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心情移入とは、他者(小説や劇の主人公など)の心情を自分のことのように痛切に感じることである。まあ、それは言わでものことだが、一応、定義してから話を進めるのが哲学だww
そして快感原則とは、あまり他の人は言わないが、フィクション受容体験、つまり読書や映画視聴などの際の基本条件と私が見ているもので、要するに、フィクションの受容に快感があるから我々はその体験を好むという、当たり前の話である。誰が嫌なことを自分から進んでするものか。
まあ、世の中には、飯を食うのは嫌いだが、食わないと死ぬから嫌々食うという人もいるかもしれない。セックスは嫌いだが女房や旦那のために嫌々する、という人もいるかもしれない。しかし、基本的に人は、それが好きだから(食事やセックスが快感を与えるから)やるのである。

で、小説などにおける快感はどうして生まれるのかと言うと、それは主人公への心情移入からだ、というのが一番自然だろう。もちろん、細部の描写(たとえば自然描写など)を味わうのが好きだ、という高度な読者もいるだろうが、ここでは「基本」を論じている。読者や視聴者にとって、作中人物が「愛すべき存在」である時に、その人物の体験することは、自分自身が体験するのと同じ切実さを持つのである。(従って、主人公は原則として「善人」である必要がある。誰が悪人に共感し、感情移入するものか。ただし、「魅力的な悪人」というのは存在する。だいたい、超絶的に頭が良い人間で、主人公には不可能な「善に反する行動」もできるところが、年少の読者には非常に魅力的に思えるのだ。それは、読者がその悪の及ぼす危険からの「安全地帯」にいることによってのみ可能な「悪の受容」である、と精神的に大人なら分かる。)
とすれば、主人公は読者や視聴者とあまりにかけ離れた超人では、その一体感(共感)を得るのは難しい、となるだろう。前に書いたが、「お嬢さんお手やわらかに」の主人公がひとりで勉強をする場面で、観客の多くは「この主人公も(他の部分は大違いだが、嫌な勉強を真面目にやる点では)自分と同じだ」という一体感を得たわけだ。で、主人公が超人である場合は、どこかに些細な欠点を作り、読者や視聴者に共感を持たせる必要がある。「タッチ」の達也は潜在的超人だが、能力が「潜在的」であるために、そのスケベな言動で周囲に馬鹿にされている。そこに読者は共感を感じるのである。周囲のほとんどから馬鹿にされながら、南という最高の美少女で学校のアイドル的存在に好かれているという状態は、読者の「俺の真価は誰も分からないが、もしかしたら凄い可能性を持っているかもしれない」という妄想をくすぐるのである。つまり、達也の「欠点」と「境遇」は読者の共感を巧みに呼ぶ仕掛けになっている。
無法松やジャン・バルジャンの「欠点」は、境遇そのものである。人格的にはこの上なく見事な、立派な人間でありながら、その境遇によってさまざまな不幸に翻弄される。その姿に読者は感情移入し、涙するわけだ。この種の話を「運命悲劇」と言ってもいいし、「社会的悲劇」と言ってもいい。その「運命」は社会構造によるものだからだ。(その素晴らしい人格そのものが「欠点」だと見ることもできる。彼らが悪人なら幾多の苦難も容易に乗り越えただろうからだ。しかし、彼らが悪を為せば、その瞬間に彼らはその「運命悲劇」の主人公の資格を失うのである。)


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昨日書いた記事だが、ブログ管理会社の故障か何かで載せられなかったので緊急避難的に別ブログに載せた記事である。

(以下、自己引用)

別ブログに載せる予定だった記事だが、「データベース上のエラーで登録できませんでした」という事故があったので、ここに載せておく。

(以下自己引用)

このブログテーマで思いつく内容を少しまとめておく。

1:快感原則と心情移入
2:自己愛と超人幻想
3:問題と解決
4:敵と味方
5:愛情や執着の対象

といったところだろうか。前に書いた「戦い」なども小説(脚本・漫画原作)創作のための哲学的考察テーマとしては必須だろう。
上に書いた中では1から3が主要で、4と5は副次的な感じがある。たとえば、戦いの話に愛情の対象という存在は必須ではない。しかし、ハリウッド映画ならほぼ必須になる。そして、執着の対象というのは表面的には必須ではなくても水面下の存在としては在るのが望ましい。初期のヒッチコックの映画では、「謎の存在」(多くの人の執着の対象)の争奪戦がだいたいの話の大筋である。「めまい」では謎の美女への主人公の執着が話を生む。
また4の敵と味方というのは、漱石の「坊ちゃん」では明白だが「三四郎」ではさほど役割化されない。つまり、「仲間」や「友人」というのは、敵が存在する場合に「味方」となるのであって、最初からそういう役割として存在するわけではない。

