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(1) 茫漠の世界


いやはや、自分の身にこんなことが起こるとは。
こんなこと、とは、異世界転生だ。今時の小説には腐るほどあるシチュエーションで、もはや誰もが冒頭を読んだだけで投げ捨てる類の話である。さきほどまで都会の高校生だった人間が突然、四方すべてが平原で、山らしい山もまったく見えない場所にいるのだから、異世界に来たとしか思えないのは当然だろう。
だが、俺はそれまで自分の人生にうんざりしていたので、この奇妙な出来事にあまり悲観してはいなかった。何しろ、17歳のこの年まで、ガールフレンドひとり作れなかったどころか、好きな女の子(秀才で美人である)が学校一の不良の女だと知ったばかりで、自殺すら考えていたのである。母親は「勉強しろ」以外の言葉を言ったことが無いし、父親は家と会社を往復するだけで、いるかいないか分からないような男だ。兄はいるが、嫌な奴で、俺が生まれた時から陰で俺をいじめてばかりいたし、学校に上がってからの俺は周りの子供にいじめられてばかりいた。勉強もスポーツもできない。どうせ大学もFラン大学に入って、そこでもさえない学生生活を送り、就職も最低の職場になるだろう。まあ、要するに、ゴミのような最低の生活が待っている将来だったわけだ。
さて、それはともかく、なんでこうなったかと言うと、自分でもよく分からないのだが、学校から帰る途中で、目の前が光でいっぱいになり、気がつくと、この大平原の真ん中にいたわけだ。大平原とは言っても、少し離れたところに林がいくつかあり、巨大な畑らしきものもあるから、人間の住む世界ではあるようだ。だが、それが人類なのか、異世界人、あるいは異星人なのかは分からない。
で、実は、俺自身の体も身なりもまったく違うものになっていたのだが、それは、荒い布で織った粗末なズボンと上着に包まれた、ひどく頑健な体だった。背の高さもかなり高くなっているようだ。以前は165センチほどだったが、今は180センチ近くか、あるいはそれ以上あるかもしれない。それに、筋肉の量がまったく違う。俺はスポーツなどやったこともなく、やせっぽちだったのだが、この体なら、かなり頑健な人間であるのは確かだろう。
だが、残念ながら、俺は百姓に転生したらしい。その証拠に、目の前に鋤があるのだ。変わった形の鋤だが、全体の形状でその道具の役目は分かる。
せっかく異世界に来ても、英雄は俺の仕事ではないようだ。


何はともあれ、この世界がどういう世界で、ここでどうして生きていくかが問題だ。
何となくだが、ここはロシアか、その近辺の国ではないか、と思った。そして、自分の着ている服の生地の織り方の荒さから、かなり貧しい国か、あるいは古い時代のような気がした。
なろう小説の異世界転生物なら、異世界に行っても言葉は通じるし、特異能力を持って転生するのが普通だから気楽なものだが、たとえばふつうの人間が外国の土地に無一物で投げ出されたら、そこが現代の世界でも生きていけるか怪しいものである。
そもそも、この世界に人間はいるのか、そして俺の言葉は通じるのか、そこが第一の問題だ。

時刻は真昼らしい。頭の上の青空に太陽が輝いている。そして季節は春らしい。風や空気や空の色がそういう感じだ。まあ、真冬や真夏でなくて良かった。いや、この世界に四季があるのか分からないが、こういう気候が続くなら、生きるのには好都合である。
畑の作物が何なのか、俺には分からない。都会生まれ都会育ちの人間なら当然だ。その畑を耕すのが俺の仕事なら、つまり異世界の百姓に転生したとしたら、これはかなり冴えないシチュエーションで、小説なら誰もこれ以上読まないだろうが、あいにく俺はこの世界で生きていくしかないし、百姓としてしか生きられないならそうするしかない。

