(以下引用)
サイバーパンク(cyberpunk)とは1980年代に流行・成立したサイエンス・フィクションのサブジャンルまたは特定の思想・運動。
ウィリアム・ギブスンが代表的作家。
概要[編集]
「サイバーパンク」という単語は1980年代にブルース・ベスキ作の未成年の技術者集団を描いた短編のタイトルとして出現したが、その後の1985年にSF誌の編集者であり評論家であったガードナー・ドゾワによって、作風を指す新語として用いられ[1]、SF界における思想、運動、スタイルをさす言葉となった。自然科学の理論に基づく従来からのサイエンス・フィクション、これを厳密化したハードSF、非現実な要素を加えたスペースオペラ、サイエンス・ファンタジーなどに対するカウンターとしての思想、運動であり、それらを体現する小説に盛り込まれた要素・スタイルを抽出し、これをサイバーパンクと呼ぶ。
典型的なサイバーパンク作品では、非現実性へのカウンターとしてよりリアルな現実性が意識され[注釈 1]、最も現実性を体現するモチーフとして人間や心理の描写に力点が置かれた作品が多い。作中では人間が持つ生体機能としての人体と、脳機能に基づく認知、思考、心理などを機械的ないし生物工学的に拡張し、それらのギミック、ないしはコンピュータやネットワークによる[注釈 2]模倣が普遍化[注釈 3]した世界・社会の描写を主題のひとつの軸としている。さらに心理描写についても現実性をもたせるため、社会心理学や異常心理学で現れる「対立」や「葛藤」の発展形と看做される構造・機構・体制に対する反発(いわゆるパンク)や反社会性を、主人公の言動や作品自体の主題のもう一つの軸として好んで多用されている。これらを内包する社会や経済・政治などを俯瞰するメタ的な視野の背景の提供と描写が加えられることで、作品をサイバーかつパンクたらしめ、既存のSF作品とは一線を画すことが認識されて成立し確立されている。
サイバーパンク作品では、人体へのコンピュータや機械・臓器などの埋め込み(サイバーウェア、インプラントなどと言う)によって機能や意識を拡張する人体改造的な概念や、サイバースペース等と呼ばれるネットワーク空間(仮想空間、仮想社会)などを小道具として登場させる作品も多く、また代表作の幾つかでは退廃的で暴力的な近未来社会を舞台として疲弊しきったテクノロジーを描いていたため、単にそのスタイルのみを真似てこれに倣うフォロワー的な作品がサイバーパンクを名乗ることがあるが、これらのガジェットは要素の一部に過ぎず、パンク思想やメタ視点等の最も中核的な部分を扱うことのない作品は、あくまでフォロワーに過ぎない。
小説『ブラッド・ミュージック』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』等の作品もサイバーパンク(ないしはその前駆的作品)として列せられる。これらは根源的な意味でサイバーパンクであるとされており、疲弊した技術やコンピュータとの融合などの「サイバーパンク的ガジェット」は登場しないが、前述の要素を持つためサイバーパンク(または前駆的サイバーパンク)と解釈される場合がある。
由来と分類[編集]
サイバーパンクの語源となるサイバネティクス(cybernetics)とは、本来はフィードバックの概念を核にして生理学と機械工学、システム工学、情報工学を統一的に扱う学問領域であるが、これが転じて脳神経機能の電子的・機械的補完拡張やコンピューターへの接続技術を指すようになった。さらに、人体の機能の一部を機械的・電子的に拡張ないし置き換えたサイボーグ(cyborg: cybernetic organからの造語)という概念がSFで盛んに用いられるようになっていた。サイバーパンクではこれらの人体と機械が融合し、脳内とコンピューターの情報処理の融合が「過剰に推し進められた社会」を描写する。さらに、社会機構や経済構造等のより上位の状況を考察し、それらを俯瞰するメタ的な視点・視野を提供するという点で従来のSFと一線を画する。
これらサイバーパンクを含む「テクノロジーの過剰な発達を土台とした世界や作品」は、一部ではテックパンクスとも呼ばれ、蒸気機関が現実の絶頂期の様相を越えて発展した社会や世界を描くスチームパンクや、電気機器の(現実を越えた、過剰な)発展による社会や状況、鉄塔や電線、碍子、真空管などのガジェットへの傾倒を描いたエレクトリックパンクなどといった類型も存在するが、これらはサイバーパンクからの派生ジャンルとみなされ、共に広義のSFに内包されるものとして取り扱われている。