言い換えれば、小説的フィクションは大きく

A:戦いの話
B:愛情の話

に分類されると言えるかもしれない。当然、男はAを好み、女はBを好む。

そしてどちらの場合も「問題と解決」が話の大筋(あるいは各エピソード)になる。
たとえば「赤毛のアン」では、主人公の「赤毛」が主な問題であり、それに伴う劣等感と癇癪と夢と希望が話を作っていく。つまり、「容姿」というものが女性に持つ意味は男の場合の「戦闘能力」に等しいと言えるかもしれない。(男なら、戦闘能力の養成課程そのものが「話の面白さ」のひとつである。つまり武芸訓練の話などだ。)(「赤毛のアン」だと、容姿の問題は自然に解決する。つまり、主人公の肉体的成長で容姿の醜さが目立たなくなり、人格的成長で容姿をあまり気にしなくなる。だが、最初から実は主人公はさほど醜くはなく、その自意識過剰のために過度に反応するのだが、そういう設定は、後の少女漫画の「自分を平凡と思っている女の子(あるいはメガネの女の子)が実は美人」という「トリック」に共通するかもしれない。自分の知らない長所を他人が高く評価している、という「幻想」も快いのである。)
だが、「問題と解決」というのは大きな考察テーマなので、稿を改めて考察したい。

また、たとえば「無法松の一生」のように「運命に恵まれない優れた人間の崇高な悲劇」というのは、話全体が象徴性を持ち、市井の人間の話でもギリシア悲劇的な象徴性と偉大な感じを与えるわけだが、或る種の「神々しさ」というのは単に自己犠牲だけから生まれるのかどうか、というのも考察したい。おそらく「運命(持って生まれた環境や条件など)という、勝利不可能な強大な敵」との戦い、あるいはそれに翻弄される人間(善なる存在)の奮闘努力が観る者に痛ましさと同情を生むのだろう。この観る側(受容者側)の「同情」や「共感」というのも考察テーマにするべきかと思う。
つまり、「勝てる相手」との戦いは「面白い」し、「勝てない相手」との戦いは悲劇として崇高感やシンパシーを生むと言えるだろうか。
もちろん、「無法松の一生」の表面的テーマは恋愛であるが、それは「最初から実現化不可能な恋愛」であることから、観る者に主人公への同情と応援したい気持ちを生み、また、その恋愛が実現することはマドンナ的存在が聖性を失うことへの失望を生むという、「極限状況の恋愛」なのである。だから、それは「勝てない相手(運命)との戦い」でもあるわけだ。この作品の異常な感動の原因はそこにあると思う。つまり、原理そのものは「オイディプス王」なのである。それが、愛嬌と超人性(超人性ではジャン・ヴァルジャンと共通している。)を共に備えた主人公によって親しみやすい話になっているから、構造の持つ「運命悲劇」という面が隠れているわけだろう。要するに、「解決不能な問題」もまた感動の対象になる(それどころか、描き方次第では最大の感動の対象になる)、ということだ。
これから幾つか、創作の土台となる基本思想を考察して明確にしておくつもりだが、それは或る意味、哲学でもある。我々があまりに当然だと思っていることを、改めて、それは当然なのか、と考察しようということだ。まあ、さほど考察ネタがあるとは思わないので、二つか三つで終わるかもしれないが、一応「創作のための哲学」という項目を立てておく。
忘れないように書いておくと、「少数者による多数者の支配の原理・手段」というのもその一つである。

だが最初はまず、「戦うことの意味」を考えたい。
意味も何も、人はふつう戦いに「巻き込まれる」のであり、自分の意志で戦いを起こす、あるいは参加するのは稀である。後者(参加)はたとえば戦争(広義のそれ)が勃発した際に起こる。前者はその戦いによって経済的利益を得る資本家や支配階級が積極的に戦いを起こすことなどである。だが、それは「戦う当事者」の問題ではないので、ここでは深くは追究しない。