「グレゴーリー!」

と後ろから声がして、俺は振り向いた。俺以外には誰もいないのだから、その声は俺を呼んだのだろうと思ったのだが、その発音が、まったく日本人の発音ではないのに不安も感じていた。

俺から100メートルほど離れた小さな木立の傍にひとりの少女が立ち、俺に手を振っていた。









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生涯[編集]

出生から帝都進出まで[編集]

ラスプーチンと子供たち

1869年1月9日、シベリアの寒村ポクロフスコエ村の農夫エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチンとその妻アンナ・パルシュコヴァの第5子として生まれる。翌10日に洗礼を受け、ニュッサのグレゴリオスから名前を授けられ、「グリゴリー」と名付けられた[3]。ラスプーチンは学校に通わなかったため読み書きが出来なかった(1897年のロシア政府の国勢調査によると、村人の大半が同様に読み書きが出来なかった)[4]。 素行不良で粗暴な若者へ育ったグレゴリー青年はロシア正教会スコブツィ教派の教義[5]に傾倒、指導者としての頭角を表す。幼少期のラスプーチンについて、娘のマリア・ラスプーチナが記録を残しているが、彼女の記録は信頼性が低いと見なされている[6]

1887年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚するが、1892年、唐突に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した[7]。一説では、野良仕事をしているとき生神女マリヤの啓示を受けたといわれている。出奔後はヴェルコチュヤ英語版の修道院で数か月過ごしたが、その際に出会ったミハイル・ポリカロポフイタリア語版に強い影響を受け禁酒し肉食を控えるようになり、村に戻って来た時には熱心な修行僧になっていた[8][9][10]

左からラスプーチン、ドルガニョフ、ビストロフ(1906年)

1903年に再び村を離れ数か月間巡礼の旅に出かけキエフ・ペチェールシク大修道院を巡り、カザンでは司教や上流階級の人々の注目を集める存在となった[11][12][13]。ラスプーチンは十分な教育を受けていないため、独自の解釈で聖書を理解していたが、その熱心な姿勢が好感を与えていた[14]。その後、ラスプーチンはクロンシュタットのイオアンと共に教会建設の寄付金を集めるためにサンクトペテルブルクを訪れ、サンクトペテルブルク神学校英語版セルギウス1世英語版に寄付を求めた[15]。サンクトペテルブルク滞在中のラスプーチンはアレクサンドル・ネフスキー大修道院に宿泊していたが、彼の心理的洞察力に感銘を受けたワシーリー・ビストロフ英語版に請われ、彼の宿舎に移り住む。

ロマノフ家の語学教師だったピエール・ジリヤール英語版によると、ラスプーチンがサンクトペテルブルクに来たのは1905年とされるが、歴史家のヘレン・ラパポート英語版は1903年の四旬節の頃と主張している他、1904年という説もある[16][17][18]

皇帝夫妻の友人[編集]

アレクサンドラ、アレクセイ、四皇女(オリガタチアナマリアアナスタシア)とラスプーチン(1908年)

サンクトペテルブルクに出たラスプーチンは、人々に病気治療を施して信者を増やし「神の人」と称されるようになり、神秘主義に傾倒するミリツァ大公妃アナスタシア大公妃の姉妹から寵愛を受けるようになり[19]1905年11月1日に大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后に謁見した[20]。当時のロシア貴族の間では神秘主義が広く浸透しており、アレクサンドラも神秘主義に傾倒していた[21][22]

1906年10月、ニコライ2世の要請を受け、爆弾テロにより負傷したピョートル・ストルイピンの娘の治癒に当たり、1907年4月にはエカテリーナ宮殿に呼び出され、血友病患者であったアレクセイ皇太子の治癒に当たった。医師たちはラスプーチンの能力に懐疑的だったが、彼が祈祷を捧げると、翌日にはアレクセイの発作が治まって症状が改善した[23][24]。ギラードと歴史家エレーヌ・カレール=ダンコース、ジャーナリストのディアムルド・ジェフリーズは、ラスプーチンの治療法は1899年以降流通したアスピリンの投与による鎮痛治療だったと推測している[25][26][27][28]

