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松本清張の短編小説に、「醜面」と書いて「すべた」と振り仮名していたのを見て、「すべた」とは「ブス」の意味なのか? と疑問に思って調べると、そうらしい。ポルトガル語でカードゲームの「スペード(スペダ?)」から来たと解説されていた。
私は、「尻軽女」のことを「すべた」と言うと思っていたが、その意味で使われることもあるようだが、「ブス」の意味が主であるようだ。
ついでに、下の質問を見つけて面白かったので、載せておく。確かに「売女」と書いて「ばいた」と読ませるのは変であるが、これは疑問に思ったことも無かった。で、理由は不明らしい。質問者自身が書いているように「すべた」という言葉が関係しているとは思うが、もともと「ばいじょ」とか「ばいめ」と読んでいたとは思わない。むしろ「売春もやるような尻軽女」を、「すべた」から生まれた言葉で「ばいた」と言っていて、後で「売女」の字を当てはめたのではないか。「ばい」という言葉はかなり古くから「物売り」一般に使われたと思う。たとえば「売僧」は「まいす」と読むが、これは「ばいそう」からの転訛だろう。




売女は何故バイジョでもバイメでもなくてバイタと読むのでしょうか?

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n48********さん

2011/6/1714:05:51

売女は何故バイジョでもバイメでもなくてバイタと読むのでしょうか?

補足バイメ(バイジョ)+すべたが合わさってバイタになったのかな?




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下記記事にあるように、ジャカルタの旧名がバタヴィアだが、歴史書などにバタヴィアと出てくると、戸惑ってしまう。17世紀ごろの航海の要地で、喜望峰からバタヴィアまで船で6週間、バタヴィアから長崎まで8週間ほどかかったらしい。(これはある航海の場合の数字であり、平均的にそうだったわけではないが、参考にはなる。)







バタヴィア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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1897年のバタヴィアの地図
バタヴィア開城前のジャカルタ

バタヴィア (Batavia) はインドネシアの首都ジャカルタオランダ植民地時代の名称。インドネシア語では通常バタフィアと発音する。

解説[編集]

ジャワ島西部の北岸に位置し、古くはジャヤカルタジャカトラなどと呼ばれていたが、1619年オランダ東インド会社東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンバンテン王国からこの地を占領、堅固な要塞バタヴィア城を築いてオランダ東インド会社のアジアにおける本拠地とした。

バタヴィアの名は、古代ローマ時代に今のオランダにあたる地に住んでいたゲルマン人の一部族、バターウィー族(Batavii)に由来し、オランダ地方の古称でもある。この名称はオランダ本国でもフランス支配下のバタヴィア共和国1793年 - 1806年)として使われたことがある[1]

以後、バタヴィアはオランダ植民地時代を通じてこの名称で呼ばれた。朱印船時代の日本人は現地式に「ジャガタラ(咬吧)」と呼んでいる。

17世紀末頃のバタウィアは、優に80年の歴史を刻み落ち着いた町になっていた。城壁を巡らした地区のなかにはいくつもの砲塔を備えた政庁があり、チャイナタウンやたくさんの倉庫も築かれ、街路には小さなテラスハウスが無数に立ち並び、運河や酒場もあった。チャイナタウンがあるのは、当時オランダが日本と中国の間で中継貿易を営み、日本に中国の品物を含めて輸送する役割を担っていたからである。また、気候としては赤道直下ということもあって一年中高温多湿の町でもあり、ここへ移住してくるオランダ人はさほど満足していなかった。マラリアコレラデング熱などの熱帯病に倒れることが多かった。[2]

旧バタヴィアは、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンによって創られた。18世紀には疫病が蔓延するヨーロッパ系住民の「墓場」として、東洋中に悪名を届かせていた[3]

1808年に総督に任命されたナポレオン麾下の元帥ヘルマン・ウィレム・ダーンデルスは、バタヴィアをイギリス軍のあらゆる攻撃から守り抜くために、海岸沿いにあった城・要塞・倉庫などを放棄し、「ベネデンスタッド(下の方の町)」と呼ばれ見下されていた古くからのバタヴィアを事実上閉鎖した。そして、海からの攻撃に対して安全と考えられる内陸で、海岸より8キロメートルほど入った場所に新しい首都を築いた。新都は「ウェルトフレーデン(十分満足した)」と名付けられた[3]

1942年日本軍が占領して当地に軍政を敷いた際にジャカルタと都市名を変更し、第二次世界大戦後にインドネシアがオランダから独立した後も、スカルノ政権が日本統治時代の『ジャカルタ』の名称を引き続き使用することを決定し、現在に至っている。



「東インド会社」というのはヨーロッパ諸国にあり、その「東インド」が何を意味するのか知っている人はあまりいないのではないかと思う。下の記事に書かれたように、それは「インド」ではなく、「インド東部」でもない。要するにほとんどアジア全域を意味するわけだ。
では、東インド会社とは何かと言えば、「国家公認の対アジア貿易民間会社」であり、貿易の傍ら、国策に沿った外交関係にも働いていたと言えるのではないか。そのヨーロッパの国の出先機関が東インド会社しか無いのだから、そうなるのは当然だ。
あるいは、朝鮮半島の「任那日本府」もこれと似たようなものだったかもしれない。