だが、フィクションにおいて男は(稀に女も)ほとんど常に「戦う人間」である。そこにどういう意味があるのか、というのがここでの主な考察主題だ。
もちろん、創作側から言えば単純に「戦いは面白い」からであることは明白だ。いろいろな冒険、危険、スリルに満ち、感動的場面も作りやすい。人間性の本性も出る。特に相手は悪、こちらは善、とするなら受容者(読者・観客)の共感も得やすい。そして、たとえフィクションでも「死」の切実さは読者や視聴者を興奮させやすいのだ。

では、現実とフィクションを問わず、戦う当人は「何のために」戦うのか。
1:自分の生命や身体、財産を守るため。
2:自分の家族、恋人、友人を守るため。
3:自分の属する組織や国家を守るため。
4:戦うこと(暴力・殺人)が好きで楽しいから。
5:戦いでカネ(利益)を得るため。
6:国家や組織に強制されてやむなく。

まあ、ほかにもあるだろうが、これくらいにして後で思いついたら付け加える。
この中で、4は稀少な例だろうが、実は武道漫画の本質はこれである。自分の中の暴力衝動の解放と満足が勝負の勝ち負けでとどまれば武道やスポーツであり、殺人に至れば戦争だ。
6が、徴兵された兵士の大多数だろう。その内心の葛藤を描けば反戦小説や反戦漫画になる。
5は、たとえば「ブラックラグーン」や「ゴルゴ13」の世界である。ハードボイルド小説にもしばしばこの種の「殺し屋」は出てくる。そして受容者はそのクールな殺し屋(或る種の「超人」として描かれる。)たちをカッコいいと思うのである。いや、これは非難しているのではない。ただ、受容者のそうした「暴力や殺人への嗜好」を直視して論じた人は少ない気がする。べつにPTA的モラルだけの問題ではなく、大きな社会的影響が、案外そこにあるかもしれない、という話だ。

で、以上3つを除けば、他の3つが「何かを守る」でくくられるのは面白い。6もそのひとつであると言える。徴兵を拒否したら非国民扱いされ、自分も家族も生きづらくなるのが明白だから、自分や家族を守るために徴兵に応じるわけだ。
つまり、或る種のサイコパス(武道家も軽度サイコパスと私は見ている。いや、勝敗が基本要素のスポーツ、つまり勝負事を好む人間も広い意味ではそれに属するかもしれない。)を除けば、人は「自分やその関係者を守る」ために戦うわけである。
何を当たり前のことを仰々しく書いているのだ、と言われそうだが、哲学とはそういうものだ。
「当り前のこと」が本当に当たり前か、丁寧に検証していく作業が哲学なのである。

通常の冒険ものとたとえばゾンビ物との違いは、前者がふつう自分から積極的に戦いに参加するのに対し、後者は「襲撃されて、その防御としてやむなく」戦うということだろう。そのため、私などから見れば、後者にはホラー性やスリラー性はあっても「爽快感」は少ないように思う。そもそも、明るい美しい自然の中でゾンビと戦う映画やドラマはあまり無いのではないか。美しい野原や陽光とゾンビは似合わない。ゾンビ物の「束縛感」「閉塞感」とその舞台は対応しているようだ。
つまり、「戦う」とは言っても、その「快感」(見る側の快感)は戦いの種類(戦に至る状況や戦いの必然性)や相手によって異なるのではないか、という「断片的思想」をここで提出したわけだ。
ただし、私が途中で視聴放棄したアニメだが、「ゴブリンスレイヤー」などは、相手がゾンビ的存在だのに、主人公側が積極的に戦いを挑むわけで、これは「害虫駆除」アニメと言うべきかと思う。「ゴーストスイーパー」の類だ。「GS美神」の非コメディ版と言える。ただし、「ゴブリンスレイヤー」は視聴にうんざりするほど欠点は多かったが、「戦略」の面白さを追求した姿勢だけは私は良いと思っている。
この「害虫駆除」というのは、実は「殺し屋もの」と共通性があり、殺し屋たちが殺す相手はたいてい社会の悪的存在に描かれている。そうでないと視聴者に不快感を抱かせることを作り手側は熟知しているからだ。「必殺シリーズ」と言うか「仕置人シリーズ」などもそれで、殺される奴はたいてい悪い奴である。だが、現実には政権や上級国民にとって都合の悪い野党政治家などが暗殺されるのであり、そこは現実とは大違いである。

「戦うことの意味」については、考察は不十分(たとえば仲間うちの戦い、内ゲバの問題など)だが、長くなったのでこれくらいにしておく。



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