(以下引用)
伝播の理由[編集]
稲作が広く行われた理由として、
- 米の味が優れており、かつ脱穀・精米・調理が比較的容易である[1]。
- イネは連作が可能で他の作物よりも生産性が高く、収穫が安定している(特に水田はその要素が強い)[1]。
- 施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない[1]。
- 水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)[2]。
などが考えられている[3]。
歴史[編集]
起源[編集]
稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている[4]。(かつては雲南省の遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とされていた[4][5][6]。)
長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという[7]。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、インディカ米の系統が生じたと考えられている[4]。
中国での伝播[編集]
中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。
日本への伝来[編集]
日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつかっている。水田稲作に関しては約2600年前の菜畑遺跡の水田跡がある。水田稲作の伝来経路としては従来『朝鮮半島経由説』『江南説(直接ルート)』『南方経由説』の3説があり[8][9]、現在も議論が続いている。(後述)
なお、稲のプラント・オパールは20~60ミクロンと小さいため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできないが、鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている[10]。
朝鮮半島への伝来[編集]
遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している[11]。
東南アジア、南アジアへの伝来[編集]
東南アジア、南アジアへは紀元前2500年以降に広まった[12]。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる[13]。
西アジアへの伝来[編集]
トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である[14]。
アフリカへの伝来[編集]
栽培史の解明は不十分とされているが、現在のアフリカで栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ Oryza glaberrima )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ Oryza sativa )である[15]。アフリカイネの栽培開始時期には諸説有り2000年から3000年前に、西アフリカマリ共和国のニジェール川内陸三角州で栽培化され、周辺国のセネガル、ガンビア、ギニアビサウの沿岸部、シエラレオネへと拡散したとされている[16]。
アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 O. barthii と多年生種 O. longistaminata などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。植民地支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった[15]。1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種ネリカ米が開発された[17][18]。ネリカ米の特性試験を行った藤巻ら(2008)は[19]、陸稲品種の「トヨハタモチ」と比較しネリカ米の耐乾性は同等であるが耐塩性は劣っていると報告している[19]。
ヨーロッパへの伝来[編集]
ローマ帝国崩壊後の7世紀から8世紀にムーア人によってイベリア半島にもたらされ、バレンシア近郊で栽培が始まった。しばらく後にはシチリア島に伝播し、15世紀にはイタリアのミラノ近郊のポー河流域で、主に粘りけの少ないインディカ種の水田稲作が行われる[20][21]。
アメリカ大陸への伝来[編集]
16 - 17世紀にはスペイン人、ポルトガル人により南北アメリカ大陸に持ち込まれ、プランテーション作物となった[22]。
日本国内での歴史[編集]
この節の加筆が望まれています。 (2014年2月)
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縄文稲作の可能性[編集]
日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だったが、学説としては縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が何度か出されてきた。宮城県の枡形囲貝塚の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、1925年の山内清男の論文「石器時代にも稲あり」がその早い例だが[23]、後に本人も縄文時代の稲作には否定的になった[24]。土器に付いた籾の跡は他にも数例ある。1988年には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の風張遺跡で、約2800年前と推定される米粒がみつかった[25]。
縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、縄文時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内から出たプラント・オパールである。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる[26]。
しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性や[27]、土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性もあるとされる[28]。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている[29][30]。否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である[31]。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない[32]。
プラントオパールを縄文稲作の証拠と認める場合、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。具体的には畑で栽培する陸稲である[33]。特に焼畑農業が注目されている[34]。縄文時代晩期の宮崎県桑田遺跡の土壌からはジャポニカ種のプラント・オパールが得られた[35]。現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている[36]。
