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いや、私はこの年になっても「世間と違うオレ」が誇らしいが、新しい才能や新しい魅力というのはその「世間」が最初に見つけるのである。つまり、「世間」の中には大多数の俗物やミーハーと同時に、「新しい才能を発見する才能」の持ち主がかなりな数いて、そうした人々の指摘によって新しい才能は世間で騒がれるようになり、次世代の文化を作っていく。
厳しい審美眼の持ち主、つまり現在の文化の大物批評家などには新しい才能の発見は難しい。批評家ではなく、創造の世界の巨匠などは、逆に柔軟であり、自分とは違う新しい才能への受容能力も高い。というのは、彼ら自身、「前の世代の審美眼」に否定されながら、頭角を現わしてきたからである。私は、「新しい物」を否定する著名クリエイターを見たことがない。





北崎 拓@月に溺れるかぐや姫、ますらお 連載中! @takukitazaki 1時間前

若い頃は「世間と違うオレ」が誇らしいけど、大人になると「世間が喜んでいるのに理解できない自分は逆に馬鹿なのか?」と反省して理解出来るよう努力したり(笑) いやそれでも無理なモノは無理だったりするので、結局自分の内面世界での戦いじゃないですかね。好き嫌いって(*´д`*)【RT】

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  • 1時間前

    RT>これちょっとわかるような気がします。 僕も美少女系の絵柄のアニメがどちらかというと苦手だった時期がそこそこ長いのですが(実際エヴァから10年くらいアニメにタイムラグがあって、『ハルヒ』も『けいおん』もアシさんに勧められるまで見れなかった)、今ではすっかり魅力的に感じてるもんなあ。

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  • 8時間前

    (´-`).。oO(フェミニストらしく萌え絵が苦手だったわたしが、今やキズナアイのフィギュアかわいい…なんなら欲しい…と思うなんて、我ながら驚いた。騒動を追ううちに萌え絵を見慣れたのが大きいが、嫌いは好きに変わりやすい。どうでもよかったら最初から心に引っかかりもしないから。

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寒川氏の思考の可笑しさは別として、ここに書かれた内容は興味深い。
つまり、言葉は、それ自体に「古色」や「原始性」の匂いを纏っている、ということだ。
私も「王」「魔」「黄金」「幻」「影」「城」「塔」「谷」「密林」という言葉に非常に魅力を感じるのだが、それが子供時代からの刷り込みだったというのは、改めて言われると感慨深い。ところが、それに対する判断は寒川氏の正反対で、私にそういう嗜好を与えてくれた少年時代の読書体験には感謝の気持ちしか無い。そして私は、民主主義は、実際に有効に構築されたなら最善の政治制度だと思っているし、人権は最大限に尊重されるべきだという政治思想を持っている。





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ついに萌え絵を否定しない人間は奇形フェチとして扱えとか、秋葉原を封鎖しろとかに笑ってる皆さん、かつて子供向き探偵冒険小説にこんな非難が浴びせられたのをご存じですか。「魔」「黄金」「幻」「城」という文字が題名に使われているのが反民主的で排除すべきなのだと。奴らはそこまでやるのですよ









そういう構図というのは見たことがあるような気もするが、ほとんどのドラマや映画でそういう構図が出てきたとはまったく思えない。そもそも、どういうドラマや映画にそんな構図があったか、具体的な名前を挙げてほしいものである。この人は過去のテレビドラマや映画のほとんどを見たと主張するのだろうか。
まあ、確かに、窓の外を見ながら背後の人に話すという構図も時にはあるだろうが、それは、相手を見て話すという構図が連続すると画面が単調になるという単なる視聴者への配慮だろう。特に、窓の外からの画面を入れることで、かなり画面の変化が出る。そして、話している相手の顔が見えない時に、当人にどんな表情が生まれるか(顔と顔を見合わせている時には見せない、真実の表情を見せる。)という興味も生じる。

