ついでに言えば、江戸時代くらいまでの「国境(くにざかい)」の警備もいい加減だったと思う。関所など道路にしか置かれなかっただろうから、少し道路をはずれて山道でも通れば他国への出入は容易だったと思う。特に山の民には関所など存在しないも同然だっただろう。日本の大半は山地だったのだから、関所破りが困難だったはずはない。
(以下引用)
日本の古代道路
日本の古代道路(にほんのこだいどうろ)は、古代日本の道路または道路網を指す。特に、中央政府・律令体制構築期の政府が、古墳時代〜飛鳥時代、平安時代前期にかけて計画的に整備・建設した道路または道路網を指す。
令文・史料には、駅、駅路、駅馬、伝馬の名が見られ、駅の制度と伝馬の制度とを合わせて、駅伝制と呼ぶ。道路自体の整備に関わる記述は少ない。
駅路は、発掘により、地方では 6–12 m、都の周囲では 24–42 m に及ぶ広い幅員を持ち、また、路線形状が直線的である(時に直線が 30 km 以上)という特徴を持つ。当時の中国(隋・唐)における道路制度の強い影響が想定されている。直線道路は、まず7世紀初頭の奈良盆地で建設されはじめ、7世紀中期ごろに全国的な整備が進んでいった。そして、8世紀末 - 9世紀初頭(平安時代初頭)の行政改革により次第に衰退し始め、10世紀末 - 11世紀初頭に廃絶した。
伝馬は郡ごとに5頭置く規定があり、中央から国府へ向かう使者および赴任する国司が、その旅に用いることができた。
各国内部で郡を行き来する地方交通路を指して、研究者によっては伝路と呼ぶ。ただし定まった制度は律令に規定はなく、研究者によって運用・制度について説が分かれる。存在すると考える研究者は、伝制の用語を用いる場合がある。
歴史[編集]
概要[編集]
日本における道路建設が始まったのは、5世紀だとする記録(日本書紀)もあるが、詳しくは分かっておらず、疑問視する意見が多い[注釈 1]。記紀に見られる四道将軍の記述は行政範囲を指すものであり確実な道路自体を指すものではない。確実なのは、6世紀の奈良盆地においてであろうと考えられている(筋違道など)。この時代の大規模で主要な交通手段は河川を利用した水運であり[注釈 2]、道路は建設されたとしても、広い幅員、直線的な形状といった特徴はまだ備えていなかった。弥生時代後期〜古墳時代、後に上町台地に難波宮が置かれる難波の地に応神天皇の行宮、難波大隅宮。仁徳天皇は都を難波(なにわ)(現在の大阪市)とし、皇居を難波高津宮(なにわのたかつのみや)として国内流通の中心である住吉津や難波津が開港された。都が難波に置かれたことをきっかけとして、すでにかなりの人馬の往来があったことが、周辺にこの時代の遺構が多くあることからも窺い知れる。
直線的な道路が計画的に整備されたのは、7世紀からだとされている。奈良盆地では、7世紀初頭に以前の宮都が置かれた盆地中央部(纏向、磐余、現在の桜井市、橿原市東部など)から当時の宮都が置かれていた飛鳥へ向かう阿部山田道などの道路が建設され、6世紀末から7世紀末までの推古天皇朝を中心とする時期に、飛鳥から奈良盆地を北上する南北の直線道路が、平行して3本(上ツ道、中ツ道、下ツ道)作られるとともに、それに直交する東西の直線道路が河内方面へ向かって作られた(横大路)[1][2]。また、河内平野では「京」(この「京」は仁徳期に置かれたとされる高津宮を指し、現在の大阪市中央区)から南下する直線道路が難波(現在の堺市)に通じており(難波大道)[3]、これら2つの大路を結ぶのが日本最古の官道、竹内街道である。これらの道路は、36 - 42 m という非常に広い幅員を持っていた。こうした直線道路の出現の背景には、7世紀初頭に派遣された小野妹子らの遣隋使と関係があり、古代中国の隋との交流から大和朝廷に派遣された隋からの使節団を迎え入れるために、朝廷が道路整備に力を注いだのではないかと考えられている[4]。
駅伝制[編集]
古代は陸上の交通では専ら徒歩・徒走であった。牛馬などの家畜は当時は高価で貴重な財産であり、またこの頃は荷駄の運搬を陸送で大規模に行われることは少なく、家財は現地調達が基本である。
