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災難は災難だろうが、床に溢れた水と油が作った模様は素晴らしい抽象絵画なのではないか。
下手に人間の手や拙劣な知恵が入らないほうが素晴らしい造形を自然は見せる。





さんがリツイート

大町町の野口さんから投稿された写真です。水と一緒に家の中まで油が入ってきてます。








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勝海舟が坂本竜馬と面会した西郷隆盛の感想を竜馬に聞くと、「大きい鐘のような人物でした。小さく突くと小さく鳴り、大きく突くと大きく鳴る」と評し、その評について「評するも人、評さるるも人」と言った、(「氷川清話」にあったと思う。)その話を思い出す。


スタンリー・キューブリックは「映画史上で見るべき作家はエイゼンシュテインとチャップリンだが、エイゼンシュテインはスタイルが100点で内容は0点、チャップリンは内容が100点でスタイルが0点、どちらもダメだ」と言っていた。

絶版と在庫切れとは別だということになっていると思うが、在庫切れのまま増刷しないなら、それは絶版と同じである。そして、出版社が出版の権利だけ持ち続けるのは作家(漫画家、挿絵画家含む)にとっては「飼い殺し」状態である。この理不尽な慣習は早く辞めさせる必要があるのではないか。まあ私は出版業界については素人で無知だが、下のツィートの中の税務署の方針も出版社もどこかおかしい。「売れる可能性のある商品」は資産である、というのは原則としてはそうだろうが、(不良)在庫になっているというのは、売れる可能性がゼロに近くなったもので、それは商品価値がゼロであると見做すべきではないか。少なくとも、出版業側から見れば、出版後1年以内に売れない商品は不良在庫で資産価値ゼロと見るべきかと思う。
「断裁」という無慈悲な行為がなぜ行われるかということを私はひとつの謎と思っていたのだが、それは税務署対策だったのだな、と下のツィートで理解できたと思う。税金徴収というのは、いわば日常生活の裏で行われる残酷行為(小市民を苦しめる行為)だから、あまり人は公にしないのだろう。



長い記述なので文学などへの影響その他は略。



キルロイ参上

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ワシントンD.C.第二次世界大戦記念碑に見られるキルロイ参上の落書き

キルロイ参上(キルロイさんじょう、Kilroy was here、キルロイ・ワズ・ヒア)は、アメリカ大衆文化などで見られるのひとつ。の向こうから長い鼻を垂らして覗く姿を伴った落書きとして描かれることが多い。その起源は諸説あるが、少なくとも第二次世界大戦の頃にはアメリカの各所で見られた。

概要[編集]

このフレーズはアメリカ軍軍人が配備先や野営地などの壁または適当なところに書いた落書きが広まったとも言われ、 英語ことわざ辞典『Brewer's Dictionary of Phrase and Fable』 は、少なくともイギリスではアメリカの空輸軍団員が用いたと推測している。作家のチャールズ・パナティは「このいたずら感にあふれたツラとフレーズは国民的ジョークになった」と語り、続けて「これのとんでもないところは台詞にあるのではなく、予想外なところにまで現れる奇抜さにある」と述べている。

同じ構図のいたずら書きには、イギリスでは壁の向こうから覗きながら文句を垂れる「チャド」(Chad)と呼ばれるものもある。戦前のオーストラリアでは児童を中心に「キルロイ」の代わりに「フー」 (Foo) が登場したものが流行った。また チリにも同じようなものがあるが、こちらはカエルのような飛び出た眼から「サポ」(sapo、ヒキガエルの意)と呼ばれる。この他にも、カナダでは「クレム」、カリフォルニア限定で「オーバービー」なども見られた。最も流行した「キルロイ」を含めこれらは第二次世界大戦の記憶が薄れた1950年代には廃れたが、フレーズおよび落書きは古典的ミームとして、しばしば用いられることがある。

発祥の説[編集]

J・J・キルロイ説[編集]

