昨日書いた記事だが、ブログ管理会社の故障か何かで載せられなかったので緊急避難的に別ブログに載せた記事である。
(以下、自己引用)
別ブログに載せる予定だった記事だが、「データベース上のエラーで登録できませんでした」という事故があったので、ここに載せておく。
(以下自己引用)
このブログテーマで思いつく内容を少しまとめておく。
1:快感原則と心情移入
2:自己愛と超人幻想
3:問題と解決
4:敵と味方
5:愛情や執着の対象
といったところだろうか。前に書いた「戦い」なども小説(脚本・漫画原作)創作のための哲学的考察テーマとしては必須だろう。
上に書いた中では1から3が主要で、4と5は副次的な感じがある。たとえば、戦いの話に愛情の対象という存在は必須ではない。しかし、ハリウッド映画ならほぼ必須になる。そして、執着の対象というのは表面的には必須ではなくても水面下の存在としては在るのが望ましい。初期のヒッチコックの映画では、「謎の存在」(多くの人の執着の対象)の争奪戦がだいたいの話の大筋である。「めまい」では謎の美女への主人公の執着が話を生む。
また4の敵と味方というのは、漱石の「坊ちゃん」では明白だが「三四郎」ではさほど役割化されない。つまり、「仲間」や「友人」というのは、敵が存在する場合に「味方」となるのであって、最初からそういう役割として存在するわけではない。
言い換えれば、小説的フィクションは大きく
A:戦いの話
B:愛情の話
に分類されると言えるかもしれない。当然、男はAを好み、女はBを好む。
そしてどちらの場合も「問題と解決」が話の大筋(あるいは各エピソード)になる。
たとえば「赤毛のアン」では、主人公の「赤毛」が主な問題であり、それに伴う劣等感と癇癪と夢と希望が話を作っていく。つまり、「容姿」というものが女性に持つ意味は男の場合の「戦闘能力」に等しいと言えるかもしれない。(男なら、戦闘能力の養成課程そのものが「話の面白さ」のひとつである。つまり武芸訓練の話などだ。)(「赤毛のアン」だと、容姿の問題は自然に解決する。つまり、主人公の肉体的成長で容姿の醜さが目立たなくなり、人格的成長で容姿をあまり気にしなくなる。だが、最初から実は主人公はさほど醜くはなく、その自意識過剰のために過度に反応するのだが、そういう設定は、後の少女漫画の「自分を平凡と思っている女の子(あるいはメガネの女の子)が実は美人」という「トリック」に共通するかもしれない。自分の知らない長所を他人が高く評価している、という「幻想」も快いのである。)
だが、「問題と解決」というのは大きな考察テーマなので、稿を改めて考察したい。
また、たとえば「無法松の一生」のように「運命に恵まれない優れた人間の崇高な悲劇」というのは、話全体が象徴性を持ち、市井の人間の話でもギリシア悲劇的な象徴性と偉大な感じを与えるわけだが、或る種の「神々しさ」というのは単に自己犠牲だけから生まれるのかどうか、というのも考察したい。おそらく「運命(持って生まれた環境や条件など)という、勝利不可能な強大な敵」との戦い、あるいはそれに翻弄される人間(善なる存在)の奮闘努力が観る者に痛ましさと同情を生むのだろう。この観る側(受容者側)の「同情」や「共感」というのも考察テーマにするべきかと思う。
つまり、「勝てる相手」との戦いは「面白い」し、「勝てない相手」との戦いは悲劇として崇高感やシンパシーを生むと言えるだろうか。
もちろん、「無法松の一生」の表面的テーマは恋愛であるが、それは「最初から実現化不可能な恋愛」であることから、観る者に主人公への同情と応援したい気持ちを生み、また、その恋愛が実現することはマドンナ的存在が聖性を失うことへの失望を生むという、「極限状況の恋愛」なのである。だから、それは「勝てない相手(運命)との戦い」でもあるわけだ。この作品の異常な感動の原因はそこにあると思う。つまり、原理そのものは「オイディプス王」なのである。それが、愛嬌と超人性(超人性ではジャン・ヴァルジャンと共通している。)を共に備えた主人公によって親しみやすい話になっているから、構造の持つ「運命悲劇」という面が隠れているわけだろう。要するに、「解決不能な問題」もまた感動の対象になる(それどころか、描き方次第では最大の感動の対象になる)、ということだ。
(以下、自己引用)