街道を整備する最も重要な理由は、情報伝達と往還による情報交換であり、高速に移動できる馬はこのために利用された[5]。しかし、長距離の伝達経路を確保するには、馬を交代させ、乗り手を宿泊させる設備が必要であり、したがって、官道の整備とともに駅馬・伝馬を育成・調達・管理(これを特に厩牧令(くもくれい)という)し、厩(うまや、駅、駅家とも)を置き、これを厳格に運営しなければならなかった。
大化の改新により646年正月に出された改新の詔で
とあり、駅伝制を布いたことがわかる。これを一般的には宿駅伝馬制度という。宿駅としての機能は、街道にそって中央の支所として置いた各国の国府や郡衙が兼ねた場合が多い。
直線道路網の全国的な整備は、これを契機として計画的になされ始めたのではないかとする説がある。改新の詔については、その信憑性を巡って根強い論争が続いているが、発掘調査などによれば、全国各地、とくに関東地方や九州北部で直線的な道路が多数発見されており[注釈 3]、少なくとも大化の改新直後には畿内及び山陽道で直線的な駅路や駅家(うまや)の整備が行われ、680年頃までには九州(西海道)北部から関東地方(東海道)に至るまでの広範囲にわたって整備が進んだようである。日本では急流のために渡河が難しい河川があるため水駅もおかれた。
日本の駅伝制は、8世紀に制定・施行された律令において詳細に規定された。律令の駅伝制は、駅間をついで駅馬を往復させる駅路と、中央からの使者が旅行に用いる伝馬から構成されていた。史料には「駅路」は、「駅道」「大道」「達道」などとも記載された。
研究者によっては、地方交通路は国内に情報を伝達収集するものであるとし、伝路と呼ぶ場合がある。しかし史料には「伝路」の用語は見当たらない。このことから、制度として明確に道が定められていたことも、また名称もあったわけではないと思われる[6]。
駅路[編集]
駅路は、中央と各国の国府との間を馬を使って迅速な情報連絡を目的とした路線である。国府と国府との間は、途中に30里(約16 km)ごとに駅家が置かれ[7]、それらは最短経路で直線的に結ばれた。律令の地方制度は五畿七道といい、中央である五畿と地方である七道から成っていたが、七道のそれぞれに駅路が引かれた。駅路は重要度に応じて、大路・中路・小路に区分され、当時、国内最重要路線だった中央と大宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部が大路、中央と東国を結ぶ東海道・東山道が中路、それ以外が小路とされていた[8]。駅家に置く馬(駅馬という)は、大路で20頭、中路で10頭、小路で5頭と定められており[8]、使者が駅馬を利用するには、駅鈴が交付されている必要があった[9]。
駅路は、重要な情報をいち早く中央-地方の間で伝達することを主目的としていたため、路線は直線的な形状を示し、旧来の集落・拠点とは無関係に路線が通り、道路幅も 9–12 m(場所によっては 20 m)と広く、中央と国府間を繋ぐ早馬を走らせる性格を色濃く持っていた。
実際に、古代駅路と高速道路の設定ルートや、駅家とインターチェンジの設定位置が、ほぼ同一となっている事例も多く見られる[10]。
奈良時代最末期から平安時代初期にかけて、行政改革が精力的に行われたが、駅伝制においても駅家(うまや)や駅馬(えきば/はゆま)、伝馬の削減などが実施され、伝路は次第に駅路へ統合されていくこととなった。ただし、地域の実情と無関係に設置された駅路は次第に利用されることが少なくなり、従来の伝路を駅路として取り扱うことが多くなった。これに伴い、従来の駅路は廃絶していき、存続したとしても 6 m 幅に狭められることが多かった(広い幅員の道路を維持管理することには大きな負担が伴うからである)。
10世紀前期に編纂された延喜式には、駅路(七道)ごとに各駅名が記載されており、これを元に当時の駅路を大まかに復元することができる。しかし、駅伝制は急速に衰退していき、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。
伝馬[編集]
