一点透視は理屈としては辻褄は合うけど、人間の目は魚眼的なので、一点透視は人間の見た景色とは異なります。
一点透視ではよそよそしくて、心理的なリアリティから遠去かるんですよね。
この二つの消失点を持つ"絵の嘘"は、人の目で見た魚眼的な見栄えに近づき臨場感を得られます。
たとえば、「ロミオとジュリエット」というのは、主人公の恋人たちが、お互いの家の敵対関係という客観関係を無視して、恋愛という主観を突き進めた結果の悲劇であると見做せる。
ほとんどの悲劇は、主人公の感情という主観が、周囲の客観的情勢とぶつかっている。そこに、周囲の人物の主観とのぶつかりあいも生じる。つまり、「主観対主観の相剋」という面もあるわけだが、だいたいにおいて強烈な感情を持っているのは主人公側であり、主人公が仏教的な諦念を信条としていたら、悲劇的な物語はまったく生まれないだろう。たとえば、自然災害では大量の人間が死ぬが、それ自体が物語性を持っているわけではない。その前の、幸福な生活の断絶が悲劇なのである。幸福とは感情、つまり主観によって生じるものだ。それが自然という客観の前に滅びるのが悲劇なのであり、大量死そのものは、人間が蟻の巣穴に水を流し込むのと変わりは無い。
私が物語を書くのが苦手なのは、人間の感情というもの自体があまりに主観的すぎて共感できないからかもしれない。人物を人形として扱って物語を書く、推理小説などは、それはそれで「文学的感興」には欠けるわけで、やはり芸術というのは、才能豊かな作家が作った世界を観客として楽しむのが私には合っているのだろう。別に人物が喜怒哀楽の行動をしなくても、たとえば梶井基次郎の作品のように、「感覚や超感覚を刺激する」作品もあるわけで、芸術というのは、やはり凄い世界だと思う。
今気づいたが、「客観」を引っくり返せば「観客」になるのが面白い。観客は出来事を第三者の客観的立場から見ることで、事態の喜劇性や悲劇性を「気持ちよく」楽しむわけである。
つまり、ロシアの民衆を農奴的状態から救い出したのがロシア革命であり、スターリンはソ連がもっとも困難な時期に見事に(もちろん、その強権的部分が西洋側から非難されてきたわけだ。)国家経営を行ってソ連を大国にした。レーニンは、いわばロシア革命の途中から出てきて手柄を奪っただけの存在にすぎない。あるいは、ただの思想家だ。そして、ゴルバチョフは、その大国ソ連を崩壊させた最大の張本人であるわけだ。
(以下引用)
そして、本書を読んで、教えられるところは多々あったのだが(たとえば、現在のロシア人がもっとも尊敬する歴史的人物はスターリンで、二番目がプーチン、三番目がプーシキンで4番目がレーニンで、最悪がゴルバチョフであるとか)、文学的観点からロシア革命、あるいはソ連という国家を論じるという行き方に強烈な違和感を感じた。それで、以下、その違和感が何によるのかということを少し考えてみたいと思う、
もちろん、「一点透視」が嘘というのではないが、頭で考えた「もっともらしい理屈」を金科玉条にしてしまった感がある。人間の目は魚眼的というか、二つあるのだから、そのそれぞれの視点による消失点があり、その二つの消失点は一致しないのが、実は「本当の見え方」なのだろう。
で、この「常識(正論や定理)の嘘」は、絵画以外でもたくさんありそうだ。
私は怠けるのや遊ぶのが好きだが、それではカネにはならないwww また、芸術は好きだが創造的才能が無い。だからサラリーマンを長い間やっていた。それで正解だったと思う。顔は大ハンサムだが、演技の能力や当意即妙の会話の能力が無いので俳優にもタレントにもならなかった。これも正解だっただろう。カネは欲しいが有名人になってプライバシーを無くすのが嫌いだったので、なるべく平凡な(無名人の)人生を送ろうと思ったが、これもたぶん正解。世のなかのことは、見かけと内実は違うのである。何かを得た人は別の何かを失っているものだ。
- 山本貴嗣さんがリツイート
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全然関係ないけどマツコさんの番組で「チャーハン作るの苦痛だから注文できるだけしないでくれ」って書かれているのにチャーハンが大人気っていうラーメン屋を紹介してたな。山口県だったかな。
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平田先生なら私はいいですw「よくぞ描いてくださいました」しかないですw 感謝合掌。
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こんな仕事別に好きじゃないけど食うためにやってる、っていうのは記憶違いでなければ時代劇マンガの大巨匠・平田 弘史先生も昔インタビューで言っておられたような気がします。結局それを言っても人が「あの人ならいいや」って思える境地に行った人が言ったかどうかの問題なのかもしれませんw
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「トゥーランドット」がお姫様の名前であること、その姫が冷酷な性格であることなどは分かったが、その冷酷な姫が国民に出すお触れが「誰も寝てはならぬ」であるのに、この歌自体は姫の求婚者カラフ(演者はテノール歌手)の歌であるのが少し変である。その冷酷な姫に求婚する男も物好きだ。求婚者たちに美しい姫が難題を出す話自体は「かぐや姫」に似ている。
誰も寝てはならぬ
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『誰も寝てはならぬ』(だれもねてはならぬ、伊:Nessun dorma)は、ジャコモ・プッチーニ作曲の歌劇『トゥーランドット』(伊:Turandot)のアリア。テノールのための名アリアとして有名であり、世界的には歌い始めの歌詞から『Nessun dorma』の題で親しまれている。日本においても「Nessun dorma」を和訳した『誰も寝てはならぬ』が通称となっている。
概要[編集]
このアリアは最終幕である第3幕で、カラフによって歌われる。第2幕において、カラフはトゥーランドット姫への求婚者にだされる3つの難題を見事に解決した。それにも関わらず、姫はカラフとの結婚に難色を示す。そこでカラフは自分の名前を夜明けまでに当ててみせれば、結婚を諦めて命を捧げようと申し出る。ただし、名前を解き明かせなかったら、カラフとの結婚を姫は承諾しなければならない。そこで冷酷な姫は自国の国民に対し、カラフの名を解き明かすまでは寝ることを禁ずるというお触れを出す。そして、もし誰も解き明かせなかったら、国民を皆殺しにすると言う。
第3幕は夜の時点から始まる。カラフは一人、宮殿から月に照らされた庭に出る。そこでトゥーランドット姫のお触れを聞く。ここでアリア『誰も寝てはならぬ』がカラフによって歌われる。
歌詞[編集]
イタリア語(原文) | 和訳 |
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<<Il principe ignoto>> |
<<名の知られていない王子(カラフ)>> |