別ブログに載せる予定だった記事だが、「データベース上のエラーで登録できませんでした」という事故があったので、ここに載せておく。
(以下自己引用)
このブログテーマで思いつく内容を少しまとめておく。
1:快感原則と心情移入
2:自己愛と超人幻想
3:問題と解決
4:敵と味方
5:愛情や執着の対象
といったところだろうか。前に書いた「戦い」なども小説(脚本・漫画原作)創作のための哲学的考察テーマとしては必須だろう。
上に書いた中では1から3が主要で、4と5は副次的な感じがある。たとえば、戦いの話に愛情の対象という存在は必須ではない。しかし、ハリウッド映画ならほぼ必須になる。そして、執着の対象というのは表面的には必須ではなくても水面下の存在としては在るのが望ましい。初期のヒッチコックの映画では、「謎の存在」(多くの人の執着の対象)の争奪戦がだいたいの話の大筋である。「めまい」では謎の美女への主人公の執着が話を生む。
また4の敵と味方というのは、漱石の「坊ちゃん」では明白だが「三四郎」ではさほど役割化されない。つまり、「仲間」や「友人」というのは、敵が存在する場合に「味方」となるのであって、最初からそういう役割として存在するわけではない。
言い換えれば、小説的フィクションは大きく
A:戦いの話
B:愛情の話
に分類されると言えるかもしれない。当然、男はAを好み、女はBを好む。
そしてどちらの場合も「問題と解決」が話の大筋(あるいは各エピソード)になる。
たとえば「赤毛のアン」では、主人公の「赤毛」が主な問題であり、それに伴う劣等感と癇癪と夢と希望が話を作っていく。つまり、「容姿」というものが女性に持つ意味は男の場合の「戦闘能力」に等しいと言えるかもしれない。(男なら、戦闘能力の養成課程そのものが「話の面白さ」のひとつである。つまり武芸訓練の話などだ。)(「赤毛のアン」だと、容姿の問題は自然に解決する。つまり、主人公の肉体的成長で容姿の醜さが目立たなくなり、人格的成長で容姿をあまり気にしなくなる。だが、最初から実は主人公はさほど醜くはなく、その自意識過剰のために過度に反応するのだが、そういう設定は、後の少女漫画の「自分を平凡と思っている女の子(あるいはメガネの女の子)が実は美人」という「トリック」に共通するかもしれない。自分の知らない長所を他人が高く評価している、という「幻想」も快いのである。)
だが、「問題と解決」というのは大きな考察テーマなので、稿を改めて考察したい。
また、たとえば「無法松の一生」のように「運命に恵まれない優れた人間の崇高な悲劇」というのは、話全体が象徴性を持ち、市井の人間の話でもギリシア悲劇的な象徴性と偉大な感じを与えるわけだが、或る種の「神々しさ」というのは単に自己犠牲だけから生まれるのかどうか、というのも考察したい。おそらく「運命(持って生まれた環境や条件など)という、勝利不可能な強大な敵」との戦い、あるいはそれに翻弄される人間(善なる存在)の奮闘努力が観る者に痛ましさと同情を生むのだろう。この観る側(受容者側)の「同情」や「共感」というのも考察テーマにするべきかと思う。
つまり、「勝てる相手」との戦いは「面白い」し、「勝てない相手」との戦いは悲劇として崇高感やシンパシーを生むと言えるだろうか。
もちろん、「無法松の一生」の表面的テーマは恋愛であるが、それは「最初から実現化不可能な恋愛」であることから、観る者に主人公への同情と応援したい気持ちを生み、また、その恋愛が実現することはマドンナ的存在が聖性を失うことへの失望を生むという、「極限状況の恋愛」なのである。だから、それは「勝てない相手(運命)との戦い」でもあるわけだ。この作品の異常な感動の原因はそこにあると思う。つまり、原理そのものは「オイディプス王」なのである。それが、愛嬌と超人性(超人性ではジャン・ヴァルジャンと共通している。)を共に備えた主人公によって親しみやすい話になっているから、構造の持つ「運命悲劇」という面が隠れているわけだろう。要するに、「解決不能な問題」もまた感動の対象になる(それどころか、描き方次第では最大の感動の対象になる)、ということだ。
