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「東インド会社」というのはヨーロッパ諸国にあり、その「東インド」が何を意味するのか知っている人はあまりいないのではないかと思う。下の記事に書かれたように、それは「インド」ではなく、「インド東部」でもない。要するにほとんどアジア全域を意味するわけだ。
では、東インド会社とは何かと言えば、「国家公認の対アジア貿易民間会社」であり、貿易の傍ら、国策に沿った外交関係にも働いていたと言えるのではないか。そのヨーロッパの国の出先機関が東インド会社しか無いのだから、そうなるのは当然だ。
あるいは、朝鮮半島の「任那日本府」もこれと似たようなものだったかもしれない。



(以下引用)



東インド会社の東インドはどういう意味か知っていますか?~『東インド会社とアジアの海』羽田正氏(2007)

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

  羽田氏は比較歴史学の研究家、喜望峰からバタヴィア、そして長崎にいたる海域を「商品」で結んだ東インド会社とは?(2007)

そもそも東インドとは

アフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る間に位置する海岸沿いの諸地域はすべて「東インド」と認識された。従って、現在のインド亜大陸だけでなく、アラビア半島ペルシャから東南アジアを経て中国に至るまでのアジア諸地域はすべて東インドの国々ということになる。…従って、「東インド」という言葉と「アジア」という言葉は、相当程度重なりあう。(26ページ)

 1602年オランダ東インド会社誕生

オランダ共和国政府からこの会社に特許状が与えられた。46ヶ条からなる特許状によると、オランダと東インド間の喜望峰経由の貿易は、特許状発行から21年間この会社が独占することとされた。…東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、それに現地の支配者と条約を結ぶ権利が会社に与えられた。・・・この会社のために集められた資本は一度の航海だけでなく、10年間据え置かれたということだ。…この間いったん集められた資本をどのように使うかは、会社が決定した。これは、現在の株式会社に一歩近づいた方式といえるだろう。(85ページ)

ヨーロッパの輸出商品

東インド会社を生み出した北西ヨーロッパにだけは、他地域の人々が欲しがるような特産品がほとんどなかった。・・・有力な輸出用商品を持たずしかも物価が高いという二重のハンディキャップを北西ヨーロッパの人々が克服し、アジアの海での貿易活動に参加できたのはアメリカ大陸の存在があったからである。北西ヨーロッパの人々がアジアの物産と交換した「自分たちの」商品は、主として南北アメリカという本来別の地域で算出する銀だった。(354ページ)

東インド会社を俯瞰してみると

東インド会社の行動は、例えて言えば、ほとんど元手をかけずに(南北アメリカという)人の家から持ち出したお金を使って、本来足を踏み入れることのできないはいずの店(アジア地域)の一流品を買い、それを自分の家(ヨーロッパ)に持ち出して利用したり、売却して利益を得たりしていたということである。このような行動を200年も続ければ、北西ヨーロッパが全体として豊かになり、世界をリードする経済力を身につけるのは当然だろう。アメリカの銀とアジアの物産が「近代ヨーロッパ」の経済的基盤を生み出したのである。(355ページ)

東インド会社とアジアの海

東インド会社がイギリス、オランダ、フランスで設立されて約200年、1800年までの間北西ヨーロッパは特産品を持たなかった。それを逆転させたのが18世紀末からの産業革命であった。産業革命は、東インド会社がインドから輸入した綿織物に対抗できる品質と低価格を実現させる為の努力によるものであった。

我々はヨーロッパの品々に一流、という先入観を持っている。これはあくまで産業革命以降に確立したイメージでしかないと気づく。それ以前はアジアの香辛料、綿製品、お茶、陶磁器物などが価値を持ち、ヨーロッパを圧倒していた。ヨーロッパは産業革命で形勢を逆転させる。東インド会社が活躍した1600年からの200年間、ヨーロッパは、アジア、アメリカとの交易で富を蓄えていった。東インド会社が今につながる西欧社会を形づくっていた。