水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは宮崎県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた。栽培穀物は、イネ、オオムギ、アズキ、アワであり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する。
日本への伝来ルート[編集]
朝鮮半島経由説[編集]
- 佐原真は弥生稲作が日本に伝わった道について、「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」としており、佐藤洋一郎[要曖昧さ回避]らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて「少数意見である」としている[37]。
- 趙法鐘は、弥生早期の稲作は松菊里文化に由来し「水稲農耕、灌漑農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」朝鮮半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は朝鮮半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている[38]。
- 池橋宏は、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており[9]、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」とまとめている[9]。
- しかしこれについて広瀬和雄は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている[39]
- 藤尾慎一郎は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている[40]。
- 宝賀寿男は、「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」と述べ、稲作開始時期の繰り上げと炭素年代測定や年輪年代測定の数値と検証方法に疑問を呈している。即ち殷は鳥・敬天信仰などの習俗から、もともと東夷系の種族(天孫族と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる百越系(海神族の祖)に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる[41]。
- 山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としている[42]。
- 佐藤洋一郎によると、風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は食料ではなく貢物として遠くから贈られてきた[43]。風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は「熱帯ジャポニカ(陸稲)」であり、「温帯ジャポニカ(水稲)は、弥生時代頃に水田耕作技術を持った人々が朝鮮半島から日本列島に持ってきた」と言う[44]。
- 分子人類学者の崎谷満も、ハプログループO1b2 (Y染色体)に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に水稲をもたらしたとしていた[45]。
江南説(対馬暖流ルート)[編集]
農学者の安藤広太郎によって提唱された中国の長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説[46][47][48]。
考古学の観点からは、八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており[49]、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。
本説は下記に述べる生化学分野からのアプローチからも支持されている。
2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し[50]、日本育種学会の追試で再現が確認された[51][52]。
さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文としてネイチャー ジェネティクスに発表している[53][54]。
南方経由説(黒潮ルート)[編集]
柳田國男の最後の著書「海上の道[55]」で提唱した中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。石田英一郎、可児弘明、安田喜憲、梅原猛などの民俗学者に支持され[56][57]。佐々木高明が提唱した照葉樹林文化論も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。[58]
北里大学の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘している。[59]
考古学の観点からは、沖縄で古代の稲作を示す遺構が出土していないため関心が低いが、生化学の観点からは、渡部忠世や佐藤洋一郎が陸稲(熱帯ジャポニカ)の伝播ルートとして柳田の仮説を支持している[60][61]。
古代の稲作[編集]
青森県の砂沢遺跡から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている[8][62]。古墳時代に入ると、農耕具は石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。土木技術も発達し、茨田堤などの灌漑用のため池が築造された。弥生時代から古墳時代における日本の水田形態は、長さ2・3メートルの畦畔に囲まれ、一面の面積が最小5平方メートル程度の小区画水田と呼ばれるものが主流で、それらが数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田地帯を形成するものだった[63]。大和朝廷は日本を「豊葦原の瑞穂の国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」と称し、国家運営の基礎に稲作を置いた。
律令体制導入以降の朝廷は、水田を条里制によって区画化し、国民に一定面積の水田を口分田として割りあて、収穫を納税させる班田収授制を652年に実施した。以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の地租改正にいたるまで日本の租税の基軸となった。稲作儀礼も朝廷による「新嘗祭」「大嘗祭」などが平安時代には整えられ、民間でも田楽などが行われるようになった。大分県の田染荘は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。
というのは、これは「天皇の正統性と絶対性」の根拠だからである。血筋絶対主義とは、誰がどうあがいても天皇家以外の血筋は天皇にはなれない、ということであり、日本史の政治的実権者が、天皇にだけはなれなかった理由だ。ただ、その「血筋絶対主義」は、過去には強大な力を持っていたが、これからも通用するかどうかは議論の余地が大きいだろう。
(以下引用)
四年春二月壬戌朔甲申 天神を祀り大孝を伸べる
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現代語訳
天皇は言いました。
「わたしの皇祖(ミオヤ=祖先)の霊(ミタマ)が天より降りて来て、私の体を照らして助けてくれました。今、もろもろの敵たちを静かにさせて、海内(アメノシタ)は平穏になりました。
天神(アマツカミ)を、祀って、それで大孝(オヤニシタガウコト)を果たしましょう」