サイバーパンクが成立した1980年代前半は、北米や欧州を中心にパーソナルコンピュータが一般家庭にも普及を開始し、原始的なネットワーク(パソコン通信)を伴って身近なものとなり[注釈 4]、また各種の電子機器が民生機器として隆盛していた時代でもあり、一方で軍学共同の広域ネットワーク(インターネットの直接のルーツとなるARPAネットなど)の研究と普及も始まっていた[注釈 5]。これら実在のガジェットや概念に触れる機会が増大したことで、それらが「過剰に発展した(近)未来への着想」をもたらしたという点でも、同時代の社会および科学・民生技術の状況がサイバーパンク成立の母体となったことは確かである。
一方、1990年代に入りインターネットの商用利用解禁や、ITバブルによるパーソナルコンピュータや携帯電話などの普及によってこれらが身近なものとなり陳腐化すると、サイバーパンク・ムーブメントの存在感や刺激は相対的に後退し、沈静化する。しかしこれは言い換えれば、90年代以降は、サイバーパンクの着想が大衆的に広く浸透し、あえてジャンル化する意義が見いだせないほど当たり前なものになった時代でもあるということである。さらにインターネットの普及、ユビキタス社会の進展により、サイバーパンク的な感覚は着実に現実に浸透しつつある。
サイバーパンクの系譜[編集]
「サイバーパンク」というジャンルを打ち立てた作品としては、前出のギブスン「ニューロマンサー」を始めとするスプロール・シリーズ作品がまず挙げられる。
日本語への翻訳では、黒丸尚がルビを多用した独特の文体を用いた。また柾悟郎はこの特徴的な文体を活用して『ヴィーナスシティ』を書いた。
ジェイムズ・ティプトリー・Jr.の小説『接続された女』はサイバーパンクの成立以前(1974年)に書かれた作品だが、後にサイバーパンクの先駆的作品として認められるようになった。また、フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も同様に作品(小説)自体はサイバーパンクとは見なされていないが、これを原作とした1982年の映画『ブレードランナー』において描かれた退廃的で無国籍な人口過密の大都市、空飛ぶ車(スピナー)、高度な科学技術で作られた人造人間(レプリカント)等のビジュアル・舞台設定は、後発の創作に多大な影響を与え、「サイバーパンクとは『ブレードランナー』のような近未来社会を描いた作品である」と形容されることもある。
トマス・ピンチョンの『V.』『重力の虹』なども前サイバーパンク的小説といえる。これらは時代設定的に高度ネットワークをもたない世界を描いた作品であるが、機械との半融合、システムと人間など、サイバーパンクのテーマに連なる内容が特徴である。
これはなぜなのか、よく分からない。
「自分ひとりでウケている」という作品は、ギャグ作品だけとは限らず、三流作品の多くに見られる特徴だと思う。一般的な言葉で言えば、夜郎自大だろうか。しかし、ほとんどの作品は自分が作るものの内容に自信があるから作るわけで、創作において夜郎自大が本質的に悪いというわけではなく、単なる実力不足(特に、人間性や笑いへの理解不足)から来るのだろうと思う。「大学生ノリ」というのは、未熟な内容を勢いで誤魔化すという不誠実さのことだ、と言っていい。もちろん、一部の層には「大学生ノリ」が受けているからこそ厄介なのである。
「大学生ノリ」はあるが、「高校生ノリ」は無い、ということは、高校生に比べて大学生は基本的に軽薄である、という事実から来ると思う。そして大学生ノリのままの人間が広告会社やアニメ制作会社などに入るわけだ。
(以下引用)
「このアニメ無理なやつだ」って思う瞬間・・・
テンプレの行き過ぎた狂気系とか観る気しないよな
胸糞悪いだけの展開のなろう系とかも無理
分かるわ
「主人公一筋」みたいなのを強調したいんだろうけど普通にドン引きする
何考えてるかわからんってレベルまでいくと無理
たまに女が悪役の時はかわいそうな過去付き
- 2020年10月01日 10:51 ID:ROCxEe3T0
- 利家が高評価ってないわ、加賀百万石は利家の時代じゃなく孫の代だぞ。
前田慶次は上杉家に召し抱えられる時に泥つき大根持ってきた話もある。そもそも漫画は隆慶一郎の「一夢庵風流記」が原作だぞ、そっちを読んだほうが良い。
NHKの大河ドラマ「利家とまつ」にも慶次は出てきたな、あの忍者頭目の主馬も出てきて笑った。