律令では、郡ごとに伝馬が5頭置かれ、中央から地方への使者・新任国司が用いることができた。伝馬は郡衙(ぐうけ/郡家ともいう)に置かれ、それらを結ぶ道が主に用いられたが、駅路が兼ねている道もあったと考えられている。
郡衙を結ぶ地方交通道に関する仕組みや整備については、史料に残っていないが、郡衙間の情報伝達も担っていたと考えられ、研究者は伝路と呼ぶ。郡衙を結ぶ地方交通道は律令制以前からの自然発生的なルートなどが改良されて、整備されたと見られており、道路幅が 6 m 前後であることが多い。
民衆交通[編集]
律令国家の支配下に置かれた民衆は戸籍・計帳・五保・関などのシステムによって本貫地に縛り付けられる一方、庸調の運脚、官物の京進、防人・衛士・仕丁などとしての徴用などによって強制的に都鄙間の往来を命じられるなど、国家に移動を統制されていた(生業や宗教活動など私的な交通が完全に否定されていた訳ではなかったが)。特に庸調は陸路かつ人力での中央への輸送が強制されていた。これは、車・舟などを持てるのは有力な地方豪族に限定されるために車舟による輸送を認めると納税に豪族の介入の余地を生むこと、更に民衆に都を一種の舞台装置として見せることで民衆に国家的な共同幻想を抱かせる演出を図ったとする見方がある[11]。その一方で、官人は郡家や駅家での宿泊は認められていたものの、民衆は沿道の民家や小規模な寺院・道場を借りて宿泊したり、野宿をしたりしていたと考えられている。国家にとって庸調が無事に都に届くか否かは重要な問題であったと考えられているが、具体的な政策については不明なことが多い。大化の改新直後に、旅人など外部の人々を穢れであるとして祓除を強要する行為を禁じる命令が出されたり(『日本書紀』大化2年3月甲申条)、平安時代前期に国家が布施屋を建設したり(『類聚三代格』所収:承和2年6月29日付太政官符「応造浮橋布施屋并置中渡船事」)などの措置が知られているが、多くは沿線の豪族や寺院、地元住民の力によるところが大きかった[12]。また、都鄙間の強制的な往来やそれに伴う都への人口の密集は、人々が都において病原体に接触する危険性を高め、更にそれを故郷に持ち帰ってしまう可能性を生み出し、それが律令国家の下でたびたび発生した疫病の流行拡大につながったとする見方もある[13]。
もっとも、陸路かつ人力での中央への輸送の強制は、本州以外の地域(西海道・南海道)では実施が困難であり、8世紀後半から海上輸送が本格的に導入されるようになると、他の地域でもこの原則が崩れ始めた。やがて、租庸調制度そのものの衰退もあり、租税や官物は地方官が責任を負って都に運ぶようになる。このため、民衆が強制的に都鄙間の交通を強制させられることはなくなり、また戸籍制度の衰退で本貫地に縛りつけられることもなくなったものの、民衆の都鄙間交通は大幅に減少したために、布施屋や小規模寺院・道場なども荒廃し、律令国家期とは別の意味で民衆の移動は困難になっていった[14]。
第6回 推古天皇と蘇我氏
○仏教伝来
大伴金村失脚後、欽明天皇の朝廷で勢力を激しく争ったのが蘇我氏と物部氏でした。その火種の第1ラウンドが、538年に百済から伝わった仏教の取扱い。この時は百済の聖明王から金色に輝く釈迦像と仏典がサンプル品として届いただけでしたが、この新しい宗教について、渡来人の子孫でもあった蘇我稲目は受容を推進しようとし、一方で物部尾輿(おこし)は反対の姿勢を明確にしました。
*余談ですが、私的では522年に司馬達等が自宅の草庵に仏像を安置して礼拝していた、という記録があります。
なぜ蘇我氏は仏教受容を推進したのか。
すなわち、人には仏教を伝えたくせに、自国ではあまり仏教が盛んでなかった百済が衰亡の一途をたどり、逆に仏教信仰が盛んで多くの寺を建てていた新羅が栄えていたのを見て、「これは仏教の力だ」と蘇我氏は考えたのです。さらに、次々と朝鮮半島から渡来人が流入する中で、人々をまとめ上げる宗教として日本古来からの神祇信仰だけではなく、仏教が必要である、と考えたのです。
こうして蘇我氏と物部氏の争いはエスカレート。
欽明天皇没後、その息子の敏達天皇、用明天皇が相次いで病死し、後継者を誰にするかで大激突しました。尾輿から代替わりした物部守屋(もりや)は欽明天皇の息子である穴穂部皇子を、稲目から代替わりした蘇我馬子はその弟である泊瀬部(はせべ)皇子を推薦し、激突しました。