靈畤(マツリノニワ)として鳥見山(トミノヤマ)の中に立ちました。そこでその場所を上小野榛原(カミツオノハリハラ)・下小野榛原(シモツオノハリハラ)といいます。それで皇祖(ミオヤ)の天神(アマツカミ)を祀りました。
解説
海内と書いて「アメノシタ」となっているように、ここでは「天下」ではありません。なぜか? よく分かりませんが、この部分は古い伝承を元にして書いているからではないかと推測。
儒教の影響について
儒教は後では「政治学」のようになってしまいますが、元々は中国の一般的な「先祖崇拝」といった「常識」を体系化したものです。その中で「親を敬うこと」…「孝」はとても大事だとされました。また先祖を祀ることは子孫の義務でもありました。
このページでは儒教の影響が見られます。
個人的コラム
わたしは崇神天皇の時代に、疫病が蔓延し、国民の半分が死んだとき、その祟りの主の「大物主」を子孫のオオタタネコに祀らせて鎮めたことが始まりではないか?と思っています。その結果が宗教施設と墓が合体した「前方後円墳」だ、というのが私の意見です。
十代の崇神天皇はおそらく三世紀の人物です。神武天皇は逆算すれば紀元前後の人物かと思われますが、そこは分かりません。
儒教というか「先祖崇拝」の考えはそれ以前からあったのかは分かりません。無かったとは思えません。ただそれを「政治的」に利用しはじめたのが崇神天皇だったのではないのか?と考えています。
つまり先祖崇拝をするということは、天皇の正当性は先祖にあるわけです。先祖が天神だから天皇は天皇。だから崇神天皇が儒教を入れて、血統を重んじるようになったから、それ以前の皇統にも意義が出た。ところが、崇神天皇以前の天皇には記述が残っていない。なにせそれまで先祖と子孫に大した繋がりが無かったから。もしくは薄かったから。そこで神武天皇の活躍は本当半分・嘘半分か、かなり創作かと思うのですが、だからといって「実在しない」とは思わない、というのが意見です。
(以下引用)
二年春二月甲辰朔乙巳 定功行賞
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現代語訳
天皇は論功行賞(イサヲシキヲサダメタマヒモノヲオコナイタマフ=東征に貢献したものに報償を与えること)を行いました。道臣命(ミチノオミノミコト)に宅地(イエドコロ)を与えました。それは築坂邑(ツキサカノムラ=橿原市鳥屋町)で、特に道臣命の功績を評価しました。
大來目(オオクメ)には畝傍山(ウネビヤマ)の西の川原の土地に住まわせました。それで今、そこ土地を來目邑(クメノムラ)と呼ぶのはそのためです。
珍彦(ウズヒコ)は倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)に任じました。
また、弟猾(オトウカシ)に猛田邑(タケダノムラ)を与え、猛田縣主(タケダノアガタヌシ)としました。菟田主水部(ウダノモヒトリラ)の遠祖です。
弟磯城(オトシキ)は名前を黒速(クロハヤ)といいます。
弟磯城(オトシキ)を磯城縣主(シキノアガタヌシ=桜井市)に任じました。
劒根(ツルギネ)という人物を葛城国造(カヅラキノクニノミヤツコ)としました。
頭八咫烏(ヤタノカラス)にも報償がありました。頭八咫烏の子孫は葛野主殿縣主部(カズノノトノモリノアガタヌシラ)です。
(以下引用)
三月辛酉朔丁卯 六合を一つにして八紘までを家にする
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是月、卽命有司、經始帝宅。
現代語訳
天皇は言いました。
「わたしが東征に出発して、6年になります。天津神の霊威によって凶徒(アタ=敵)は殺されました。周辺の国はまだ静まっていませんし、敵の残党はまだ勢いのあるものがあるが、中洲之地(ナカスノクニ=大和の国)は騒がしくない。皇都(ミヤコ)を広く広く取り、大きな宮殿を造ることにしよう。
国はまだ出来たばかりで若く、民は素直で、穴の中に住んで、古い習俗が変わらず残っている。聖人のやり方でしっかりと行えば、結果はおのずと付いてくる。民の利益になることならば、聖人のやることを阻むものは無いだろう。
そこで山林を開き、宮殿を造って、天皇の地位について、民を静めよう。乾靈(アマツカミ=天津神)の国を授けられた徳に答え、皇孫の正しい道を広めよう。その後に六合(クニノウチ=東西南北と天と地を合わせて六合)を一つにして都を開き、八紘(アメノシタ=北・北東・東……と合わせて八方向のこと)の隅々まで「宇(イヘ…家)」にすることは、良いことだ。見ると畝傍山(ウネビヤマ)の東南の橿原(カシハラ)は国の墺(モナカ…真ん中)だろうから、ここを治めよう」
この月に有司(ツカサ=役人)に命じて帝宅(ミヤコ=天皇の家=都)を作り始めました。
解説
そして、物部氏のこの出自が、後の滅亡の遠因でもありそうだ。
(以下引用)
十有二月癸巳朔丙申(四)饒速日命は物部氏の祖先
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現代語訳
天皇はそれを見て
「本物だ」
と、言いました。
それでお返しにと、天羽々矢(アメノハハヤ)と步靫(カチユキ)を見せました。
長髄彦はその表(シルシ)を見て、ますます天皇を恐れ畏まりました。しかし凶器(ツワモノ=武器)を準備して、今更、途中で止めてしまうわけにはいかない。それで血迷った計画を変えず、改心しませんでした。
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は天神が最も大事だと思っているのは天孫(=アマテラスの子孫)であると知っていました。それに長髄彦はその禀性(ヒトトナリ=人と成り)がとても気難しいので、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天人(キミヒト=君主と人の上下関係のこと)の関係を教えても、理解出来そうにないので、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は長髄彦を殺してしまいました。そして人々と共に天皇に従いました。
天皇はもともと饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天から降りたと知っていました。今、忠效(タダシキマコト=忠義の意思)を示したので、褒めてもてなしました。この饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が物部氏の祖先です。
解説
長髄彦の妹を嫁にもらいながら、なんやかんやと理由をつけて裏切っちゃうニギハヤヒ。それでも天皇から見れば、兄の敵を討ってくれた「英雄」なのでしょう。
ところがニギハヤヒは物部氏の祖先とされます。物部の「モノ」は「物の怪」のモノと取って、祭祀関係の氏族とされたり、武器を管理する氏族とも言われます。日本では「モノ」は「霊」と「物体」の両方を意味するので、祭祀と武器のどちらか一方ではなく両方と考えた方がいいでしょう。
大活躍の物部氏ですが、ご存知の通り、蘇我氏との政争に破れて氏族は滅亡しています。また蘇我氏は藤原氏の始祖の中臣鎌足に殺されています。両氏族とも親戚筋は残っていたのでしょうが、滅亡したのに先祖の活躍を描く必要があったのか?と思うのですよね。よく古事記成立の有力者の藤原氏を立ててタケミカヅチやアメノコヤネを優遇しているとか言いますが、それならニギハヤヒではなく、古事記成立時の有力者の先祖を当てればいいじゃないですか。
わたしは古事記や日本書紀は別のロジックで書かれていると思っています。それは鎮魂です。嘘を書くと死者の魂が祟ると考えていたから、本当を書いて鎮めたのだろうということです。それなら蘇我氏や物部氏といった滅亡した氏族のことこそ、書かなくちゃいけないことになるのです。