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これから幾つか、創作の土台となる基本思想を考察して明確にしておくつもりだが、それは或る意味、哲学でもある。我々があまりに当然だと思っていることを、改めて、それは当然なのか、と考察しようということだ。まあ、さほど考察ネタがあるとは思わないので、二つか三つで終わるかもしれないが、一応「創作のための哲学」という項目を立てておく。
忘れないように書いておくと、「少数者による多数者の支配の原理・手段」というのもその一つである。
だが最初はまず、「戦うことの意味」を考えたい。
意味も何も、人はふつう戦いに「巻き込まれる」のであり、自分の意志で戦いを起こす、あるいは参加するのは稀である。後者(参加)はたとえば戦争(広義のそれ)が勃発した際に起こる。前者はその戦いによって経済的利益を得る資本家や支配階級が積極的に戦いを起こすことなどである。だが、それは「戦う当事者」の問題ではないので、ここでは深くは追究しない。
だが、フィクションにおいて男は(稀に女も)ほとんど常に「戦う人間」である。そこにどういう意味があるのか、というのがここでの主な考察主題だ。
もちろん、創作側から言えば単純に「戦いは面白い」からであることは明白だ。いろいろな冒険、危険、スリルに満ち、感動的場面も作りやすい。人間性の本性も出る。特に相手は悪、こちらは善、とするなら受容者(読者・観客)の共感も得やすい。そして、たとえフィクションでも「死」の切実さは読者や視聴者を興奮させやすいのだ。
では、現実とフィクションを問わず、戦う当人は「何のために」戦うのか。
1:自分の生命や身体、財産を守るため。
2:自分の家族、恋人、友人を守るため。
3:自分の属する組織や国家を守るため。
4:戦うこと(暴力・殺人)が好きで楽しいから。
5:戦いでカネ(利益)を得るため。
6:国家や組織に強制されてやむなく。
まあ、ほかにもあるだろうが、これくらいにして後で思いついたら付け加える。
この中で、4は稀少な例だろうが、実は武道漫画の本質はこれである。自分の中の暴力衝動の解放と満足が勝負の勝ち負けでとどまれば武道やスポーツであり、殺人に至れば戦争だ。
6が、徴兵された兵士の大多数だろう。その内心の葛藤を描けば反戦小説や反戦漫画になる。
5は、たとえば「ブラックラグーン」や「ゴルゴ13」の世界である。ハードボイルド小説にもしばしばこの種の「殺し屋」は出てくる。そして受容者はそのクールな殺し屋(或る種の「超人」として描かれる。)たちをカッコいいと思うのである。いや、これは非難しているのではない。ただ、受容者のそうした「暴力や殺人への嗜好」を直視して論じた人は少ない気がする。べつにPTA的モラルだけの問題ではなく、大きな社会的影響が、案外そこにあるかもしれない、という話だ。
で、以上3つを除けば、他の3つが「何かを守る」でくくられるのは面白い。6もそのひとつであると言える。徴兵を拒否したら非国民扱いされ、自分も家族も生きづらくなるのが明白だから、自分や家族を守るために徴兵に応じるわけだ。
つまり、或る種のサイコパス(武道家も軽度サイコパスと私は見ている。いや、勝敗が基本要素のスポーツ、つまり勝負事を好む人間も広い意味ではそれに属するかもしれない。)を除けば、人は「自分やその関係者を守る」ために戦うわけである。
何を当たり前のことを仰々しく書いているのだ、と言われそうだが、哲学とはそういうものだ。
「当り前のこと」が本当に当たり前か、丁寧に検証していく作業が哲学なのである。
通常の冒険ものとたとえばゾンビ物との違いは、前者がふつう自分から積極的に戦いに参加するのに対し、後者は「襲撃されて、その防御としてやむなく」戦うということだろう。そのため、私などから見れば、後者にはホラー性やスリラー性はあっても「爽快感」は少ないように思う。そもそも、明るい美しい自然の中でゾンビと戦う映画やドラマはあまり無いのではないか。美しい野原や陽光とゾンビは似合わない。ゾンビ物の「束縛感」「閉塞感」とその舞台は対応しているようだ。
つまり、「戦う」とは言っても、その「快感」(見る側の快感)は戦いの種類(戦に至る状況や戦いの必然性)や相手によって異なるのではないか、という「断片的思想」をここで提出したわけだ。