そして587年、蘇我馬子は穴穂部皇子を暗殺するという強行策に打って、さらに豪族をまとめ上げ、物部守屋を激戦の末に討ち取ることに成功したのです。当初は蘇我氏側が劣勢でしたが、ここで神秘的な力を発揮したのが14歳の厩戸皇子(うまやどのみこ)、いわゆる聖徳太子だったといわれます。用明天皇の息子である彼は、木で仏像を彫り、兵士達の心の拠り所とすることで大幅に士気を高め、一気に戦局を覆した・・・ようです。どこまで本当か解りませんけれども。
こうして蘇我馬子は泊瀬部皇子を即位させ(崇峻天皇)、さらに飛鳥(現在の奈良県明日香村)の地に法興寺(現在の飛鳥寺)を建立し仏教の拠点としました。
また、蘇我馬子は592年、「あいつはオレの言うことをきかねえ」と崇峻天皇を暗殺し、欽明天皇の娘で、敏達天皇の后だった炊屋姫(かしきやひめ)を即位させました。これが、推古天皇です(当時39歳)。そして、19歳の聖徳太子を摂政につけ、さらに娘を嫁がせ義理の息子とし、馬子は朝廷の大実力者として政治を行うのです。
飛鳥大仏 【国指定重要文化財】
文化財の指定名称としては、「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」。飛鳥寺の本尊で、少なくとも頭部は創建当時の模様。最近の研究ではその他大部分も創建当時のまま、とする説もあります。
○推古朝の政治
さて、推古天皇の下で朝廷の体制がさらに整えられていきます。まず603年、都を飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)へ移します。なお、小墾田宮の正確な場所は特定されていません。
そして、これまでの姓を使った授位のあり方に変えて、冠位十二階の制が定められます。これは、徳・仁・礼・信・義・智の6つをベースに、それぞれ大小に区分。つまり、合計12の位を設置し、豪族達は冠の色と飾りで自分達の朝廷内での等級が一目瞭然で区別されることになったのです。また、これは才能や功績によって上がることが出来るため、豪族達のやる気を引き出します。
もっとも、蘇我氏のような有力氏族は自分達の地位が脅かされる危険があるため、反発が予想。
そのため、有力な豪族は対象としませんでした。また、長い年月をかけて位は13,19、26,48,そして逆戻りで30階に落ち着いています。
そして604年に聖徳太子の肝いりで憲法17条を発表します。
これは、今の憲法とは異なるもので、朝廷内における人々の心構え、すなわち倫理規定を定めたものです。和をもって貴しとなし・・・とか、仏教を篤く敬えとか・・・全国の人民はすべて大王を主とあおげとか・・・。こうして、豪族達を地方の有力者から朝廷の役人へと次第に性格を変貌させていくことになるのです。考えてみれば、かなりの改革ですね。
ただし、実際に施行されたかまでは記録に残っておらず、不明です。
また、聖徳太子と蘇我馬子は歴史書である「天皇記」「国記」の歴史書の編纂にも乗り出します。
これによって、これまでの歴史が不明にならないように文字で後世に残し、同時に現政権の正統性も強調する狙いがあったのだと思います。ちなみに、蘇我馬子の子孫は後ほど述べる通り天皇に対する反逆者として滅亡に追い込まれたため、必然的に蘇我馬子についての功績も小さく描かれていますが、こうした大きな改革を蘇我氏の力無くして実現できたとは思えず、聖徳太子と蘇我馬子の二人三脚で新たな国家体制を意欲的に整備していったと考えられています。
○隋との外交
さて、これまで百済を通じて大陸の文物を取り入れ、互いに積極的に使者を交換していた大和政権でしたが、中国ではこの頃、ようやく小国分立状態が解消され、隋という大陸全土を統一した国家が誕生していました。そこで607年、聖徳太子は小野妹子を中心とした使節(=遣隋使)を送ることにしました(それに先立ち、中国の歴史書「隋書」には600年にも倭国からの使者が来た、と記されています)。この時、聖徳太子は日本側がへりくだった交渉を嫌い、対等に交渉せよと指示しました。そのため、日本側の国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」と記しました。つまり、我々日が昇る国の天子が、日が没する国の天子にお手紙差し上げます。お元気でしょうか?と記したわけです。