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ここには思想的な問題の記事はあまり書かないで、フィクション関係の記事を中心にしているが、井沢元彦の「逆説の日本史」を最近読んでいて、いつも「そいつは違うんじゃないか」という漠然とした気持ちになる記述が多く、もちろん、それ以外の部分は非常に面白く、歴史的な話をこれだけ「思想的に分析し」「自説を構築できる」のは凄いな、と思う。しかし、それだけに、「おいおい、その部分は違うんじゃないか」という記述も時々出てくるのだが、読書の途中でいちいち深く考えるのも面倒なので、その疑問は棚に上げて先を読むことになる。

とりあえず、11巻の「戦国乱世編」の中で私が疑問視した部分を考察してみる。

井沢はよくやるのだが、日本の古代史や中世史の話をしながら、その途中で近現代史や世界史の話を出して、そこに「歴史的鉄則」がある、と強調する書き方をする。しかし、歴史書に記述された内容は(ほとんどが「勝者によって書かれた歴史」であり)もともと疑わしい事柄が無数にある、ということは井沢自身が常に強調していることだ。とすれば、それらの「疑わしい事実」に井沢が自分自身の「合理的思考」で異論や反論を述べたところで、それらに「法則性がある」と言うのは無理なのではないか。要するに、法則というのは(数学も含め)「科学」の場合にしか妥当しない言葉であり、歴史に関してはせいぜいが「傾向性」としか言えないだろう。そこに、「法則」や「鉄則」という言葉を使ったら、読者に悪い誤解を与えることになるわけだ。「法則」だから俺の言っていることはすべて正しい、俺の言葉はすべて正しいから信じろ、と洗脳していることになる。

それはさておき、井沢が「歴史の法則」のような言葉を使う場合に、それは古代から現代まで一貫するものだ、という前提であるわけだが、問題なのは、それが彼の「右翼性」を強調する内容であることだ。彼がフィクションを書く分にはいくら右翼志向の人間だろうが、面白ければそれでいい。しかし、「逆説の日本史」で彼が扱っているのは「事実」である。そこに、恣意的な自分の思想を「法則」である、として紛れ込ませるのは犯罪的ではないか、ということだ。

戦争や戦闘はフィクションの好材料であり、飯の種だ。だが、だからと言って、戦争や戦闘は人間の本能であり、戦争を軽視し、まともな軍隊を持たない国は亡びる、という自分の思想を歴史的法則だ、としてはマズいだろう。現実に、日本は第二次大戦後に世界の歴史上ほとんど存在しない70年余りにわたる「戦争の無い国」であったわけだ。
もちろん、安保条約で軍事力を米軍に依存し、そのために周辺諸国から侵略されなかったのだ、という「安保タダ乗り論」を信じるならそれでもいい。では、日本が自前の軍隊を持てば、安全になるのか、というのは大いに議論をすべきところであり、強力な軍隊を持った国家はむしろ戦争に自ら飛び込む危険性が高い、というのはそれこそ歴史的法則と言えそうなほどだ。井沢自身、秀吉の朝鮮出兵を、同書の351Pから352Pで、こう説明している。(以下赤字部分)

軍隊の仕事は「戦争」である。それが侵略であれ防衛であれ、戦争あってこその軍隊である。特に前近代においてはそうだ。
ところが、平和になったということは、平たく言えばそうした軍隊あるいは優秀な兵士の働く場所も仕事も一切無くなってしまったということだ。
当然、その軍隊は次の「獲物」を求める。
アレクサンドロスが、チンギス・ハーンが、あるいはヌルハチがしたのは、そういうことで、これは必然の結果なのである。
仮に、軍隊の長が「もうやめておこう」と言っても、部下が承知しない。それでもやめろ、つまり「お前たちの仕事はもう無い」などと言ったら、いかなる大権力者でも生きてはいけない。その権力自体が軍事力、すなわち兵士の集合体によって支えられているからだ。


