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「weblio英会話」とか何とかいうサイトからの転載だが、下の例文の訳は間違っているのではないか? いや、私は英語には自信は無いので、私の間違いかもしれないが、


The ​murderer was ​killed by his victim’s avenging wife.
被害者は妻の復讐を果たすために、殺人者を殺した

と訳文が書かれた英文の正しい訳文は、「殺人者は、その犠牲者の、復讐心に駆られた妻によって殺された」、つまり、殺されたのは「夫」であって「妻」ではないし、復讐したのは「夫」ではなく「妻」だと私は思うわけである。仮に私の解釈が正しいなら、英会話学校(か?)の宣伝としてはマズいように思う。
なお、この例文ではその復讐が憎悪による復讐か正義感による復讐かの区別もできないと思う。まあ、そもそも、敵討ちなどが「正義感からの復讐」とされているのも的外れだろうし、他の例文もあまり良くないように思う。敵討ちの動機は「個人的な恨み」と「正義感」の複合だろう。


(以下引用)


違いはなに?avenge と revengeの「復讐」の意味

avengerevenge は、単語の形が似ているだけでなく、意味も似ています。両者も「復讐する」という意味があるのです。両者はどのように使い分けられているのでしょうか。

「avenge」は正義感による復讐

avenge の「復讐」は、不正や悪事に対する、正義感から行うものを指します。日本語では、「敵討ち」「フェアな当然の仕返し」と言うことができます。

avenge + 復讐の目的 + on + 復讐する相手」の順番で使います。

The ​murderer was ​killed by his victim’s avenging wife.
被害者は妻の復讐を果たすために、殺人者を殺した

I’m sure that he will avenge us on our oppressor.
彼は迫害者をこらしめて私たちの敵を討ってくれると信じている

That young boy planned to avenge his father.
その若い少年は、父の敵討ちをしようと計画した

アメリカのヒーロー・コミック 『Avengers』も、avenger(正義の復讐者)からきています。

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例の「包丁事件」で、警察が「思想犯の中から容疑者を探している」みたいな発言をしたらしく、「今の時代に『思想犯』という犯罪が存在するのか?」と疑問に思って調べてみたが、法律的にはどうなのかよく分からない。とにかく、警察は左翼関係者を「思想犯」としていることは確かなようだ。
これは、しかし、「思想犯」という言葉を言葉どおりに受け取れば、「心の中で考えただけで犯罪とする」という、終末SF(ディストピア)的状況ではないか。


(以下引用)


思想犯
しそうはん

現国家体制に批判的ないしこれに反対する思想に基づく犯罪。政治犯確信犯も類似した概念。国家は、特定の国家体制(または政治体制)を維持・強化するため、警察などの権力機構内部に思想犯を対象とする組織を設け、前記のような思想やこれに基づく社会運動を取り締まり、処罰する傾向をもつ。戦前のわが国では、治安維持法を頂点とするさまざまな治安法により、社会主義運動や労働運動はもとより、反戦運動、さらには自由主義的運動さえも、「国体」(天皇制)の変革や私有財産制度の否認を目的とするという理由で、特別高等警察(特高警察)などにより厳しく取り締まられ、処罰された。そして、敗戦に伴うポツダム宣言の受諾により、治安維持法や特高警察は廃止されたが、まもなく「新特高」とよばれる警備公安警察の組織が新設され、警察法第2条1項の「公共の安全と秩序の維持」を法的根拠として警察実務における「警備犯罪」(ここにいう思想犯を含む)を対象に幅広く情報収集活動を展開するとともに、共産主義運動、労働運動その他各種の社会運動に伴う不法事案の予防や鎮圧にあたっている。[名和鐵郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

「福音主義」というのも、名前と内容が乖離した、意味不明の名称(訳語)で、「聖書主義」とでも言えば明確になるのではないか。それによって、カトリックの「教会主義」との違いも明確になる。