血友病を治癒したことで、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになったが、多くの人々はラスプーチンをペテン師だと考えていた[29]。侍医のエフゲニー・ボトキンウラジーミル・デレヴェンコ英語版はラスプーチンの能力は催眠術だと信じており彼を皇帝一家から遠ざけようとし、フェリックス・ユスポフピョートル・バドマエフから入手したチベット・ハーブでアレクセイを薬漬けにしたと考えていた[30]。しかし、ラスプーチンは1913年以前には催眠術に興味を抱いておらず、また、ユスポフの主張も現在では否定されている[31][32][33]

1912年10月9日、皇帝一家はビャウォヴィエジャの森に狩猟に来ていたが、そこでアレクセイの病状が悪化した[34]。皇帝一家はスピア英語版に移り治療を行い、アレクサンドラはペテルブルクにいるラスプーチンに助言を求めた[35][36][37]。翌10日、ラスプーチンは「小さな子が死ぬことはありません。しかし、私が治療するのを侍医たちが許さないでしょう」と記した手紙を送っている[38]。ラスプーチンの助言通りにアレクセイは死ぬことはなかったが、病状が回復するのは1913年に入ってからだった。

怪僧[編集]

ラスプーチン(1910年)

やがてラスプーチンはアレクサンドラはじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の巨根と超人的な精力によるという噂が当時から流布しており、実際に彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が呆れ果て、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載するほどであった。しかし、貴族たちは次第にラスプーチンが皇帝夫妻に容易に謁見できることに対して嫉妬心を抱くようになった[39]。サンクトペテルブルクではアパート5部屋を借りて家族と共に暮らしていたが、家賃はアレクサンドラ又は信者のアレクサンドル・タネエフ英語版が代わりに支払っていた[40][41]

1907年9月にトボリスクで開かれた教会裁判において、ラスプーチンはフリスト派英語版を信仰しており、偽の教義を広め女性信者とキスや混浴をしたとして非難された[42][43]。しかし、地元の司祭たちがラスプーチンを連れ出そうとした時には、既に彼はトボリスクを離れており、フリスト派との関係を示す証拠も発見されなかった[44][45]。このような醜態は新聞によって大々的に報道され、ラスプーチンの理解者だったビストロフも彼から離れ、ストルイピンも帝都からの追放を画策していた。

1911年初頭に、ニコライ2世はラスプーチンに巡礼団の一員になるように指示した[46]。ラスプーチンは巡礼団に加わり生神女就寝ポチャイフ大修道院に向かい、その後はコンスタンティノープルイズミルエフェソスパトモス島ロードス島キプロスベイルートトリポリヤッファを巡り、四旬節に聖墳墓教会に到着した[47]

ラスプーチンと信者の女性たち(1914年)

1912年初頭、ゲオルギー・ドルガニョフ英語版はラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したと主張した。ラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したことは事実と見られているが、言動にフリスト派の影響を受けたと思われる点は確認されていない[48][49]。また、この時期には「ラスプーチンとアレクサンドラが愛人関係にある」という噂も流れた[50]。噂に基きミハイル・ロジャンコはラスプーチンに帝都から出て行くように要求した[51][52][53][54]他、首相ウラジーミル・ココツェフはラスプーチンを「亡命」させるようにニコライ2世に進言したが、拒否されている[55]。トボリスク司教はラスプーチンを「皇室とロシア正教会の仲介者」と好意的に見ていたが、大半の司教たちは反感を抱いており、聖務会院はラスプーチンを「不道徳者」「異端者」「エロトマニア」などと非難した[56][57]。この頃、ラスプーチンはロシアで最も嫌われる人物の一人となっていた[58]