有力な説のひとつに、アメリカの造船所で働いていた検査官「ジェームス・J・キルロイ」が起源というものがある。第二次世界大戦中、彼はマサチューセッツ州クインシーベスレヘム・スチールフォアリバー造船所で、検査したリベットにチョークでつける印としてこのフレーズを用いたと言われる。工員は据付けたリベットの数に比例して賃金が支払われたため、印を消して二度カウントされようとする画策が横行した。キルロイは対抗上消しにくい黄色のクレヨンを用いるようになり、このサインは時が経過してもなかなか消えず残る結果になった。この頃、船は細かな箇所までは塗装されず軍に納品されていたため、特に通常は封鎖された区域などに整備のため立ち入った軍人たちは、殴り書きされた謎の署名を見つけるに至った。その多さと不可解性から、軍の中で「キルロイ」と彼のフレーズは一種の伝説として形成されたと思われる。そして、進駐地や作戦などで到達した場所にこのフレーズを残したと想像されている。 ニューヨーク・タイムズは、1946年頃に船を建造した印としてキルロイが残したサインであるとの記事を掲載した。その根拠として、封鎖区画など後に落書きをしようとする輩が決して立ち入ることが出来ない場所にあることを強調し、誰かに見せる目的で記したものではないと説明した。

1946年、アメリカの運輸会社が「キルロイ」なる人物を見つけた者に路面電車1台を賞品として探すイベントを開催した。J・J・キルロイは職場の同僚にかつぎ出されて名乗り出たが、応募した他の40人ともども本物の「キルロイ」と証明する術は彼には無かった。それでも賞を授与されたが、J・J・キルロイはたまたま家の前で遊んでいた9人の子供たちに賞品を譲り渡した。[1]

Michael Quinion はこの「キルロイ」のフレーズと、別な発祥を持つ「チャド」の落書きが混ざり合い、現在多く用いられる図柄になったと主張している[2]。この「チャド」は出典がはっきりしており、第二次世界大戦前のイギリスの漫画家、ジョージ・エドワード・チャタトンによる創作とみなされている。戦争中の物資や配給不足を皮肉り、壁の向こうから「なんでまた…が無いの?」「一体…はどこに?」[3]とつぶやく図はイギリスでは広く知れ渡ったものだった。戦後の1950~60年代には広告に用いられる例もあり、屋内トイレ設置工事のポスターに「なんでまた家の中にトイレが無いの?」というコピーとともに使われたりもした。

この異説としては第二次大戦中のデトロイトにあった弾薬製造所に勤めたキルロイが、やはり完成した爆弾にこのセリフを書き込み、これが戦争中に広まったというものもある。[4]

恋人を待つ男説[編集]

やはり第二次大戦時を舞台に、ボストンの造船所で働くアイルランド人のキルロイを起源とする説がある。J・J・キルロイと同じくリベットの点検職に就いていた彼のところにも召集令状が届いた。彼は毎夜馴染みのレストランで恋人と会い、時に妖精伝説などを語らい合いながら残された時間を大切に過ごした。そしてついに軍隊に召集される前夜、キルロイは恋人にプロポーズする決意を固めてレストランで待っていた。ところが、いつまで経っても彼女は姿を現さない。幾許かの時間が過ぎ、じっと待っていた彼はレストランの主人の許しを得て、いつものテーブルにリベットで「Kilroy was here(キルロイはここにいたよ)」とのメッセージと、彼女お気に入りだった長鼻を持つ妖精の絵を刻み込むと、ひとり立ち去った。この頃のボストンには戦地に赴く兵士や軍の関係者が多く滞在しており、このメッセージは彼らに強く印象づけられ広まったものと思われている。

なおキルロイは無事に帰国することができた。懐かしいレストランに現れた彼を見て、店の主人は恋人に連絡を取り、ふたりは再会した。あの夜、彼女は不測の交通事故で入院してしまいレストランに来られなかったのだった。キルロイのメッセージは恋人にしっかりと伝わっており、彼女は彼の帰還をずっと待っていた。[5]

レッドソックス・ファン説[編集]