(以下引用)





福音主義(ふくいんしゅぎ、英語: Evangelicalism)とは、キリスト教教派神学分類の用語である。

福音主義・福音派[編集]

宗教改革当時[編集]

元来、キリスト教において宗教改革の立場を採る考え方を福音主義と呼んだ。21世紀初頭を代表する英国聖公会福音派神学者であるアリスター・マクグラスによると「『福音的(Evangelical)』と言う言葉は16世紀に遡り、カトリックの思想家の中で、信仰や実践について、中世後期の教会と結びついたものよりも、より聖書的なものに立ち返ろうとした人々」のことを指して、他のカトリックから区別したとされる。プロテスタントが「福音主義・福音派」と呼ばれたのは、このように教会における権威の所在を「聖書のみ」とし、神のことばに求めたからであった。

近年の用法[編集]

マクグラス他によれば「福音派」は、今日では大きな4つの前提を中心としているとされる。

  • 聖書の権威と十分性
  • 十字架上のキリストの死による贖いの独自性
  • 個人的回心の必要性 
  • 福音伝道の必要性・正当性・緊急性

マクグラスは「他のすべての事柄はアディアフォラ、つまり『無関心な事柄』とみなされる傾向がある」としている。すなわち、上記4点以外については多様な見解・立場を受け入れるのである[1]

重さと質量は異なる概念で、また個別の質量はその物の体積だけでなく密度とも比例関係にあるから、質量=体積というわけでもないようだ。質量の定義としては「その物体の動かしにくさの度合い」とされているようだが、現実には重さの単位を質量の単位としても用いるようだから、物理を学ぶ学生は最初の最初から頭が「?」状態になるわけで、物理の授業を五里霧中の中で聞いて行くことになる。なまじ厳密な思考をしようとする人間は、物理に拒否反応を持つかと思う。下のウィキペディアの記述は親切な説明だとは思うが、それでもすっきりと腑に落ちる感じになれない人は(私も含めて)多いのではないか。
まあ、とりあえず、「重力質量」と「慣性質量」の違いを最初に教え、質量とは(定義から見て)本来は慣性質量だが、同じ場所(たとえば地球上)では便宜的に重力質量を用い、それは「重さ」の単位で表す、と教えればいいのではないか。(私は重力質量と慣性質量をそう理解したのだが、間違いだろうか。)





質量の概念[編集]

より正確な記述は後述することにして、「質量の概念」や「質量・重量(重さ)の違い」について概略を述べる。

バケツやコップに水を注ぐと、注いだ分だけバケツやコップの重さが増す。このことは、容器を変えても同様であり、水の量(体積)に応じて水の重さが変わることが分かる。また、同じ容器に水ではなく水銀などを入れると、同じ大きさの容器かつ同じ体積であるにもかかわらず、入れた物質によって「重さ」が異なることが分かる。このように、物の重さはその物の種類と量によって異なり、逆に同じ重さであっても異なる種類と量の物を用意することができる。このことから、様々な物体に共通する、物体の重さを支配する量が存在すると期待できる。後述するように、このような役割を果たす物体固有の量が、質量である。

物を支える際に感じる「重さ」以外にも、物を動かしたときにもその物体の「重さ」を感じることができる。台車に荷物を載せて運ぶ際、台車を動かし始めるときや動いている台車を止めるとき、たとえ同じ速さで台車が動いていたとしても(あるいは動いていなかったとしても)、台車に載せた積荷の量によって感じる手応えは異なる。このように、物体の動かし難さとしての「重さ」が存在し、それは物体の種類と量によって異なるため、先ほどの場合と同様に物体がある種の「質量」を持っていると考えられる。