ラスプーチンの言動はドゥーマでも問題視され[59]、1913年3月にアレクサンドル・グチコフ率いる10月17日同盟がラスプーチンの調査を行うことになった[60][61]。しかし、トボリスク司教は調査への協力を拒否した[62]他、ニコライ2世もラスプーチンの身を案じて調査の中止を命令した[30][63][64]1914年1月29日、ニコライ2世はココツェフを解任し、イワン・ゴレムイキンピョートル・バルク英語版を後任の首相・大蔵大臣に任命した。

暗殺未遂[編集]

入院中のラスプーチン(1914年)

1914年6月29日午後3時、ポクロフスコエ村に帰郷していたラスプーチンは自宅でキオーニャ・グセヴァ英語版に襲われた。キオーニャは顔を黒いハンカチで覆い、短剣でラスプーチンを殺そうとした。ラスプーチンは腹部を刺され自宅から飛び出し、地面に落ちていた棒で反撃した[65]。ラスプーチンは近隣から医師が来るまで自宅に留まり、翌30日午前0時に医師が到着し治療を受けた[66]

4日後、ラスプーチンは妻子に伴われて船でチュメニの病院に移送された。知らせを聞いたニコライ2世は直ちにチュメニに医師団を派遣し手術を受けさせた[67]。7週間後の8月17日、回復したラスプーチンは退院し、9月中旬にペトログラードに到着した[68]。娘マリアによると、ラスプーチンは暗殺未遂の主犯は彼を批判していたセルゲイ・トルファノフ英語版ウラジーミル・ドズコフスキー英語版だと信じていたという(キオーニャはトルファノフの信者だった)[69][70]。しかし、トルファノフはキオーニャからラスプーチンの暗殺を進言された際に拒否していた[71]

10月12日、トルファノフは殺人扇動の罪で告発されたが、検察官は非公開の理由で起訴を取り下げた[72]。また、キオーニャは異常者としてトムスクの精神病院に収容されたため、裁かれることはなかった[73][74]。この事件を最後にラスプーチンを公然と批判する勢力はいなくなった。ストルイピンは既に暗殺され、ココツェフは失脚、ビストロフとドルガニョフは追放され、トルファノフも逮捕を免れるためマクシム・ゴーリキーの助けを借りて逃亡していた[75]

重さと質量は異なる概念で、また個別の質量はその物の体積だけでなく密度とも比例関係にあるから、質量=体積というわけでもないようだ。質量の定義としては「その物体の動かしにくさの度合い」とされているようだが、現実には重さの単位を質量の単位としても用いるようだから、物理を学ぶ学生は最初の最初から頭が「?」状態になるわけで、物理の授業を五里霧中の中で聞いて行くことになる。なまじ厳密な思考をしようとする人間は、物理に拒否反応を持つかと思う。下のウィキペディアの記述は親切な説明だとは思うが、それでもすっきりと腑に落ちる感じになれない人は(私も含めて)多いのではないか。
まあ、とりあえず、「重力質量」と「慣性質量」の違いを最初に教え、質量とは(定義から見て)本来は慣性質量だが、同じ場所(たとえば地球上)では便宜的に重力質量を用い、それは「重さ」の単位で表す、と教えればいいのではないか。(私は重力質量と慣性質量をそう理解したのだが、間違いだろうか。)





質量の概念[編集]

より正確な記述は後述することにして、「質量の概念」や「質量・重量(重さ)の違い」について概略を述べる。

バケツやコップに水を注ぐと、注いだ分だけバケツやコップの重さが増す。このことは、容器を変えても同様であり、水の量(体積)に応じて水の重さが変わることが分かる。また、同じ容器に水ではなく水銀などを入れると、同じ大きさの容器かつ同じ体積であるにもかかわらず、入れた物質によって「重さ」が異なることが分かる。このように、物の重さはその物の種類と量によって異なり、逆に同じ重さであっても異なる種類と量の物を用意することができる。このことから、様々な物体に共通する、物体の重さを支配する量が存在すると期待できる。後述するように、このような役割を果たす物体固有の量が、質量である。