シャルル・ド・ゴール

これは壁の向こうから野球の試合を観戦する男がモデルだとする説である。長鼻が特徴的なボストン在住のキルロイは大のレッドソックスファンで、学校を抜け出してはフェンウェイパークレフトスタンド側の壁越しに試合を観戦していた。そんな彼も軍に召集され、砲撃手となった。ノルマンディー上陸作戦で彼の部隊がフランスに赴任したとき、そのシャルル・ド・ゴールばりの鼻がドワイト・D・アイゼンハワー最高司令官の目に止まった。フランス軍服を着た数人の兵士と張り子の本部の真ん中に、ひときわ立派なフランス人司令官然とキルロイはポーズを取り、敵のスパイをひきつけた。ドイツ軍はこのニセモノにも戦力を振り分け、手薄となったところを連合軍本体が攻め入り、作戦は成功を収めた。本物のシャルル・ド・ゴールとの面会を文字通り鼻と鼻を突き合わせるかのように済ませ、キルロイは部隊に戻った。仲間たちは攻撃されればひとたまりもなかっただろうキルロイを案じ、そこいらじゅうに「Kilroy was here」の殴り書きをしていた。戦後退役した彼は、愛するレッドソックスをグリーンモンスターの上から眺めながら応援し続けた。[6]

[編集]

「キルロイ」に関しては第二次世界大戦にからんだ様々な都市伝説がある。ドイツ情報機関によってアメリカ軍捕虜の装備の中から頻繁に見つかったため、どんなところにでも容易に入り込む超人的な連合軍のスパイだとアドルフ・ヒトラーは信じていたという[1]。また、ポツダム会議に臨んだスターリンは、控えに設置された専用の屋外トイレに最初に入り、用を足して出てきて一言「キルロイって誰だ?」と補佐官に聞いたともいう。また、あるドイツ将校は、数々の都市でその名を頻繁に目撃したため、もし「キルロイ」なる人物に遭遇することがあったら何者なのか聞いてみたいと思ったとの語りも伝わっている。

落書きのある場所についても様々な憶測が飛び交う。特に、ありえない場所について言及され、自由の女神像が持つ松明にあるとか、エトワール凱旋門中国盧溝橋に書かれているとか、ポリネシアの小屋で見ただとか、パリ下水道ジョージ・ワシントン・ブリッジの梁の高いところにあるだとか、果てはエベレスト山頂やにも書かれていると言った奇想天外なものまである。このようなユビキタス的な広がりの背景には、第二次世界大戦時にあった枢軸国軍の侵攻に対する潜在的な脅威に抗う連合国民の心理が、自分たちが存在する証拠はいたるところにあるんだという噂に転化して流布し、これが今日まで姿かたちを変えて残存しているものと思われる。

最近の「キルロイ」[編集]

一般には廃れた感のある「キルロイ参上」だが、軍隊の中では健在であるらしい。1991年の湾岸戦争では、クウェートに残された対空砲に描かれた「キルロイ」の落書きがある[6]。また、2003年のイラク戦争では、ファルージャの学校の黒板に残された「キルロイ参上」が報道された。ここはアメリカ軍によって700人ものイラク市民が殺害された街であり、戦闘はこの学校でも行われた。落書きは「キルロイ」だけではなく、「We Love Pork(豚肉が大好きさ)」というイスラム教徒への侮蔑を含んだようなものもあった。[7][8]








占領軍の兵士が日本に持ち込んだアクセサリーか何かによって日本でも知られるようになったと記憶するが、まず、その不細工さ、気味悪い姿が印象的で、それが「新しく作られた(フィクションとして生まれた)神」であるのが興味深い。私の印象では、下の記事にあるような日本への好意から生まれた造形ではなく、日本人侮蔑の意図があったのではないかと思うが、まあ、あの像を「可愛い」と思う感性の持ち主がいても、それは主観の相違だ。
なお、進駐軍の兵士のエピソードでは、彼らが名所旧跡を観光した時に、その記念として残した落書きが「キルロイはここに来た」というもので、自分の名前ではなく、キルロイという正体不明の人物の名前であったのが、奇妙にユーモラスである。(その名前が「キルロイ」だというのは私の勘違いかもしれない。)