(以下引用)



東インド会社の東インドはどういう意味か知っていますか?~『東インド会社とアジアの海』羽田正氏(2007)

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

  羽田氏は比較歴史学の研究家、喜望峰からバタヴィア、そして長崎にいたる海域を「商品」で結んだ東インド会社とは?(2007)

そもそも東インドとは

アフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る間に位置する海岸沿いの諸地域はすべて「東インド」と認識された。従って、現在のインド亜大陸だけでなく、アラビア半島ペルシャから東南アジアを経て中国に至るまでのアジア諸地域はすべて東インドの国々ということになる。…従って、「東インド」という言葉と「アジア」という言葉は、相当程度重なりあう。(26ページ)

 1602年オランダ東インド会社誕生

オランダ共和国政府からこの会社に特許状が与えられた。46ヶ条からなる特許状によると、オランダと東インド間の喜望峰経由の貿易は、特許状発行から21年間この会社が独占することとされた。…東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、それに現地の支配者と条約を結ぶ権利が会社に与えられた。・・・この会社のために集められた資本は一度の航海だけでなく、10年間据え置かれたということだ。…この間いったん集められた資本をどのように使うかは、会社が決定した。これは、現在の株式会社に一歩近づいた方式といえるだろう。(85ページ)

ヨーロッパの輸出商品

東インド会社を生み出した北西ヨーロッパにだけは、他地域の人々が欲しがるような特産品がほとんどなかった。・・・有力な輸出用商品を持たずしかも物価が高いという二重のハンディキャップを北西ヨーロッパの人々が克服し、アジアの海での貿易活動に参加できたのはアメリカ大陸の存在があったからである。北西ヨーロッパの人々がアジアの物産と交換した「自分たちの」商品は、主として南北アメリカという本来別の地域で算出する銀だった。(354ページ)

東インド会社を俯瞰してみると

東インド会社の行動は、例えて言えば、ほとんど元手をかけずに(南北アメリカという)人の家から持ち出したお金を使って、本来足を踏み入れることのできないはいずの店(アジア地域)の一流品を買い、それを自分の家(ヨーロッパ)に持ち出して利用したり、売却して利益を得たりしていたということである。このような行動を200年も続ければ、北西ヨーロッパが全体として豊かになり、世界をリードする経済力を身につけるのは当然だろう。アメリカの銀とアジアの物産が「近代ヨーロッパ」の経済的基盤を生み出したのである。(355ページ)

東インド会社とアジアの海

東インド会社がイギリス、オランダ、フランスで設立されて約200年、1800年までの間北西ヨーロッパは特産品を持たなかった。それを逆転させたのが18世紀末からの産業革命であった。産業革命は、東インド会社がインドから輸入した綿織物に対抗できる品質と低価格を実現させる為の努力によるものであった。

我々はヨーロッパの品々に一流、という先入観を持っている。これはあくまで産業革命以降に確立したイメージでしかないと気づく。それ以前はアジアの香辛料、綿製品、お茶、陶磁器物などが価値を持ち、ヨーロッパを圧倒していた。ヨーロッパは産業革命で形勢を逆転させる。東インド会社が活躍した1600年からの200年間、ヨーロッパは、アジア、アメリカとの交易で富を蓄えていった。東インド会社が今につながる西欧社会を形づくっていた。

ここには思想的な問題の記事はあまり書かないで、フィクション関係の記事を中心にしているが、井沢元彦の「逆説の日本史」を最近読んでいて、いつも「そいつは違うんじゃないか」という漠然とした気持ちになる記述が多く、もちろん、それ以外の部分は非常に面白く、歴史的な話をこれだけ「思想的に分析し」「自説を構築できる」のは凄いな、と思う。しかし、それだけに、「おいおい、その部分は違うんじゃないか」という記述も時々出てくるのだが、読書の途中でいちいち深く考えるのも面倒なので、その疑問は棚に上げて先を読むことになる。

とりあえず、11巻の「戦国乱世編」の中で私が疑問視した部分を考察してみる。

井沢はよくやるのだが、日本の古代史や中世史の話をしながら、その途中で近現代史や世界史の話を出して、そこに「歴史的鉄則」がある、と強調する書き方をする。しかし、歴史書に記述された内容は(ほとんどが「勝者によって書かれた歴史」であり)もともと疑わしい事柄が無数にある、ということは井沢自身が常に強調していることだ。とすれば、それらの「疑わしい事実」に井沢が自分自身の「合理的思考」で異論や反論を述べたところで、それらに「法則性がある」と言うのは無理なのではないか。要するに、法則というのは(数学も含め)「科学」の場合にしか妥当しない言葉であり、歴史に関してはせいぜいが「傾向性」としか言えないだろう。そこに、「法則」や「鉄則」という言葉を使ったら、読者に悪い誤解を与えることになるわけだ。「法則」だから俺の言っていることはすべて正しい、俺の言葉はすべて正しいから信じろ、と洗脳していることになる。