これを見た隋の皇帝である煬帝(ようだい 位604~618年)は「野蛮人が、無礼な!」と激怒します。何しろ、隋は日が沈む国と書かれた上に、相手は自分達のトップを、隋の皇帝と対等に”天子”という名称で表現しているのです。しかし、隋は朝鮮半島の高句麗と戦っていたこともあり、わざわざ日本を敵に回すこともないと考え、翌年、外国の接待係だった名門出身、斐世清(はいせいせい)を使者として日本に派遣しています。ただし、隋から送られた国書の方も過激な内容だったようで、小野妹子は「途中で奪われました」と言って朝廷には提出しませんでした。
ともあれ、こうして隋との国交が樹立した大和政権は、斐世清を隋に送り返すと同時に、高向玄理(たかむこの げんり/くろまろ)、南淵請安(みなみぶち しょうあん)、および僧である旻(みん)らを留学生として派遣し、長期にわたり学習させました。彼らは後の政治改革で少なからぬ役割を発揮しています。
○新羅との戦い
一方、これまで通り朝鮮半島との関係も非常に重要なものでした。特に新羅との関係が非常に重要。562年に新羅が任那(加羅)を滅ぼして以降、日本と新羅の関係は腹のさぐり合い状態で、時には新羅が日本に仏像などを送っていましたが、591年には「任那を復興しよう!」と、日本は九州の筑紫へ2万人の兵士を派遣し、その時を伺い始めました(結局、3年後に撤兵)。
さらに600年には任那の残存勢力でしょうか、これが新羅と戦ったようで日本は救援へ。新羅を破ることに成功します。
1回目と思われる遣隋使はこの時に派遣されていますから、新羅問題に関する外交を展開したのではないかと思われます。その後の第2回目で小野妹子が派遣されることになりますが、日本と隋を対等に考えた外交を展開したのは、もしかしたら第1回目の遣隋使での出来事が影響しているのかも知れませんね。日本側の記録に残っていないのも何か怪しい(笑)。
さらに602年、聖徳太子の弟である来目皇子(くめみこ)を将軍とし、2万5000人を新羅遠征軍として派遣することが決定。来目皇子は軍事を担当する大伴氏配下の来目氏による軍事教育を受けており、軍事のエキスパートだったとか。・・・ところが、いざ朝鮮半島へ!と、九州の筑紫で準備していたところ病に倒れ、亡くなってしまいました。遠征は中止に。聖徳太子の悲しみは相当なものだったでしょうね。なにしろ、来目皇子は聖徳太子と父も母も同じでしたから。
これ以後は目立って大きな戦争はしなかったのか、新羅が任那と共同でしばしば使者を日本へ送るようになり、仏像などが送られています。また、高句麗も同様で、僧が来日したり、610年には隋に攻められたことから、日本に救援を要請。この時、派遣されてきた曇徴(どんちょう)という僧侶は、儒教の専門家でもあり、さらに彩色、紙、墨の製造法も伝え、飛鳥文化に大きな影響を与えています。また、水力を利用した臼の製造実演も行っています。
それから、高句麗は618年、隋が滅亡したことをいち早く報告。この時、ラクダも送ったそうですが、当時の人達のインパクトはどんなものだったでしょうか。気になるところです。・・・と、書いたところで聖徳太子が亡くなった後、623年には蘇我馬子が新羅に軍を遠征しているではありませんか。勢力を拡大する新羅に対し、これ以後も百済、高句麗、さらには隋の後に中国を統一した唐との間であの手、この手で外交が展開されます。
○聖徳太子と仏教
聖徳太子といえば、とにかく仏教を篤く信仰し、保護した人物でした。物部守屋との戦いで木彫りの仏像を作ったことは先に述べた通りですが、この戦いで勝利したことを感謝し、593年、難波の地に四天王寺(下写真)を建立しています。
そして607年頃には、聖徳太子が住居を構えた斑鳩(いかるが)に、法隆寺(下写真)を建立。その名の通り、仏法が隆盛になることを願ったものです。
▲法隆寺