ただし、私が途中で視聴放棄したアニメだが、「ゴブリンスレイヤー」などは、相手がゾンビ的存在だのに、主人公側が積極的に戦いを挑むわけで、これは「害虫駆除」アニメと言うべきかと思う。「ゴーストスイーパー」の類だ。「GS美神」の非コメディ版と言える。ただし、「ゴブリンスレイヤー」は視聴にうんざりするほど欠点は多かったが、「戦略」の面白さを追求した姿勢だけは私は良いと思っている。
この「害虫駆除」というのは、実は「殺し屋もの」と共通性があり、殺し屋たちが殺す相手はたいてい社会の悪的存在に描かれている。そうでないと視聴者に不快感を抱かせることを作り手側は熟知しているからだ。「必殺シリーズ」と言うか「仕置人シリーズ」などもそれで、殺される奴はたいてい悪い奴である。だが、現実には政権や上級国民にとって都合の悪い野党政治家などが暗殺されるのであり、そこは現実とは大違いである。
「戦うことの意味」については、考察は不十分(たとえば仲間うちの戦い、内ゲバの問題など)だが、長くなったのでこれくらいにしておく。
忘れないように書いておくと、「少数者による多数者の支配の原理・手段」というのもその一つである。
だが最初はまず、「戦うことの意味」を考えたい。
意味も何も、人はふつう戦いに「巻き込まれる」のであり、自分の意志で戦いを起こす、あるいは参加するのは稀である。後者(参加)はたとえば戦争(広義のそれ)が勃発した際に起こる。前者はその戦いによって経済的利益を得る資本家や支配階級が積極的に戦いを起こすことなどである。だが、それは「戦う当事者」の問題ではないので、ここでは深くは追究しない。
だが、フィクションにおいて男は(稀に女も)ほとんど常に「戦う人間」である。そこにどういう意味があるのか、というのがここでの主な考察主題だ。
もちろん、創作側から言えば単純に「戦いは面白い」からであることは明白だ。いろいろな冒険、危険、スリルに満ち、感動的場面も作りやすい。人間性の本性も出る。特に相手は悪、こちらは善、とするなら受容者(読者・観客)の共感も得やすい。そして、たとえフィクションでも「死」の切実さは読者や視聴者を興奮させやすいのだ。
では、現実とフィクションを問わず、戦う当人は「何のために」戦うのか。
1:自分の生命や身体、財産を守るため。
2:自分の家族、恋人、友人を守るため。
3:自分の属する組織や国家を守るため。
4:戦うこと(暴力・殺人)が好きで楽しいから。
5:戦いでカネ(利益)を得るため。
6:国家や組織に強制されてやむなく。
まあ、ほかにもあるだろうが、これくらいにして後で思いついたら付け加える。
この中で、4は稀少な例だろうが、実は武道漫画の本質はこれである。自分の中の暴力衝動の解放と満足が勝負の勝ち負けでとどまれば武道やスポーツであり、殺人に至れば戦争だ。
6が、徴兵された兵士の大多数だろう。その内心の葛藤を描けば反戦小説や反戦漫画になる。
5は、たとえば「ブラックラグーン」や「ゴルゴ13」の世界である。ハードボイルド小説にもしばしばこの種の「殺し屋」は出てくる。そして受容者はそのクールな殺し屋(或る種の「超人」として描かれる。)たちをカッコいいと思うのである。いや、これは非難しているのではない。ただ、受容者のそうした「暴力や殺人への嗜好」を直視して論じた人は少ない気がする。べつにPTA的モラルだけの問題ではなく、大きな社会的影響が、案外そこにあるかもしれない、という話だ。
で、以上3つを除けば、他の3つが「何かを守る」でくくられるのは面白い。6もそのひとつであると言える。徴兵を拒否したら非国民扱いされ、自分も家族も生きづらくなるのが明白だから、自分や家族を守るために徴兵に応じるわけだ。
つまり、或る種のサイコパス(武道家も軽度サイコパスと私は見ている。いや、勝敗が基本要素のスポーツ、つまり勝負事を好む人間も広い意味ではそれに属するかもしれない。)を除けば、人は「自分やその関係者を守る」ために戦うわけである。
何を当たり前のことを仰々しく書いているのだ、と言われそうだが、哲学とはそういうものだ。
「当り前のこと」が本当に当たり前か、丁寧に検証していく作業が哲学なのである。