それはさておき、井沢が「歴史の法則」のような言葉を使う場合に、それは古代から現代まで一貫するものだ、という前提であるわけだが、問題なのは、それが彼の「右翼性」を強調する内容であることだ。彼がフィクションを書く分にはいくら右翼志向の人間だろうが、面白ければそれでいい。しかし、「逆説の日本史」で彼が扱っているのは「事実」である。そこに、恣意的な自分の思想を「法則」である、として紛れ込ませるのは犯罪的ではないか、ということだ。

戦争や戦闘はフィクションの好材料であり、飯の種だ。だが、だからと言って、戦争や戦闘は人間の本能であり、戦争を軽視し、まともな軍隊を持たない国は亡びる、という自分の思想を歴史的法則だ、としてはマズいだろう。現実に、日本は第二次大戦後に世界の歴史上ほとんど存在しない70年余りにわたる「戦争の無い国」であったわけだ。
もちろん、安保条約で軍事力を米軍に依存し、そのために周辺諸国から侵略されなかったのだ、という「安保タダ乗り論」を信じるならそれでもいい。では、日本が自前の軍隊を持てば、安全になるのか、というのは大いに議論をすべきところであり、強力な軍隊を持った国家はむしろ戦争に自ら飛び込む危険性が高い、というのはそれこそ歴史的法則と言えそうなほどだ。井沢自身、秀吉の朝鮮出兵を、同書の351Pから352Pで、こう説明している。(以下赤字部分)

軍隊の仕事は「戦争」である。それが侵略であれ防衛であれ、戦争あってこその軍隊である。特に前近代においてはそうだ。
ところが、平和になったということは、平たく言えばそうした軍隊あるいは優秀な兵士の働く場所も仕事も一切無くなってしまったということだ。
当然、その軍隊は次の「獲物」を求める。
アレクサンドロスが、チンギス・ハーンが、あるいはヌルハチがしたのは、そういうことで、これは必然の結果なのである。
仮に、軍隊の長が「もうやめておこう」と言っても、部下が承知しない。それでもやめろ、つまり「お前たちの仕事はもう無い」などと言ったら、いかなる大権力者でも生きてはいけない。その権力自体が軍事力、すなわち兵士の集合体によって支えられているからだ。


まさしく、これこそが歴史の鉄則と言うなら鉄則だろう。実際、アメリカが数百年も戦争ばかりしているのは戦争が「軍隊の飯の種」だからだ。その背後には軍事産業があるのは誰でも知って、それを軍産複合体と言うのも常識だろう。
ならば、ここで井沢が主張すべきことは、「自衛隊のような『戦争をしないと憲法で定めている』軍隊こそが理想の軍隊であり、さらに理想を言えば、自衛隊すら持たないことだ」となるのが理の当然だろう。
実際、「諸国民の信義に依存し」戦争放棄をした平和憲法の宣言を諸国が信任したから日本は70年あまりの平和を享受できた、と見るのが理屈で言えば正しいことになるのではないか。
いや、日米安保に守られたからだ、という意見に対しては、安保条約には日本が侵略されたらアメリカは必ず日本を守る、という条項など無い、と言っておこう。書かれているのは、日本国内どこでも好き勝手に米国は米軍基地を置くことができる、というだけの話だ。つまり、日本を軍事的支配下に置くことだけが日米安保条約の本質だと言っていい。

まだ書くべきことはあるが、長くなったので、ここまでにしておく。








確か、萩原(荻原だったか?)朔太郎が、「なぜ詩(小説なども含むか?)を書くのか」という質問に、簡潔に「復讐」と答えたという話があるようだが、下の北村薫の言葉も同じことだろう。つまり、ままにならない自分の実人生や、それをそういうようにさせた存在(神、創造主)への「復讐」であり、「抗議」であるわけだ。
私は、好きなゲームは何周もする人間だが、2周目や3周目のほうが、気楽に楽しめるのである。1周目は、「何がどうなっていくのか分からない」という不安感と共にプレーしているので、スリリングで面白い反面、「楽しさ」にはむしろ欠けるわけだ。

こういう、「2周目」的な感じは、「実人生から降りて小説世界を楽しむ」感じに似ている。実人生の苦痛や恐怖は、小説世界では単なる刺激物になり、成功感や高揚感は実人生同様に味わえるわけだ。いや、むしろ、現実人生よりも「高度な人生」が味わえるのである。我々の日常に、トルストイやドストエフスキーやバルザックやデュマの登場人物のような存在が有り得るだろうか。

最近のゲームは2周目以降に、1周目で得た経験値や道具などを持ちこして、「強くてニューゲーム」というシステムがあるらしいが、「なろう小説」の大半は、「強くてニューゲーム」精神で書かれているのではないだろうか。




(以下引用)


「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」という北村薫の言葉が、とても好きです。選ばなかった、選べなかった、与えられなかった、たくさんの「もしもの世界」に、小説を読み、また書くことで、私たちはいきられるのだと思う。








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