法隆寺の魅力は、西院伽藍が古代からしっかりと変わらず残っているところ。流石に聖徳太子の時代のまま・・・とまでは言えないようですが、少し後の7世紀後半の再建時からは変わらぬ姿の様子。
さらに、仏教に対する勉強会も熱心に主宰し、高句麗から来日した僧の恵慈(えじ)ら共に様々な仏法を研究。特に、「法華経義疏(ほけきょうぎしょ)」などを発表しました。これに、維摩経義疏(ゆいま)・勝鬘経義疏(しょうまん)を加えた「三経義疏」(さんぎょうぎしょ)と総称される仏教注釈書が、聖徳太子のグループの成果のようです。
こうして、蘇我馬子と協力、晩年はかなり圧力を受け政治から遠ざかったとも言われる聖徳太子は、馬子よりも早く622年に死去。のちに聖人君主のように描かれるようになる彼ですが、実のところは非常に謎めいた存在で、果たして本当にいたのか?という説も有力に唱えられています。
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第5回 大和政権の成立と発展
○吉備地方の服属
さて、このように東アジアを巻き込みながら勢力を拡大した大和政権でしたが、依然として吉備地方で強大な力を持っていた吉備一族が、大和政権に従いつつも不穏な動きを見せていました。特に、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみ さきつや)は大泊瀬幼武大王(雄略天皇)に対して反抗的な態度を取っていたため、大泊瀬幼武大王は物部(ものもべ)一族に命じ、吉備一族70人を皆殺しにしました。ところが、大泊瀬幼武大王が亡くなると再び吉備一族は立ち上がります。
中心となったのは、なんと大泊瀬幼武大王の妃であった吉備稚媛(わかひめ)と、大王との息子である星川皇子。この吉備稚媛は、吉備田狭(たさ)の妻だったのですが、田狭が大泊瀬幼武大王によって任那(伽耶)に追いやられている隙に、大王に奪われ妃にさせられたのです。
そこで、当時有力な王位継承者だった白髪(しらは)王子に代わって、自分の息子を、大王にすることで吉備一族の再興を企むのですが、この動きを察知した大連(おおむらじ)の大伴室屋(おおとものむろや)は、渡来人の一族である東漢掬直(やまとのあやの つかのあたい)を討伐部隊として差し向け、吉備一族と合流した吉備稚媛達を敗死させました。
これにより、とうとう吉備一族は大和政権に屈服するようになり、5世紀末から吉備での巨大古墳造営がピタリと止みました。また、この頃から「大王」は連合政権の盟主から、いよいよ大王の下に各地の豪族が従う、という形に変貌します。もっとも、その下では物部氏、蘇我(そが)氏、大伴氏、平群(へぐり)氏が、それまで大王と密接な親類関係にあった葛城氏に代わって、熾烈な主導権争いをしていたようです。
○氏姓制度
さあ、そこで大和政権の大王と豪族の政治的な組織関係を見ていきましょう。まず豪族ですが、彼らは氏(うじ)と呼ばれる血縁的な繋がりを持った一族の集団を形成していました。その首長のことを氏上(うじのかみ)といいます。そして、氏には独自の名前が付いており、平群氏、蘇我氏、葛城氏のような地名からついた氏名や、大伴氏、物部氏など自分達が大和政権内で掌握していた職務からついたものなど色々です。
この豪族に対し、大王は姓(かばね)という、政権内での地位を表すものを与えました。
すなわち、一定の地域に基盤をもつ豪族には臣(おみ 葛城氏、吉備氏など)を、さらに特定の職務を持つ豪族には連(むらじ 大伴氏、物部氏)、さらに大和とその周辺以外・・・例えば関東や九州などの有力豪族には君(きみ)、それ以外の一般の豪族には直(あたい)です。
そして、さらに臣と連を持つ豪族うち、「特に有力な」者には大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)が与えられます。
一方、大和政権の儀式や政務を行う朝廷。
ここの職務は、伴造(とものみやつこ)と呼ばれる豪族、とそれをサポートする伴、品部(しなべ/ともべ)呼ばれる人々が行いました。こういう役職は専門性が要求されるので、最新の大陸の知識を持った渡来人達が就任することが多かったようです。そして、政治上、経済上の要地には屯倉(みやけ)と呼ばれる直轄地を各地に設け、田部(たべ)と呼ばれる農民に耕作させていました。