物を支える際に感じる「重さ」以外にも、物を動かしたときにもその物体の「重さ」を感じることができる。台車に荷物を載せて運ぶ際、台車を動かし始めるときや動いている台車を止めるとき、たとえ同じ速さで台車が動いていたとしても(あるいは動いていなかったとしても)、台車に載せた積荷の量によって感じる手応えは異なる。このように、物体の動かし難さとしての「重さ」が存在し、それは物体の種類と量によって異なるため、先ほどの場合と同様に物体がある種の「質量」を持っていると考えられる。

物体を支える際に感じる「重さ」は、その物体を支えるものがなければ物体は落ちていってしまうので、物の落下する性質に関係する。物体が落下しようとする力を重力と呼び、これに関係する質量を重力質量と呼ぶ。重力質量の大きさは天秤を用いて測ることができる。同じ重力質量を持つ物体同士は重さも等しいので、天秤に載せると互いに釣り合う。基準となる物体を用意することで、基準に対するとして重力質量が定まる。

物体を動かす際に感じる「重さ」は、静止している物体は静止し続け、ある速さで運動する物体は同じ速さで運動し続けようとする性質、すなわち物体の慣性に関係する。これに関連する質量を慣性質量と呼ぶ。慣性質量は、たとえばハンマー投げのように物体を円運動させたときに感じる手応えによって知ることができる。慣性質量の異なる物体を同じように円運動させたとき、慣性質量が大きいほど円運動を維持するのに必要な力は大きくなる。

経験的に、慣性質量の大きな物体は重力質量が大きい、つまり「地球の重力で引っ張られて重い」(持ち上げにくい)と感じられる物ほど、「無重力状態でも動かしにくい」ことが知られている。この事実から、慣性質量と重力質量の違いに因われることなく、物体の重さを感じることができる。この慣性質量と重力質量の関係性を直接的に示すものが落体の法則である。落体の法則によれば、自由落下する物体の運動は、物体の重力質量に依らず同じであり、このことから重力質量と慣性質量が等価であることが導かれる。重力質量と慣性質量の等価性から、両者を区別することなく、単に質量と呼ぶことができる。この現象は、基本的には一般相対性理論等価原理によって説明される。

「BLOGOS」所載の記事で、筆者は編集者らしいが、文芸全般においてのクリエイター志望の人間にとっては非常に有益な記事である。編集者の黒い腹積もりも正直に書いている。

(以下引用)


「アニメ化を断った話」を考えた話

なんかアニメ化断念作家の話が周囲で話題になっていた。これなんだが。新人作家が編集者に翻弄された経緯を綴ったエッセイで、一読した印象としては無残な感じだ。

このエッセイに対し、「これは編集者あるあるである」的な感想を残している方がいる。それは正しい面もあるが、厳密には間違いなので、編集者である私の感想など書いておこうかなあと。

まず編集者といっても、担当媒体でかなり行動原理が違う。私は雑誌系編集者だが、著者(ライター)からのメールを1か月放置するなどあり得ない。当たり前だが、それでは月刊誌だろうが週刊誌だろうが本が出ない。

雑誌編集者なら1日100本以上は普通にメールを処理するはず。たとえそうでも締め切りで忙しくても、基本的には数時間以内には返答メールを出すはずだ。結論を出すのが難しい案件であれば、「今はわからないが、多分1か月後には」な「今締め切りで忙しいので、10日待ってくれ」等、期限を相手に伝えるのは当然だし。

当該エッセイを見る限り、それは「文芸編集者」特有(しかも割と一部というか、ライトノベル限定)の行動でしかないと思える。

ライトノベル作家を志した場合の金勘定については6年ほど前に書いたので、興味があれば読んでもらいたい。いろいろな背景があり、現在では初版部数とかはもっと減っているようだが。

