頭の中に将棋盤が無くて、なぜ答えを出せるのか、と言えば、「直観で出している」としか考えられないだろう。つまり、論理演算ではなく、頭の中にある膨大なデータの中で、現在の駒組みから考えて最善の一手を直観で選んで指すのではないか。この推論が正しければ、データの膨大さという点ではコンピュータに似てもいるが、論理演算ではない、という点では完全に対極的なものだろう。
福満しげゆきのネット漫画(と言うより、紙のものの一部をネット公開したもの)をよく読むのだが、奥さんや自分自身の「小さな欠点がむしろ愛嬌になり、微笑ましい」というのがこの漫画の美点だと思う。そしてそれは多くの漫画のキャラでも同じ原理だと思う。あだち充の漫画などはその代表だろう。男ならスケベ、女なら小さな見栄などだ。しかし、根本的な美点(善人であることや、正義感の強さや、守るべき存在を命がけで守るところなど)が大きいから、小さな欠点はむしろスパイスになり、ユーモアになり、かえって美点になる。
いろいろと嫌いな部分の多い漫画家山本貴嗣のツィートだが、この発言には同感である。
もともと忠義というモラルは侍のうちの上級侍(大名など)が自分たちの権力維持のために作ったものであり、鎌倉室町時代までは主君(主家)と侍の関係は「御恩と奉公」というギブアンドテイク関係だったはずである。
私の子供のころはまだ忠臣蔵映画などが一定の国民的人気を持っていたが、それは忠臣蔵の「物語としての面白さ」のためであり、その中に描かれる「忠義」というモラルに違和感を持っていたのは私だけではないだろう。ただ、そのモラルは忠臣蔵という物語を成立させる前提であったから、物語受容(享受)のためにはそのモラルへの批判は棚上げする必要があったわけだ。
そう考えると現在なろう小説で洪水的に制作されている異世界転生物には「忠義」のモラルというのは非常に希薄であり、単に「現実世界のモラルに縛られず、悪人や気に食わない存在を殺し、破壊し、それで栄誉やカネや女を得たい」という欲望を発散する手段だろうと思う。つまり、現実の侍社会や騎士の世界には主君という邪魔な存在があり、それへの忠義自体が自分の行動を縛るモラルとなっているわけである。
だが、物語作成の上で考えるべきは、「忠臣蔵」の忠義概念自体が物語を作っている、ということだ。いわば、五七五の構造があるからこそ俳句になる、というようなものだ。そういうように、「制限そのものが物語を作るエンジンになる」という面はもう少し意識すべきだろう。無数のなろう小説のつまらなさは、そういう制限が無い(必然的にすべてがいい加減なご都合主義になり、底の浅い低レベルな物語になる)ところから生じているとも考えられる。
アニメにもなっている(私自身はアニメしか見ていない)「本好きの下剋上」の良さは、転生した異世界が完全な身分社会で、その身分社会との戦いが物語の大きな要素になっていることで、つまり「制限が物語を生む」という好例である。主人公の体の弱さというのも、そういう意味では「制限」が話を作っているという部分だろう。
いかにして問題を解決するか、というのは物語の大きな快感要素であり、その快感は難題(制限)の存在から来るわけだ。たとえば、「タッチ」では、愛する女性と自分が結ばれることは死んだ弟への裏切りになる、という難題が物語を形成する大きな要因になっているのである。これは「クロスゲーム」でも同じ構造である。別の見方をするなら、「死者は本当に死んでいるのか」という問題でもある。その死者の存在が我々の生活に強い影響を持つなら、その死者は我々の精神の上では死んでいないわけだ。「めぞん一刻」も同じ構造だろう。
(以下引用)
たぶん「忠義」という感覚がかなり世間から無くなってるのも大きいんでしょうね。だから、そこを何かで埋めあわせないと『忠臣蔵』には感情移入できない人が多いのかもで>RT
もともと忠義というモラルは侍のうちの上級侍(大名など)が自分たちの権力維持のために作ったものであり、鎌倉室町時代までは主君(主家)と侍の関係は「御恩と奉公」というギブアンドテイク関係だったはずである。
私の子供のころはまだ忠臣蔵映画などが一定の国民的人気を持っていたが、それは忠臣蔵の「物語としての面白さ」のためであり、その中に描かれる「忠義」というモラルに違和感を持っていたのは私だけではないだろう。ただ、そのモラルは忠臣蔵という物語を成立させる前提であったから、物語受容(享受)のためにはそのモラルへの批判は棚上げする必要があったわけだ。
そう考えると現在なろう小説で洪水的に制作されている異世界転生物には「忠義」のモラルというのは非常に希薄であり、単に「現実世界のモラルに縛られず、悪人や気に食わない存在を殺し、破壊し、それで栄誉やカネや女を得たい」という欲望を発散する手段だろうと思う。つまり、現実の侍社会や騎士の世界には主君という邪魔な存在があり、それへの忠義自体が自分の行動を縛るモラルとなっているわけである。
だが、物語作成の上で考えるべきは、「忠臣蔵」の忠義概念自体が物語を作っている、ということだ。いわば、五七五の構造があるからこそ俳句になる、というようなものだ。そういうように、「制限そのものが物語を作るエンジンになる」という面はもう少し意識すべきだろう。無数のなろう小説のつまらなさは、そういう制限が無い(必然的にすべてがいい加減なご都合主義になり、底の浅い低レベルな物語になる)ところから生じているとも考えられる。
アニメにもなっている(私自身はアニメしか見ていない)「本好きの下剋上」の良さは、転生した異世界が完全な身分社会で、その身分社会との戦いが物語の大きな要素になっていることで、つまり「制限が物語を生む」という好例である。主人公の体の弱さというのも、そういう意味では「制限」が話を作っているという部分だろう。
いかにして問題を解決するか、というのは物語の大きな快感要素であり、その快感は難題(制限)の存在から来るわけだ。たとえば、「タッチ」では、愛する女性と自分が結ばれることは死んだ弟への裏切りになる、という難題が物語を形成する大きな要因になっているのである。これは「クロスゲーム」でも同じ構造である。別の見方をするなら、「死者は本当に死んでいるのか」という問題でもある。その死者の存在が我々の生活に強い影響を持つなら、その死者は我々の精神の上では死んでいないわけだ。「めぞん一刻」も同じ構造だろう。
(以下引用)
たぶん「忠義」という感覚がかなり世間から無くなってるのも大きいんでしょうね。だから、そこを何かで埋めあわせないと『忠臣蔵』には感情移入できない人が多いのかもで>RT
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