また、豪族内部に目を向けてみますと、有力な豪族は田荘(たどころ)と呼ばれる私有地と、部曲(かきべ)と呼ばれる私有民を所有し、さらに奴(やっこ)と呼ばれる奴隷もいました。
(引用者注:部曲(プゴク)は、新羅、高麗の賤民である。つまり、「部曲」という漢字が先にあり、それに日本人が「かきべ」という読みを当てたので、「曲部」ではなく「部曲」という不自然な、漢字と読みの不一致が生まれたのだろう。当時は漢字の知識が浅かったのだと思う。今のカタカナ書き英語のようなものだ。)(引用者曰く:「奴(やっこ)」は「屋子」つまり、武士時代の「家の子」と同じだと思う。「やこ」が発音の便宜上、「やっこ」となり「奴」という、「奴隷」の実情にふさわしい字を当てたのではないか。)
ちなみに、こうした制度は百済のシステムを元に構築されたようです。
と言うのも、百済は高句麗の猛攻や加羅北部の反乱に対し、度々日本に救援を要請。それを承諾する代わりに百済や中国から人材を日本に派遣させ、彼らは儒教を伝えたり、暦学や医学、薬学など様々な学術分野の改善に貢献していたのです。
額田王
額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳。女性)は、飛鳥時代の日本の皇族・歌人。天武天皇の妃(一説に采女や巫女)』)、額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。
係累他[編集]
『日本書紀』には、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され、一説に宣化天皇皇子の火焔皇子の曾孫といい[1]、この場合は威奈(猪名/韋那)氏の同族である。また、近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。
生年は不詳であるが、まず孫の葛野王が669年(天智天皇8年)の生まれであることは確実である。このことから、娘の十市皇女の生年は諸説あるが、648年(大化4年)から653年(白雉4年)頃の間の可能性が高い。更に遡って、額田王は631年(舒明天皇3年)から637年(同9年)頃の誕生と推定される。
出生地に関しては大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。
『万葉集』『日本書紀』に見える鏡姫王(鏡王女)を姉とする説もあるが(本居宣長『玉勝間』)、それは「鏡王女」の表記を「鏡王の女(むすめ)」と解釈したもので無理があるとの意見もある。また、表記の解釈は同様で「鏡王の女(むすめ)」とは額田王自身のことを指すのではないかという新説も提出されている[2]。
十市皇女の出生後、天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが確証はない。状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。特に
- 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
- 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)
の2首などをめぐって天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にあるが、池田弥三郎・山本健吉が『萬葉百歌』でこの2首を宴席での座興の歌ではないかと発言して以来、こちらの説も有力視され学会では通説となっている[要出典]。晩年の王の歌としては持統天皇の吉野行幸に際して弓削皇子と交わした贈答歌があり、行幸の時期からして60歳前後までは確実に生存していたと推測されている。従って没年は大まかなところ、690年頃としか言えない。
は中国の姓名だろうと思う。「をほど」という名前の音韻はまったく日本語らしくない。昔と今の日本語が違うといっても、名前らしくなさすぎる名前である。おそらく「袁」が姓だろう。百済人か新羅人か、中国人ではないか。中国人から帰化した朝鮮人が日本に渡来したとも思える。