私は文芸担当になったことはない。だが周囲の編集者からの情報などがあるので、ある程度は推測がつく。なので以下、解説していこう。あくまで推測なので、このエントリーを事実として信じないように。フリーランスの物書きとして生活したいなら、いろいろな情報から、自分なりの教訓を抽出するべきだ。

こうした「作家なおざり編集」の話を読み解く場合、まず留意すべきは、編集者の行動様式だ。

考えてみてほしい。文芸部門編集者が目指すのは、売れる小説を担当することだ。それが担当媒体のためになるし、自身の社内評価にもつながる。そのために売れっ子に媚を売ったり、見込みのある新人を育てたりする。そこまではわかってもらえると思う。

特にライトノベル編集者の場合、作家の使い捨て度合いが激しく、そもそも小説としての完成度よりアニメ化・コミック化での成功を求められるので、この傾向が極度に強調される。

こうしたライトノベル編集者がどう行動するか、考えてみよう。

まず、新人には優しい。なぜなら、新人は今後売れるか売れないかが、まだわからないからだ。うぶな新人に好感を持たれれば、売れたときに自分の駒にできる。だから優しい。

次に、デビュー後、あまり売れなかった作家に対して、彼らがどう対応するか。門前払いはしない。なぜなら、今後、一発大逆転で売れるかもしれないから。といって、自社で先頭を切って小説を刊行するのは躊躇する。理由はもちろん、前作が売れていない以上、次の作品も売れない可能性が高いからだ。

ではどうするか。万一、他の出版社でその作家が売れたときのために、キープだけしておくわけさ。具体的には、プロットを求め、なるだけ時間をかけてああでもないこうでもないと、引き延ばす。あるいは実作を受け取り「出版できるか会議にかけてみるよ」と、宙ぶらりんの状態に置いておく。

「読んでくれました?」「会議はどうでした?」という問い合わせには、返事をしない。限界まで放置しておいて、「すみません忙しくて返事が遅れました」などと回答し、またプロットにダメ出ししたりして、時間稼ぎに入る。

こうして、1年でも2年でも、作家と作品を塩漬けにする。その間に、その作家がブレイクして忙しくなれば、急遽、そのプロットなり原稿なりで出版する。完全に切れてしまっては、そうした臨機応変な対応ができない。作家からしても、「あのとき冷たくあしらわれたのに、売れたら手のひら返しかい」と、心情的な反発が出てしまうし。

で、その作家の再ブレイクがなければ、メールを放置するなどして、自然消滅に持ち込む。

――とまあ、こうなる。当該作家のエッセイを読む限り、このパターンの典型に思える。

たしかに私個人としても、そんな編集者は屑だと思う。最低でも連絡は即日返ししろよと。だが編集者に限らず、皆さんご存知のとおり、周囲を見回せば、どんな仕事でもいい奴と屑がいる。

アニメ化云々も同様。アニメのプロデューサーは、言ってみれば上記編集者と同じ行動原理だろう。つまり「売れる前からとにかく多くの作品に声だけ掛けておく」って奴よ。売れてから声を掛けるのでは、他社に遅れを取って権利が取れないからだ。だからたとえばその年3本のアニメを計画しているとしても、声だけは30作に掛けておくとかね。

それで小説が実際売れたら「この間の話のように、うちが進めます」と進む。売れなかったら、なんだかんだ理由をつけて自然消滅に持ち込む。

そんな流れではないかと思うわ。

この作家の方に限らず、この手の対応にあった人に助言したいのは、編集者なりアニメプロデューサーが「あなたの作品は最高です」「一生ついていきます」「監督が忙しくて」「今は難しいです」「ここの展開が駄目です」「古臭い」などと言われても、いちいち本気にしないことだ。

