインキャラは別として、主人公は基本的に

「善良である」「正直である」「勇気がある」「知性が高い(物事のポイントを見抜く洞察力がある)」「ユーモア感覚がある」「身体能力が高い」「悪に対抗する力がある」「抜けたところがある」「騎士道精神がある」

などの条件を持っているようだ。この中のひとつかふたつだけでも、主人公キャラになれる。たとえば、「ワールド・トリガー」の主人公は「善良である」「知性が高い」のふたつと、後は「騎士道精神がある」かもしれない、というだけの弱キャラだが、それでも主人公の資格はある。
で、少年漫画だと「身体能力が高い」だけでも主人公になることがあるが、読者の好感は得られないだろう。天才的運動能力があるだけの嫌みな主人公というのはうんざりするほどいるのである。低レベルの漫画家や原作作家は、天才というだけで子供が憧れると安易に考えているのだろう。実際、そういう馬鹿な子供も一定数いるとは思う。

(追記)昔の記事の一部を再掲載。


二次創作は初心者が創作する入り口としては非常に優れた手法だと思う。
と言うのは、小説や漫画を書く初心者が苦しむのは「キャラクター作り」であるからで、話自体は松本清張が言うように「人物が3人いれば話はできる」からである。つまり、キャラクター同士の干渉によって話が動いていく。だが、面白いキャラクターを創造するのは難しい。どうしても類型的キャラクターしか想像できないのが初心者の常なのである。だから、「二次創作」が有効なのである。
「話」を作ること自体がさほど大変でないことは、「なろう小説」の話がほとんど異世界冒険物であることから分かるだろう。これは、キャラではなく、RPGの「お約束」を借りた二次創作的な作法だからだ。



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どうでもいいことだが、稀に見る、下手な比喩だと思うので、載せておく。
何の比喩かは、少し空白を挟んで載せる。

(以下引用)

 わかりにくい話ですね。もう少し分かりやすい喩えを使ってみます。
「虎の威を借る狐」ということわざがあります。虎の実力を背景にして、空威張りしている狐のことです。この狐は虎が居丈高に命令を下したり、異論を一喝して退けたりする真似はたいへん上手に再現できます。でも、虎に代わって「対話」や「交渉」をすることはできない。絶対にできません。仮に虎に対して「ちょっとだけの間、縞模様を茶色の無地に換えて頂けますか?」とか「いま目の前に兎が歩いてきますけど、今回だけ食べずに我慢してもらえますか?」とかいうオッファーがあったときに、虎であれば採否を即断できます(「茶色の無地の方がダートで狩りをするとき便利かも」とか「兎って、小骨が多くて食いにくいんだよな」とかいう虎固有の判断基準に照らして)。でも、「虎の威を借る狐」にはこの採否の判断ができない。というのは、「虎の虎性を形成している本質的条件は何か」が狐にはわからないからです。虎は自分のことですから、「虎とは何であるか」を知っています。自分が自分自身であるためには、何が必要であるかを知っている。絶対に譲ることのできない「虎の本質」とは何かを知っている。縞模様は別に虎の本質ではない(毛が生え替わることだってありますから)、腹一杯のときには獲物がそばを通っても見向きもしない。それでもいささかも虎の虎性は揺るがない。でも、狐にはそれがわからない。偉そうに吠えている虎の真似はできるけれど、「譲る虎」や「折れる虎」の真似はできない。
 













人間の場合も同じです。

 ある人が自分のオリジナルな知見を語っているのか、誰かの請け売りをしているのかは、実際には簡単に判別できます。「偉そうに、断定的に、定型的な言葉づかいで、同じことを何度も言うやつ」はおおかた誰かの請け売りをしていると判じて過ちません。自分の頭で考え、自分の言葉で語る人、独立独行の人は、そうはなりません。

(引用終わり)

下手な比喩だというより、説明が長すぎるし余計なことをダラダラ書いているので論旨がつかみにくいわけだ。
誰の文章かというと、内田樹である。
彼は論理的に書くことは上手いが、名文家ではない。その論理性というのは、官僚的な、「他人から批判されたりしないように、ミス無く念入りに書く」ことが主眼だから、どうしてもダラダラと長い文章になるのである。


必ずしも同感はしないが、参考にはなる。


漫画原作者の新人作家(投稿者)の才能を見分ける三つのポイント。新人さん限定だし原作者限定ですよ。1)得意分野を持っている。その方がとんでもなく詳しそうなジャンルを持っていることです。それを調べるノウハウを持っているだけでもいい。料理、お酒、ミステリ(トリック)、野球、海上保安、