武烈天皇が暴君だったという話は継体天皇の出自の怪しさを誤魔化す意図だと思う。
(以下引用)
『古事記』では越前の名前は全く出て来ず「近江」から迎えたとある事を指摘している[5]。 「天皇(武烈)既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太(応神)天皇の五世孫、袁本杼(をほど)命を近淡海(ちかつおうみ)国より上り坐しめて、手白髪(たしらか)命に合わせて、天下を授け奉りき。」[6]
『日本書紀』によれば、506年に大変な暴君[注 4]と伝えられる武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。
次に大伴金村が「男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。(男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし。男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。皇位を継いで頂こう。)[7]」と言い、群臣達は越前国三国(現福井県坂井市三国町あたり)(『古事記』では近江から迎えたとある)にいた応神天皇の5世孫の男大迹王を迎えようとした。 臣・連たちが節の旗を持って御輿を備えて迎えに行くと、男大迹王には大王の品格があり、群臣たちはかしこまり、忠誠をつくそうとした。しかし、男大迹王は群臣のことを疑っており、大王に即位することを承知しなかった。 群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)がいた。荒籠は密かに使者をおくり、大臣・大連らが男大迹王を迎え入れる本意を詳細に説明させた。使者は3日かけて説得し、そのかいあって男大迹王は即位を決意し、大倭へ向けて出発したという[8]。 その後も、男大迹王は自分はその任にないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村らの度重なる説得を受けて、翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。 継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからであると考えられている[9]。 しかしその後19年間、なかなか大倭入りせず(大倭に入れず?)511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。 翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している(詳細は磐井の乱を参照)。
崩年に関しては『日本書紀』によれば、531年に皇子の勾大兄(後の安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『古事記』では、継体の崩年を527年としている。没年齢は『日本書紀』では82歳。『古事記』では43歳。都にいた期間は、『日本書紀』では5年間。『古事記』では、1年間程である。
対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するために、たびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『日本書紀』によれば、継体6年(513年)に百済から任那の四県[注 5]の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した[注 6]。
継体や勾大兄皇子、金村は軍事的な外交を行った。任那は百済や新羅からの軍事的圧力に対して倭の軍事力を頼り、継体らはそれを踏まえて隙があれば新羅と百済を討とうとしていた。現在の博多に存在した那津官家はその兵站基地であった。安閑天皇や宣化天皇期の屯倉設置も、兵站としての役割を期待されてのものであったと考えられる。