ビリケン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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第二代ビリケン像、通天閣 5階 展望台にあった(1979〜2012)
いまは三代目となっている

ビリケン (Billiken) は、尖った頭と吊り上がった目が特徴の子供の姿をしている幸運の神の像。 1908年10月6日にアメリカ合衆国のフローレンス・プレッツがデザイン特許を取得した[1]

日本では大阪通天閣 5階(展望台)にあるビリケン像が有名で、「ビリケンさん」の愛称で親しまれ、特に足を掻いてあげるとご利益があるとされている。

また、アラスカエスキモーの間で彫刻品の題材として広まり、同地や極東ロシアでは時として自身の民族の伝統の神として祀られるほどの人気を得ている[2]

概要[編集]

フローレンス・プレッツ

元々はアメリカ合衆国ミズーリ州カンザスシティの美術教師・イラストレーターであったフローレンス・プレッツ(Florence Pretz、1885年 - 1969年[3])によって、親友の詩人サラ・ハミルトン・バーチャルが『ザ・カナダ・ウェスト』に連載していたおとぎ話であるビリケンシリーズのため、1907年ごろにデザインされたものである[4]。 その後、プレッツは1908年6月9日にデザイン特許を出願し、同年10月6日に7年間有効のデザイン特許を取得した(デザイン特許番号D39,603)が、特許には「ビリケン」という名称は使われていない[1]。 プレッツは、ビリケンが人々の希望と幸福の象徴になるようなデザインをしたと言い、最初に粘土で製作したビリケン人形には、オマル・ハイヤームルバイヤート』の一節(Ah, Love, could thou and I with Fate conspire,...)を記した紙切れを中に入れていたという[4]

通説では、名前の由来は、当時のアメリカ合衆国大統領ウィリアム・タフトの愛称である[注釈 1]とされてきた。しかし、近年の研究では、カナダの詩人ブリス・カーマン英語版による1896年の詩集"More Songs from Vagabondia"所収の"Mr. Moon: A Song Of The Little People"の登場人物から、名付けられたと考えられている[4][5][6]

ビリケンの造型には東洋美術の影響が見られるが、プレッツはジャポニスムの影響を濃厚に引くイラストレーターであり、 1908年5月3日にシカゴ・デイリー・トリビューン(現在のシカゴ・トリビューン)に掲載された記事では、 プレッツが和服を着た写真が掲載されている他、少女の頃から日本を夢見ていて色々な日本の事物についてスケッチを描いてきたとか、自分の前世は日本人であったに違いない、とまで語っている[4]

特許取得後、ビリケングッズの売れ行きは当初非常に好調だったにも関わらず、契約の不備からデザイナーであるプレッツには一ヶ月あたり30ドルしか支払われず[注釈 2]、プレッツは失望から1909年の終わりにはビリケンの名前を聞くのも顔を見るのも嫌になってしまった[4]。 このことは当時の新聞でも話題になり、「作者以外の全員に幸福をもたらした」などという記事が掲載されてしまう[3]

現在、アメリカではセントルイス大学マスコットになっており、大学に属するすべてのスポーツチームが "ビリケンズ" を名乗っている[注釈 3]

日本には1909年明治42年)頃に伝わり、1911年(明治44年)に大阪の繊維会社・神田屋田村商店(現:田村駒株式会社)が商標登録を行い、販売促進用品や商品キャラクターとして使用した[注釈 4]。 当時の日本では、顔だちはアジア人、足を突き出しての座り方はアフリカ人がモデルとされ、「足の裏をかいて笑えば願いがかなう」とされた[7]

ビリケンは、田村商店の商標という枠を超えて人気を博した。当時の雑誌などに掲載された広告では、「世界的福神」として紹介され、5寸5分の石膏製のビリケン像に一体1円85銭という値付けがされていた[8]




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