物体を支える際に感じる「重さ」は、その物体を支えるものがなければ物体は落ちていってしまうので、物の落下する性質に関係する。物体が落下しようとする力を重力と呼び、これに関係する質量を重力質量と呼ぶ。重力質量の大きさは天秤を用いて測ることができる。同じ重力質量を持つ物体同士は重さも等しいので、天秤に載せると互いに釣り合う。基準となる物体を用意することで、基準に対するとして重力質量が定まる。

物体を動かす際に感じる「重さ」は、静止している物体は静止し続け、ある速さで運動する物体は同じ速さで運動し続けようとする性質、すなわち物体の慣性に関係する。これに関連する質量を慣性質量と呼ぶ。慣性質量は、たとえばハンマー投げのように物体を円運動させたときに感じる手応えによって知ることができる。慣性質量の異なる物体を同じように円運動させたとき、慣性質量が大きいほど円運動を維持するのに必要な力は大きくなる。

経験的に、慣性質量の大きな物体は重力質量が大きい、つまり「地球の重力で引っ張られて重い」(持ち上げにくい)と感じられる物ほど、「無重力状態でも動かしにくい」ことが知られている。この事実から、慣性質量と重力質量の違いに因われることなく、物体の重さを感じることができる。この慣性質量と重力質量の関係性を直接的に示すものが落体の法則である。落体の法則によれば、自由落下する物体の運動は、物体の重力質量に依らず同じであり、このことから重力質量と慣性質量が等価であることが導かれる。重力質量と慣性質量の等価性から、両者を区別することなく、単に質量と呼ぶことができる。この現象は、基本的には一般相対性理論等価原理によって説明される。

「BLOGOS」所載の記事で、筆者は編集者らしいが、文芸全般においてのクリエイター志望の人間にとっては非常に有益な記事である。編集者の黒い腹積もりも正直に書いている。

(以下引用)


「アニメ化を断った話」を考えた話

なんかアニメ化断念作家の話が周囲で話題になっていた。これなんだが。新人作家が編集者に翻弄された経緯を綴ったエッセイで、一読した印象としては無残な感じだ。

このエッセイに対し、「これは編集者あるあるである」的な感想を残している方がいる。それは正しい面もあるが、厳密には間違いなので、編集者である私の感想など書いておこうかなあと。

まず編集者といっても、担当媒体でかなり行動原理が違う。私は雑誌系編集者だが、著者(ライター)からのメールを1か月放置するなどあり得ない。当たり前だが、それでは月刊誌だろうが週刊誌だろうが本が出ない。

雑誌編集者なら1日100本以上は普通にメールを処理するはず。たとえそうでも締め切りで忙しくても、基本的には数時間以内には返答メールを出すはずだ。結論を出すのが難しい案件であれば、「今はわからないが、多分1か月後には」な「今締め切りで忙しいので、10日待ってくれ」等、期限を相手に伝えるのは当然だし。

当該エッセイを見る限り、それは「文芸編集者」特有(しかも割と一部というか、ライトノベル限定)の行動でしかないと思える。

ライトノベル作家を志した場合の金勘定については6年ほど前に書いたので、興味があれば読んでもらいたい。いろいろな背景があり、現在では初版部数とかはもっと減っているようだが。

私は文芸担当になったことはない。だが周囲の編集者からの情報などがあるので、ある程度は推測がつく。なので以下、解説していこう。あくまで推測なので、このエントリーを事実として信じないように。フリーランスの物書きとして生活したいなら、いろいろな情報から、自分なりの教訓を抽出するべきだ。

こうした「作家なおざり編集」の話を読み解く場合、まず留意すべきは、編集者の行動様式だ。

考えてみてほしい。文芸部門編集者が目指すのは、売れる小説を担当することだ。それが担当媒体のためになるし、自身の社内評価にもつながる。そのために売れっ子に媚を売ったり、見込みのある新人を育てたりする。そこまではわかってもらえると思う。

特にライトノベル編集者の場合、作家の使い捨て度合いが激しく、そもそも小説としての完成度よりアニメ化・コミック化での成功を求められるので、この傾向が極度に強調される。

