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戦国初期の勢力争いは複雑怪奇で、「新九郎奔る」を読んでいても、さっぱり分からない。
であるから、そのあたりの時代や土地を話の舞台にして空想小説を書くのは無謀極まることではあるが、やってみたいので、やることにする。まあ、デタラメというか、「架空歴史」の話だという大前提で、それにもっともらしい雰囲気を与えるために、歴史的地名や人名、場合によっては歴史的事件を利用するだけである。まあ、とりあえず、最低限、下の太字の知識があればいいか。

鎌倉府は、関東及びその周辺を含む東国の経営にあたり、その長官を鎌倉公方と呼んだ。 2代将軍の足利義詮の弟基氏を初代公方として鎌倉に下向させ、その補佐役として上杉氏を関東管領とした。 公方は基氏の家系が世襲するが、代を重ねるごとに、将軍家との対立が深まり、将軍から任命されている関東管領との間も対立することになる。


京都より早く戦国時代に突入したきっかけが「享徳の乱」(1455~1483年)。
1439年に6代将軍・足利義教に父親(鎌倉公方・足利持氏)を殺された原因は、家臣である関東管領・上杉氏にあると睨んだ鎌倉公方・足利成氏が復讐し、関東管領・上杉憲忠(父親が公方だった頃の関東管領・上杉憲実の息子)を殺害(1455年)。
これにより、関東諸侯を巻き込んだ、公方家VS関東管領家の抗争に発展。
憲忠の死後、弟・上杉房顕が関東管領に就任、従弟の越後守護・上杉房定と合流して上野平井城に入った。
1455年、騒乱の中、足利成氏は鎌倉府を捨て、新たに古河に御所を作った(古河公方の誕生)。
関東は利根川を境界に東側を古河公方陣営が治め、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になった。
1466年には、関東管領・上杉房顕が病死したため、顕定が後継となる。
京都では、1467年に「応仁の乱」(~1477年)が勃発。全国的に戦国時代の突入となった。
1476年には、関東管領側の武将・長尾景春が反旗を翻し、関東各地で合戦。
関東管領・上杉顕定は、古河公方派と戦いつつ、内紛の制圧にも追われた。
1477年、応仁の乱、終息。勝敗がつかないまま終わり、戦後罪に問われる守護もなかった。



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