まさしく、これこそが歴史の鉄則と言うなら鉄則だろう。実際、アメリカが数百年も戦争ばかりしているのは戦争が「軍隊の飯の種」だからだ。その背後には軍事産業があるのは誰でも知って、それを軍産複合体と言うのも常識だろう。
ならば、ここで井沢が主張すべきことは、「自衛隊のような『戦争をしないと憲法で定めている』軍隊こそが理想の軍隊であり、さらに理想を言えば、自衛隊すら持たないことだ」となるのが理の当然だろう。
実際、「諸国民の信義に依存し」戦争放棄をした平和憲法の宣言を諸国が信任したから日本は70年あまりの平和を享受できた、と見るのが理屈で言えば正しいことになるのではないか。
いや、日米安保に守られたからだ、という意見に対しては、安保条約には日本が侵略されたらアメリカは必ず日本を守る、という条項など無い、と言っておこう。書かれているのは、日本国内どこでも好き勝手に米国は米軍基地を置くことができる、というだけの話だ。つまり、日本を軍事的支配下に置くことだけが日米安保条約の本質だと言っていい。

まだ書くべきことはあるが、長くなったので、ここまでにしておく。








確か、萩原(荻原だったか?)朔太郎が、「なぜ詩(小説なども含むか?)を書くのか」という質問に、簡潔に「復讐」と答えたという話があるようだが、下の北村薫の言葉も同じことだろう。つまり、ままにならない自分の実人生や、それをそういうようにさせた存在(神、創造主)への「復讐」であり、「抗議」であるわけだ。
私は、好きなゲームは何周もする人間だが、2周目や3周目のほうが、気楽に楽しめるのである。1周目は、「何がどうなっていくのか分からない」という不安感と共にプレーしているので、スリリングで面白い反面、「楽しさ」にはむしろ欠けるわけだ。

こういう、「2周目」的な感じは、「実人生から降りて小説世界を楽しむ」感じに似ている。実人生の苦痛や恐怖は、小説世界では単なる刺激物になり、成功感や高揚感は実人生同様に味わえるわけだ。いや、むしろ、現実人生よりも「高度な人生」が味わえるのである。我々の日常に、トルストイやドストエフスキーやバルザックやデュマの登場人物のような存在が有り得るだろうか。

最近のゲームは2周目以降に、1周目で得た経験値や道具などを持ちこして、「強くてニューゲーム」というシステムがあるらしいが、「なろう小説」の大半は、「強くてニューゲーム」精神で書かれているのではないだろうか。




(以下引用)


「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」という北村薫の言葉が、とても好きです。選ばなかった、選べなかった、与えられなかった、たくさんの「もしもの世界」に、小説を読み、また書くことで、私たちはいきられるのだと思う。








今時の漫画やアニメの作り手だと、「血液型は」「好みの食べ物は」「靴のサイズは」とやるのが「キャラの掘り下げ」だと思うのではないかwww





  1. さんがリツイート
    返信先: さん

    過去に悲惨な出来事があって世をすねた怪物みたいなキャラの、過去を具体的に掘り下げたら、ただケツの穴の小さい小人物みたいになっちゃう場合もありますねw

  2. さんがリツイート

    「キャラの掘り下げ」といい、二次創作でアニメキャラの過去や背景を描くことがあるが、たとえば丹下左膳が隻眼隻手になった事情が必要なのか(川口松太郎が書いたようだが)。彼は狂騒的な怪物としていきなり現われるべきで、そこに至るプロセスが克明に描かれたら、もう左膳でなくなるのではないか