  2012-10-22 22:21:51
班ちょ@新人漫画賞「GATE」班長 @betsumaga

ギャンブル、その他なんでも。この人はここの知識や含蓄が凄いな、と感じさせるものがあればOKです。世の原作作品もそういう「得意分野」に当てはまるものが多いですよね。でも、新人作家(投稿者)は意外とざっくりとした特徴の薄い作品で投稿される方も多いので気をつけてもいいと思います。

  2012-10-22 22:25:22
班ちょ@新人漫画賞「GATE」班長 @betsumaga

得意分野のある原作は、漫画家さんも思わず描きたいと思うケースが多いと思います。2)はっとさせるセリフが描けるかどうか。印象的なセリフ。かっこいいセリフ。通常の脳みそでは生み出せないようなセリフ。そういうものを出せれば、原作者としての価値は高まると思います。

前に書いてからかなり長い間、時間が経っているので、前に書いた部分を忘れそうだが、まあ、どうせ真面目に読むほどの作品ではない。で、前回の最後の部分は「ナシ」にしておく。

セ・ラ・ヴィ(4)

私には、ひとつの特徴があって、それは何かというと、「自分の命が無くなること(死ぬこと)への恐怖がまったく無い」ということである。それより、青虫や毛虫を見たり触ったりすることのほうがはるかに怖い。そもそも、死ぬことがなぜそんなに怖いのかが私には分からないのである。死ぬことは、自分の存在が無くなる、あるいは自分の意識が永遠に無くなることであり、死んだ後に苦痛などがあるわけではない。つまり、死の際の苦痛を恐れるのは分かるが、死ぬことがなぜ怖いのか、私には分からないのである。
いくつくらいの時だったか覚えていないが、私は三輪車に乗っていて、その三輪車が坂の途中の道路が凍った部分で滑って坂の傍の崖から転落しそうになったことがあった。
その時、私は、このまま三輪車に乗っていたら、崖から三輪車ごと落ちるな、と冷静に「計算」して、自分の体を道路の崖と反対側に投げだし、三輪車は崖から転落した。たぶん、「計算」し始めてから体を投げだすまで、1秒弱だったと思うが、それが私には5秒くらいの長さに感じられ、むしろ悠々とその行動を行ったのである。そして、その間、恐怖はまったく感じなかった。
その経験以来、自分には死への恐怖が無いこと、そして、必要な時には驚異的な速度で思考ができることを私は確信しているのである。あるいは、体を動かす速度も速くできるのかもしれない。
しかし、日常的にはそういう「生命の危機」はほとんど生じないので、私はべつに他の子供より思考の速度や運動の速度が速いわけでもなんでもない。ただ、死への恐怖が無いのは私にはいわば平常運転なのである。ということは、怖いものも別に無いということだ。青虫や毛虫が怖いと先に書いたのは、恐怖ではなく「嫌悪感」なのである。
で、私は「恐怖心が無い」というだけで、いわば他の子供よりはるかに「人生のアドバンテージ」を持っていたと思う。幼児期から青年期の苦悩のほとんどは、「いわれのない恐怖感」から来ているらしいからだ。たとえば、他人から嫌われることへの恐怖や、人前で恥をかくことへの恐怖。これは、自己愛の当然の帰結でもあるが、だいたいは「妄想的恐怖」なのである。そもそも、他人はあなたが思うほどあなたの事を見てもいないww みんな、自分のことを考えることで忙しいのだ。
前に書いた、運動面での劣等感も、「劣等感を持って生活する」デメリットのほうが大きいと理解してからは、まったく気にしなくなったのだが、そもそも、私が運動が苦手なことをからかったり馬鹿にしたりする子供がいたわけでもなく、すべては私が勝手に「きっと周囲から馬鹿にされるだろう」と妄想しただけである。
漫画やアニメなどで毎度毎度お目にかかるうんざりする描写だが、バトル場面で、主人公が大声で技の名前を叫んで、それで(技そのものの描写はほとんど無いまま)相手に勝つという描写がある。
島本和彦によると、この手法の創始者は「リングに賭けろ!」(と言ったか)の車田正美のようだ。この手法に著作権があれば、世界的な大金持ちになっただろう。しかし、そのために日本の漫画とアニメの水準が著しく低下したのである。つまり、もはや「殺陣」を考える必要が無くなったわけだ。少年漫画でこの手法を使っていない作品はほぼゼロなのではないか。たまに、技の理屈を説明すると、かえって読者にうるさがられそうであるwww
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