通常の冒険ものとたとえばゾンビ物との違いは、前者がふつう自分から積極的に戦いに参加するのに対し、後者は「襲撃されて、その防御としてやむなく」戦うということだろう。そのため、私などから見れば、後者にはホラー性やスリラー性はあっても「爽快感」は少ないように思う。そもそも、明るい美しい自然の中でゾンビと戦う映画やドラマはあまり無いのではないか。美しい野原や陽光とゾンビは似合わない。ゾンビ物の「束縛感」「閉塞感」とその舞台は対応しているようだ。
つまり、「戦う」とは言っても、その「快感」(見る側の快感)は戦いの種類(戦に至る状況や戦いの必然性)や相手によって異なるのではないか、という「断片的思想」をここで提出したわけだ。
ただし、私が途中で視聴放棄したアニメだが、「ゴブリンスレイヤー」などは、相手がゾンビ的存在だのに、主人公側が積極的に戦いを挑むわけで、これは「害虫駆除」アニメと言うべきかと思う。「ゴーストスイーパー」の類だ。「GS美神」の非コメディ版と言える。ただし、「ゴブリンスレイヤー」は視聴にうんざりするほど欠点は多かったが、「戦略」の面白さを追求した姿勢だけは私は良いと思っている。
この「害虫駆除」というのは、実は「殺し屋もの」と共通性があり、殺し屋たちが殺す相手はたいてい社会の悪的存在に描かれている。そうでないと視聴者に不快感を抱かせることを作り手側は熟知しているからだ。「必殺シリーズ」と言うか「仕置人シリーズ」などもそれで、殺される奴はたいてい悪い奴である。だが、現実には政権や上級国民にとって都合の悪い野党政治家などが暗殺されるのであり、そこは現実とは大違いである。
「戦うことの意味」については、考察は不十分(たとえば仲間うちの戦い、内ゲバの問題など)だが、長くなったのでこれくらいにしておく。
思想というより、考察のヒントとして面白い。
確かに、遊牧民族はリーダーシップというものを非常に重んじる。その最大の例証が、部族の長を決めるのに、血統主義を用いないことだ。部族の中で最も優秀な人間が長になる。それでなければ、野獣との闘争や他部族との闘争に勝ち抜き、部族を存続させられないからだろう。のちに元が当時の文明世界のほとんど制覇したのは、まさにその「闘争能力」の卓越によると思う。だが、いったん築いた帝国を維持する能力には乏しかった。そもそも、制覇した土地の住民は定住民族であり、その支配システムが遊牧民族には無かったのだ。その反省が清朝にはあったのだろう。
民族的精神としてのリーダーへの強い信任というのが、ソ連におけるスターリン(共産党)の独裁政治を招いたというのは興味深い考えだと思う。つまり、ソ連人は、遊牧民族の末裔でもある(あった)、ということか。
(以下引用)
確かに、遊牧民族はリーダーシップというものを非常に重んじる。その最大の例証が、部族の長を決めるのに、血統主義を用いないことだ。部族の中で最も優秀な人間が長になる。それでなければ、野獣との闘争や他部族との闘争に勝ち抜き、部族を存続させられないからだろう。のちに元が当時の文明世界のほとんど制覇したのは、まさにその「闘争能力」の卓越によると思う。だが、いったん築いた帝国を維持する能力には乏しかった。そもそも、制覇した土地の住民は定住民族であり、その支配システムが遊牧民族には無かったのだ。その反省が清朝にはあったのだろう。
民族的精神としてのリーダーへの強い信任というのが、ソ連におけるスターリン(共産党)の独裁政治を招いたというのは興味深い考えだと思う。つまり、ソ連人は、遊牧民族の末裔でもある(あった)、ということか。
(以下引用)
私の個人的な見解だけれど、一党独裁の共産党支配のシステムには、(マルクス以上に)レーニンの思想の影響が色濃くて、ロシア人の本来的な社会的感性が強く反映されている。その歴史的な起源と由来はモンゴル人の遊牧集団のリーダーシップと社会システムだ。司馬遼太郎がヒントになる話をしていたが。
佐藤さとるのファンタジー論だが、私もこれに近い考えだ。だが、これはファンタジーに限定せず、普通の小説にも童話にも漫画にも言えることだろう。つまり、読み手の脳内に「もうひとつの現実」を作るのが、フィクションの本質だ。
私と同じ考えだ、というのは、たとえばSFなどでも、描写のリアリティが無いと読者にはその「世界像」は伝わらないし、興味や感動を生むこともない、ということだ。ただし、そのリアリティは「疑似リアリティ」である。細部の描写ひとつでフィクションの「観客(受容者)」は、その世界と一体化する。