褒められようがけなされようが、所詮、赤の他人が、自分の利益のために嘘ついているだけと思ったほうがいい。自作の評価に入れ込みすぎると、精神面が危うくなる。一歩引いたところから、すべての状況を眺めておくことだ。最悪、兼業作家から趣味作家に戻るだけの話。飯のために他に仕事を持つという意味では、たいして違いはない。そのくらい冷徹に事態を把握しておけばいい。

本来、アニメ化打診だろうがプロット提出だろうが、作業を依頼してきた相手には、「期限つきの映像化優先権」「期限つきの出版検討権」などを有償で販売するべきだろう。ただ今の日本の現状でそうした慣習があるとは思えない。このあたり、新人作家が出版社と直接対峙するのは難しい。作家の利益を最大化する、出版エージェントと契約すべき時代なのかもしれない。

実際日本でも、出版エージェント事業は博報堂をはじめ、いくつかの企業が始めている。ただまだビジネスとして順調に立ち上がっているとは言い難いのが残念だ。

昔、ドストエフスキーの「作家の手帖」をざっと見たことがあったが、設定や粗筋はほとんど書かれてなく、いろいろなシーンでの人物の対話などが主だった記憶がある。だから、研究者でないと、書かれた断片がどういう作品に反映されているか、読み取れないと思う。しかも使われなかった断片が大半だったのではないか。しかし、そういう作業を通じて、「生きた人間」が生まれてくるのだと思う。
たとえば、イヴァン・カラマーゾフの語る「大審問官」の話など、作者自身のキリストやキリスト教への普段の思索が結晶したものであって、話の都合で作った、いわゆる、娯楽ジャンルの創作におけるギミック(うまい手、からくり)ではない。そこがエンタメと純文学の相違でもある。たとえば、ゲーテの『ファウスト』は、悪魔との契約という設定は昔から御伽噺にあるものだ。だが、「この世で生きることの最高の果実は何か」というのは哲学問題であり、多くの御伽噺には哲学は無く、単に「この設定で聞き手を面白がらせよう」というレベルで終わる。つまり、「文学」にはならない。設定自体の面白さは、小話にしかならないのである。もっとも、その切れ味によっては名作短編になるが、設定自体が長編でなければ表現できないようなものの場合は、物凄い忍耐力、馬車馬的努力が必要になる。
私も、設定を考えるのは好きだが、完成させた少数の作品は、発作的な創作衝動で、一気に書き上げたものばかりであり、設定から作ったものはほとんど無い。
その反対が、なろう小説やなろう小説から作られたアニメだろう。これらは設定から出発し、アニメやゲームのお約束のデティールを詰め込み、馬車馬的努力で長々と続けただけのものだとしか私には思えない。もちろん、それらは「ここではないどこかへ」行ってしまいたいという近現代人の「実存の悩み」のお手軽な救済だから需要は大きいのである。

たつき監督の「ケムリクサ」はかなり前(7年ほど前?)から自主制作アニメとして「プロトタイプ」が作られており、それを、新たな要素を加え、再構成することでワンクールのテレビアニメにしたものである。要するに、アイデアと試作品と完成品の間に普通人では耐えきれない長い時間が横たわっているわけだ。ひとつのアイデアを反芻し、完成品として作り上げるまでにはそれだけの時間と努力がかかるわけで、これが制作委員会方式アニメでは決定的に欠けている部分でもある。「けものフレンズ2」のいい加減さとの対比があまりに明白だったから、ネットで「けものフレンズ2」はあれほど叩かれたのであり、実はあの程度のいい加減なアニメは腐るほどあったと私は思っている。いや、そういうアニメのほうがはるかに多いのであり、むしろたつきは現代アニメ界の「異端者」だろう。もちろん、私はその異端者を尊敬し、応援する。




設定やお話しから作って、説明役として登場人物に全部しゃべらせるという、全部、創作の逆を行ったための結果だよな。 

条件が与えられているにしても、その中で『何を見せるのか』『そのために必要なキャラクターは』という『創る』方向に動けなければ、ただ並んだ要件を語るだけで、何も生まない。

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