「ネットゲリラ」から転載。
「夙村」という名前の異常な禍々しさが興味深い。なぜ禍々しく感じるのだろう。「夙」という字は「夙(つと)に」と読まれる字で、別に不吉な字ではないと思うが、「屍」という字に似ていること、「死」という字にも少し似ていることなどが原因だろうか。
なお、山林に居住していた集団は「サンカ」などと呼ばれて、徴税対象ではなかったと思う。もっとも、「サンカ」は山林居住集団の中でも特別なものを言うのかもしれない。いずれにしても、封建時代の百姓は一種の奴隷だと思うのがいい。居住の自由(引っ越しの自由)が無い時点で奴隷である。世界的にも「農奴」と呼ばれる階級があった。日本の百姓もそれだが、豪農や富農というのも存在した。






柿渋集団の村

| コメント(1)
忽然と消えた村、というんだが、そういう話するなら、日本の三大秘境のひとつと言われる遠州京丸の話をしちゃうぞ、いいのか? 止まらないぞw というのは置いといて、中伊豆にもこうした廃村がありまして、丸い石を置いただけの墓があったり、異様な雰囲気です。ここは水がなくて水稲栽培ができず、長年、荒れ地だったんだが、静岡市が空襲に遭って被災者が出た時に、静岡市から被災者が移り住んだ土地です。ところが、山の高地で寒くて、水利が悪いので、ロクな作物が穫れない。街の復興が進むにつれ、いつしか人は去り、おいらが見に行った頃には二軒しか残ってなかった。今では一軒もないかも知れない。

嘉永4―5年(1851―52年)に書かれた「多紀郡明細記」に「柿渋師 夙村ノモノ」の記述がある。
柿渋は、未熟な青い柿の実を砕いて絞り、その汁を発酵・熟成させて作る赤褐色の液体。防腐・防水効果や、補強、医薬品、紙布の染料など、当時は多くの利用があったとされる。
酒井さんは、「夙の人々は柿渋を製造する職人集団で、柿を求めて各地をめぐる出稼ぎの人々だったのでは」と話す。
一時期、80戸を誇る大きな村を形成していた夙村だが、嘉永年間(1848―55年)のわずか7年の間に7戸にまで戸数を減らし、さらにその後、全戸がなくなったという記述が1884年(明治17)に編さんされた「兵庫県多紀郡地誌」にある。
「わずか7年間という短期間で7戸にまで減ったのは疫病が流行ったからでは」と酒井さんは推測。自寺の過去帳から葬儀件数を割り出したところ、同時期の件数が平年の4・4倍にも跳ね上がっており、近隣のほかの寺においても高い値を示している事実から、「村の9割近くがあっという間になくなってしまうということは、やはり流行り病が原因と考えてしまう」と話す。

その後、明治中期から後期にかけて味間南で火災が続いた。あまりに相次ぐ大火に、当時の村人たちはその原因を「消滅した夙の人たちの霊を放置しているからだ」とうわさした。
そこで村人たちは、夙の村跡の掃除をしたり、夙の氏神であった加茂神社の御神体を味間南の岩上神社に、仏像(阿弥陀如来坐像)を同集落の地蔵堂にそれぞれまつるなどした(1908年)。
さらに、山中に散在していた夙の人々の墓石を1カ所に集め、毎年、秋の彼岸には地元の住職を迎えて供養をするようになった。
以来、大きな火事は起こっていないという。

さて、こちらの話は兵庫県です。農村と、その近くの非農村という関係なんだが、農村と非農村では江戸時代の支配制度が違うんですね。農民は大名とか幕府の管理下にあって、移動を禁じられていた。逃げたら「逃散」といって、処罰の対象です。その土地に住み続け、支配者のためにコメを作って税金として収めるというのが、農民のお仕事です。それが非農村では、そもそも「山の中に勝手に住んでるだけ」なので、どこに行こうが勝手。コメが穫れないところに住んでいるので、支配者にとっては興味がない。どこにでも移動し、税金を収めないw 特権階級みたいなもんだが、それだけに農民からは妬まれ、エタヒニンとまで呼ばれる。農民から見ると、職人、商人のほぼ全部がエタヒニンです。正式な支配体制に組み込まれた「日本」の正社員w それが農民w それ以外は非正規w


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