たとえば、アラン・ドロンの「お嬢さんお手やわらかに」の中で、主人公のハンサムなプレイボーイ(男の敵! www)が、部屋でひとりで勉強をするシーンひとつで、観客の男性の多くは「自分と同じだ」と彼に感情移入をする。そうした細部の描写が作品に生命を吹き込むのである。
(以下「竹熊健太郎」のツィッターから転載)
見えないもうひとつの現実(じつは非現実)をも、やすやすと創りあげる能力を備えているのである。」 そして佐藤は、「ファンタジーとは本来あり得ないことを、あり得るかのように書いてみせる芸だ」と言います。そのために必要なものは「リアリズム」なのだと。
私と同じ考えだ、というのは、たとえばSFなどでも、描写のリアリティが無いと読者にはその「世界像」は伝わらないし、興味や感動を生むこともない、ということだ。ただし、そのリアリティは「疑似リアリティ」である。細部の描写ひとつでフィクションの「観客(受容者)」は、その世界と一体化する。
たとえば、アラン・ドロンの「お嬢さんお手やわらかに」の中で、主人公のハンサムなプレイボーイ(男の敵! www)が、部屋でひとりで勉強をするシーンひとつで、観客の男性の多くは「自分と同じだ」と彼に感情移入をする。そうした細部の描写が作品に生命を吹き込むのである。
(以下「竹熊健太郎」のツィッターから転載)
見えないもうひとつの現実(じつは非現実)をも、やすやすと創りあげる能力を備えているのである。」 そして佐藤は、「ファンタジーとは本来あり得ないことを、あり得るかのように書いてみせる芸だ」と言います。そのために必要なものは「リアリズム」なのだと。
ニーチェの「深淵を見つめる者は深淵からも見つめ返されるのだ」という言葉は有名だが、その言葉を言ったニーチェ自身が発狂したことは、その言葉の正しさを見事に証明している。もちろん、その直接の原因が梅毒だったにしても、梅毒患者がみなニーチェのように深淵を見つめていたわけではない。逆は必ずしも真ならず、である。
で、ここで論じるのは、「笑い」というのは、人が思っている以上に危険な「深淵」なのではないか、ということだ。
漫画家の中で、ギャグ漫画家の作家生命が非常に短いことを知っている人は多いと思うが、それがなぜかを論じた人はいないだろう。
そこで、私があっさり言えば、笑いとは深淵だから、ということだ。奥深く、得体の知れない存在を見つめ続けるうちに精神の変調を来すのである。
なぜ笑いが深淵かと言えば、人はなぜ笑うのか、と問うのが早いだろう。何かを見て笑うのはなぜか。それが異常だからである。その異常を見つめ続け、異常を自分で作り出すことが「笑いの創作家」の仕事なのだ。つまり、正視するに堪えないものを正視し続けること。これがどれほど精神的にきつい作業か、想像のつかない人が多いかと思う。しかし、古来のユーモリストの多くは日常生活では陰鬱な人間で、発狂した人間も多いのだ。
スイフトは別に笑いを見つめ続けた人間ではないが、そのユーモア感覚の鋭さは誰でも知っている。つまり、異常を見る目が鋭かったのである。だから彼は発狂したのではないだろうか。
で、ここで論じるのは、「笑い」というのは、人が思っている以上に危険な「深淵」なのではないか、ということだ。
漫画家の中で、ギャグ漫画家の作家生命が非常に短いことを知っている人は多いと思うが、それがなぜかを論じた人はいないだろう。
そこで、私があっさり言えば、笑いとは深淵だから、ということだ。奥深く、得体の知れない存在を見つめ続けるうちに精神の変調を来すのである。
なぜ笑いが深淵かと言えば、人はなぜ笑うのか、と問うのが早いだろう。何かを見て笑うのはなぜか。それが異常だからである。その異常を見つめ続け、異常を自分で作り出すことが「笑いの創作家」の仕事なのだ。つまり、正視するに堪えないものを正視し続けること。これがどれほど精神的にきつい作業か、想像のつかない人が多いかと思う。しかし、古来のユーモリストの多くは日常生活では陰鬱な人間で、発狂した人間も多いのだ。
スイフトは別に笑いを見つめ続けた人間ではないが、そのユーモア感覚の鋭さは誰でも知っている。つまり、異常を見る目が鋭かったのである。だから彼は発狂したのではないだろうか。
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