まあ、使うかどうかは分からないが、戦国時代初期(室町時代末期)の関東の政治情勢である。
この頃の「〇〇公方」とは要は将軍家(足利家)の親戚、くらいの意味だろう。本来は「天皇、朝廷(貴族)」を意味するが、彼らは武家の出であるので、平安からの貴族たちが彼らを本当に貴族と見ていたかどうかは怪しい。庶民の間でも、武家を「成り上がり」と見ていた可能性は高いと思う。要は、武家は「暴力」で権力を手にした連中なのである。権謀術数で権力を得た貴族がそれより偉いというわけでもないが。
室町幕府の滅亡の根底には、「応仁の乱」での幕府の無能さへの失望と同時に、世間のそうした足利家への軽蔑心があったのではないか。それが、後の「足利尊氏の悪役化」の一因でもあった気がする。子孫の不名誉が鼻祖に及んだわけだ。
(以下引用)
この頃の「〇〇公方」とは要は将軍家(足利家)の親戚、くらいの意味だろう。本来は「天皇、朝廷(貴族)」を意味するが、彼らは武家の出であるので、平安からの貴族たちが彼らを本当に貴族と見ていたかどうかは怪しい。庶民の間でも、武家を「成り上がり」と見ていた可能性は高いと思う。要は、武家は「暴力」で権力を手にした連中なのである。権謀術数で権力を得た貴族がそれより偉いというわけでもないが。
室町幕府の滅亡の根底には、「応仁の乱」での幕府の無能さへの失望と同時に、世間のそうした足利家への軽蔑心があったのではないか。それが、後の「足利尊氏の悪役化」の一因でもあった気がする。子孫の不名誉が鼻祖に及んだわけだ。
(以下引用)
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1150021036さん
1349年に足利尊氏と弟の足利直義が対立(観応の擾乱)した際、直義に代わって政務を執るために上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した弟の足利尊氏四男足利基氏を初代とする。 関東管領を補佐役として関東10か国を支配した(陸奥国・出羽国も追加)が、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになった。将軍家と身分差が少なく、幕府が危機に陥るたびにそれを脅かす行動をとる傾向が強まった。 1379年の康暦の政変の直前、第2代鎌倉公方足利氏満が幕府分裂の危機を察知して挙兵を企てたが、関東管領上杉憲春が諫死したことで断念した。また、1399年の応永の乱に際しては、今川貞世の仲介で大内義弘と第3代鎌倉公方足利満兼が連合を組む。一致団結して京都を攻めることが構想されたが、その前に大内義弘が戦死したため頓挫した。 永享の乱の際には関東管領上杉憲実とも対立し、第4代鎌倉公方持氏が敗れ1439年に自害させられたことで断絶した。 享徳の乱(1454~1482)で5代鎌倉公方足利成氏と室町幕府が支持する関東管領 山内上杉家・扇谷上杉家が対立すると、鎌倉公方足利成氏は利根川・渡良瀬川沿いで当時北関東の交通の要衝として栄えていた下総国古河へ逃走し古河公方として関東を統治する意思を見せた。幕府はそれを認めず新たな鎌倉公方として足利政知を関東に送り込んだが、政知は幕府から実権を与えられておらず関東の諸侯に命令を出せない状態であり、安全に鎌倉に入ることが出来ず、その勢力はほぼ伊豆国のみに限定され、伊豆国堀越を本拠地としたことから堀越公方と呼ばれることとなった。また以降は関東地方では山内上杉家、扇谷上杉家、古河公方、堀越公方と台頭してきた後北条家が互いに対立したり協力するようになる。 要は、ほとんど室町幕府将軍と官位が変わらなく、血縁的にも尊氏の子孫であり将軍と大差なく、管轄範囲は関東地方10か国で広すぎたので代を重ねるにつれて幕府と対立するようになった。
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