要するに、現実とフィクションの違いをこのツィート主は理解していないわけで、このツィートをリツィートした山本氏は漫画家であるのに、この言葉に賛同して引用したのなら、「現実性の有無」ということに囚われて、創作者としての自分を顧みなかったのではないか。

現実性云々は抜きにして、演出だけ考えても、対面しての表情しか描かない演出は幼稚だろう。

「結婚しない男」で、普段はただの仕事仲間で友人関係でしかない高島礼子が、主人公の阿部寛との結婚も考えてもいいかな、と心が揺れていた時に、彼が自分をまったく結婚(恋愛)対象と見ていないことを知って、表面上は穏やかにその場を立ち去るのだが、阿部寛を背後にして歩み去る時に、一瞬、顔に苦痛と悲しみの表情を浮かべる。そのシーンで私は、それまであまり評価していなかった高島礼子をいい女優だと思ったのだが、これは演出の素晴らしさと言うべきだろう。つまり、人間には他人には見せない表情があるということだ。



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なんでさ、ドラマとか映画の登場人物が大事な話をするときって、急に立ち上がって窓際に歩いていって外を見ながら話し出すの?
現実の世界で大事な話をするときに相手に背中むけてる人ってほとんどいないとおもうんだけど、でも大抵の映画やドラマのそういうシーンはそうなってるよね?どういう意図?













子供のころはいろいろな漫画を見て面白がっていたし、それは青年になっても変わらず、そのどこが面白いのか、その漫画にどんな意味があるのかという分析などほとんどしなかった。当時は、漫画というのは天才たちが描くもので、彼らは別世界の住人だと思っていたのである。ところが、実は彼らは年齢的には私よりほんの少しだけしか上ではなかったのである。
で、彼らの多くが一般人に較べたら天才と言っていい才能の持ち主であることは確かだろうが、その中には絵だけは上手いが物語作りには無能な漫画家もけっこうおり、そういう人々はやはり大物漫画家にはなれなかった。
山上たつひこという漫画家は、奇妙な絵の個性を持っていたが、ギャグ漫画の世界では革命者と言っていい存在で、ギャグ漫画の革命者としては赤塚不二夫に続く天才だったと思う。だが、大物漫画家になったかと言うと、一般的にはそうは見られていないのではないか。作品のレベルは素晴らしいし、業績も凄いが、途中で小説家に転向したせいもあって、たとえばつげ義春あたりと比べられるような異端の作家という位置に落ちついているように思える。もともとギャグ漫画家というのは軽く見られる傾向があるのだ。

本題に入る。
「がきデカ」という作品についてである。これは「サウスパーク」の先取りとも言える作品ではないだろうか。もちろん、少年漫画誌に掲載される作品だから、かなりオブラートに包まれているが、その潜在的なアナーキズムや「良識ぶったもの」への批判の精神など、よく似ていると思う。
私が昔はまったく気にもしなかったのが、なぜこの作品の主人公のこまわり君は「少年警察官」を自称しているのか、という問題だ。もちろん、それは単なる「ごっこ」遊びだと周囲の人間たちは思っているのだろうが、当人はかなり真面目に「警官としての権力」をふるおうとする意思を見せているのである。
つまり、山上たつひこがこの漫画を書いた心の底には、「普通の人間が、ある職業に就いただけで権力を持つ」ことの不思議さ、権力というものの怪奇さではなかったか、と今の私は思う。
それが、「光る風」のような痛烈なディストピア漫画を描いた漫画家が、このハチャメチャな少年ギャグ漫画の底に秘めた牙だったのではないか。
これは、後から読んだのだが、そうか、私は欠点の無い人間だったのだ。
ただ、馬のように速くて強い存在には憧れる。ナニが馬並みであったらなあ、とは若いころにいつも思っていたwww




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①これは特に意味なし
②あなたがなりたい自分
③あなたの欠点
















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