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松本清張「西海道談綺」読了。傑作。清張の時代物に外れは無いが、長編は特に素晴らしく、駄作が無い。
清張の時代物の特長は、悪人に特に魅力と凄みがあることで、だからこそスリルがある。また、主人公も善人だがいつも善人であるわけでもなく、悪人がいつも悪人であるわけでもない。その度合いが違うだけである。そして、悪人はたいてい頭がもの凄くよく、気性も強いから、善人はとてもかなわない、という感じが起こる。
そもそも、善人は善人であるというだけでハンディを持っているのである。悪人が平気で行える悪行が善人にはできないから、当然、できることの範囲が極端に限られる。しかも、善人は基本的に他人を疑うことがないから、悪人にいいようにしてやられるのである。これは現実人生でも同じである。清張の作品は、そういうリアリズムが根底にある。だから、面白い反面、爽快感は少ない。私は清張の現代ものはほとんど読まないが、それは、時代物だと少しはオブラートにくるまれている「人生の真実」の苦さが現代ものだと明確に出てくるだろうと予感しているからである。
清張は、バルザックに匹敵する作家である。いや、それ以上かもしれない。
「西海道談綺」は、大長編であるから、映画にもしにくいが、NHKの大河ドラマにでもしたら素晴らしい作品になると思う。この作品に限らず、「天保図録」や「かげろう絵図」なども素晴らしい。三国連太郎が生きていたら、鳥居燿蔵(こんな字だったか)の役をやらせたかった。
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夢の中で、作り事を実在の物事のように語る手法の小説あるいは映画のことを考えた、嘘というよりはその話の中では本当のことになっているわけだ。たとえば、登場人物が自分を、天才と言われながら大成しなかったマイナーリーガーにたとえるのだが、その選手の名前が「ラルフ・エバンス」というありそうな名前になっている。夢から覚めた後で、そういう名前の人物が実際にいるのかどうかネットで調べると、「ラルフ・エヴァンス」という名で妙なイラストがひとつ出てきただけだから、野球選手にはいなさそうである。こういう、ありそうであまり無い名前を思い付くこと自体、難しいので、メモしておく。
なお、その夢の中でいろいろな奇妙なことを考えたのだが、大半は忘れた。たとえば、薄い金属片を筆代わりにして字を書く話、など。最初はきれいに書けるが、後半になると集中力が無くなって苦労していた。夢の中では、書く字の文言まで考えていたが、目覚めたら忘れていた。
夢の登場人物の一人は美術大学の学生らしく、卒業試験(卒業制作)の期日に既に遅れて卒業を既に諦めていたが、別の人物(主人公か?)が、「期日に遅れようが、アイデアがあるなら作るべきだ」と彼を励まし、その作品が教授に気に入られて無事卒業する、というエピソードなどもあったようだ。
それとはまったく別の話で、若いころの知人(男・実在人物だったと思う)が運転免許取り立てだのに、私が正月早々その車に同乗してドライブし、死ぬような目に遭うエピソードもあった。道を走る他の車がなぜか自動運転の車が多く、しかもそれが道の真ん中でくるりと一回転することが多くて肝を冷やしたりした。
連歌とは何かと言えば、要するに「洒落た会話の応酬」である。

クラブでホステスを相手に飲んでいた偉い人が
「わしゃあもう眠くなったよ。遅くなったし、帰るかな」
と言うと、そのホステスが
「夢の中で、いい人でも待ってるんでしょ」
と茶化す。
まあ、そういう応酬を歌の形でやれば、それが連歌だ。と言うより、そんなところから始まったのだろう。

小夜ふけていまは眠たくなりにけり(天暦御門)
夢に逢ふべき人や待つらん(滋野内侍)
世阿弥「風姿花伝」の一節。(現代語訳)

「いったい、鬼の物まねは、重大な難事がある。うまくやればやるほど、面白くはないといった道理があるのだ。鬼は恐ろしいのが本質だ。恐ろしさの心と面白さの心とでは、まるっきり正反対だ。」



これはある種のホラー映画やリアリズム絵画、リアリズム芸術一般の盲点ではないか。ある物事を見事に描き出せば描き出すほど観る者は不快になるわけである。しかも、それが見事であれば、それだけで批評家たちに絶賛され、高く評価されることになるが、「面白くない」から大衆からはそっぽを向かれることになる。純文学などもそうだろう。
「てには」は「てにをは」だが、古文では「語と語、分節と分節の接着剤的語」を意味したらしい。つまり、現代のように助詞だけを意味するのではなかったようだ。
たとえば、次の前句の「中々に(かえって、の意)」はそこで文が終わることはありえないので、「てには」に相当する。

「覚めやすき夢の面影中々に」

こうした前句の場合は、付け句はほとんど自動的に「随」になるしかない。それを「請けてには」と言うようだ。ただし、前句の内容を明確にし、あるいは深化させないと「二句一章」とならず、連歌の意味が無い。
この前句に対して専順という連歌師(だろうか)はこう付けた。

「仮寝くやしき小夜の山風」

「小夜」は歌語で、「夜」と同じだが、優雅な感じになる。「セレナーデ」を「小夜曲」と訳したのは名訳だろう。「仮寝」は「旅寝・野宿」の意味だと三省堂例解古語辞典にあるが、おそらく「行きずりの情事」の意味があると私は見ている。というのは、「難波江の葦のかりね(刈り根・仮寝)のひとよ(一節・一夜)ゆゑ、身を尽くしてや恋ひわたるべき」の仮寝は、明らかに男女が共寝したことを意味しているからだ。単なる旅寝や野宿ではない。
そして、この付け句の「仮寝」も、男女が行きずりの情事をしたことを意味する、あるいは含意するからこそ「夢の面影」という前句の中の肝となる語と意味がつながるのである。
なお、私が今読んでいる、そして最近書いている連歌関係の元ネタとしているのは角川書店の「鑑賞日本古典文学第24巻中世評論集」だが、その中でこの連歌の訳はこうなっている。

「覚めやすい夢に見た面影はかえって……。その仮寝の夢はまことに口惜しい気がする。小夜の山風にうちさまされて。」


意味が分かるだろうか。古語を無難な現代語に逐語的に置き換えた(あるいは古語をそのまま残して全体を現代語らしくした)だけである。私は、この訳を読んでも意味が分からなかった。まず、「さ夜」の意味が分からないし、「仮寝」の意味も分からない。そこで、辞書を引いて、「仮寝」の意味を自分で考えて解釈することで、この連歌全体の意味がおおよそ分かったというわけだ。古文を学ぶことが困難なのがよくわかる。つまり、この「中世評論集」の訳文のように説明がまったく不親切で不十分だからである。


ここで話を終わってもいいが、フェアプレーをするために、私自身の訳文を考えてみる。

「醒めやすい夢の中で見たあの人の面影はかえって」
「(いつまでもその面影を忘れたくない・見ていたかったから)旅寝を醒ましたこの夜中の山風が悔しいことだ」





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