こうしたライトノベル編集者がどう行動するか、考えてみよう。

まず、新人には優しい。なぜなら、新人は今後売れるか売れないかが、まだわからないからだ。うぶな新人に好感を持たれれば、売れたときに自分の駒にできる。だから優しい。

次に、デビュー後、あまり売れなかった作家に対して、彼らがどう対応するか。門前払いはしない。なぜなら、今後、一発大逆転で売れるかもしれないから。といって、自社で先頭を切って小説を刊行するのは躊躇する。理由はもちろん、前作が売れていない以上、次の作品も売れない可能性が高いからだ。

ではどうするか。万一、他の出版社でその作家が売れたときのために、キープだけしておくわけさ。具体的には、プロットを求め、なるだけ時間をかけてああでもないこうでもないと、引き延ばす。あるいは実作を受け取り「出版できるか会議にかけてみるよ」と、宙ぶらりんの状態に置いておく。

「読んでくれました?」「会議はどうでした?」という問い合わせには、返事をしない。限界まで放置しておいて、「すみません忙しくて返事が遅れました」などと回答し、またプロットにダメ出ししたりして、時間稼ぎに入る。

こうして、1年でも2年でも、作家と作品を塩漬けにする。その間に、その作家がブレイクして忙しくなれば、急遽、そのプロットなり原稿なりで出版する。完全に切れてしまっては、そうした臨機応変な対応ができない。作家からしても、「あのとき冷たくあしらわれたのに、売れたら手のひら返しかい」と、心情的な反発が出てしまうし。

で、その作家の再ブレイクがなければ、メールを放置するなどして、自然消滅に持ち込む。

――とまあ、こうなる。当該作家のエッセイを読む限り、このパターンの典型に思える。

たしかに私個人としても、そんな編集者は屑だと思う。最低でも連絡は即日返ししろよと。だが編集者に限らず、皆さんご存知のとおり、周囲を見回せば、どんな仕事でもいい奴と屑がいる。

アニメ化云々も同様。アニメのプロデューサーは、言ってみれば上記編集者と同じ行動原理だろう。つまり「売れる前からとにかく多くの作品に声だけ掛けておく」って奴よ。売れてから声を掛けるのでは、他社に遅れを取って権利が取れないからだ。だからたとえばその年3本のアニメを計画しているとしても、声だけは30作に掛けておくとかね。

それで小説が実際売れたら「この間の話のように、うちが進めます」と進む。売れなかったら、なんだかんだ理由をつけて自然消滅に持ち込む。

そんな流れではないかと思うわ。

この作家の方に限らず、この手の対応にあった人に助言したいのは、編集者なりアニメプロデューサーが「あなたの作品は最高です」「一生ついていきます」「監督が忙しくて」「今は難しいです」「ここの展開が駄目です」「古臭い」などと言われても、いちいち本気にしないことだ。

褒められようがけなされようが、所詮、赤の他人が、自分の利益のために嘘ついているだけと思ったほうがいい。自作の評価に入れ込みすぎると、精神面が危うくなる。一歩引いたところから、すべての状況を眺めておくことだ。最悪、兼業作家から趣味作家に戻るだけの話。飯のために他に仕事を持つという意味では、たいして違いはない。そのくらい冷徹に事態を把握しておけばいい。

本来、アニメ化打診だろうがプロット提出だろうが、作業を依頼してきた相手には、「期限つきの映像化優先権」「期限つきの出版検討権」などを有償で販売するべきだろう。ただ今の日本の現状でそうした慣習があるとは思えない。このあたり、新人作家が出版社と直接対峙するのは難しい。作家の利益を最大化する、出版エージェントと契約すべき時代なのかもしれない。

実際日本でも、出版エージェント事業は博報堂をはじめ、いくつかの企業が始めている。ただまだビジネスとして順調に立ち上がっているとは言い難いのが残念だ。

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